2011/12/13

12月は別れの季節


Felicidades!!

12月に入ってタリハは再び卒業式の季節。日本でいえば3月にあたり、年度の終わりとも重なって別れの季節です。
 
小学校の終業式・卒業式は子供も保護者一緒に運動場のまわりに好きに座るという、先生の日や母の日などの行事と形態のかわらないカジュアルなもの。子供たちはあちこち走り回っています。校長先生や進行役の先生達の話も聞いているのかいないのか。拍手はあるので、たぶん聞いている??私もお礼を兼ねて少し話をさせてもらいました。式は卒業する8年生によるダンス、スピーチ、歌、そして成績優秀な子の表彰には保護者も一緒に出てきて写真屋さんによる記念撮影などなどにぎやかです。これに比べると、高校はずっとフォーマル。日本のようにしーんと静かではないことを除けばそれほど形式は変わりません。連れてこられた子供たちはやっぱり遊んでるけど。

紙すき後、思い思いに作ったカード
12月最初の月曜日はHumberto Portocarrero 2高校の卒業式に招待されました。卒業する4年生は60人。他校に比べても大人数。この高校で一番関わりを持ったのは3年生のクラスだけれど、4年生にも授業をしたことがあって、それ以来人懐っこい生徒たちは校内で見かけると“Prof(先生)!”と気軽に声をかけてきます。11月半ばにこの高校で行った環境フェリア。私は3年生とコンポストやミミズの展示作り、1年生と分別した紙を使って紙すきを行うのに忙しくて4年生とは何もできなかったのだけど、彼らはゴミの分別とリサイクルについての授業を覚えていて、それをもとに分別の大切さを訴えるチラシを作り、学校の周りの家々を訪れて説明、リサイクル業者の紹介をして、ペットボトルを回収するという取り組みをしました。フェリア当日はその様子を撮ったビデオを上映、フェリアの始まる前も近所をまわって回収したとかで、ペットボトルを抱えた生徒が大勢いました。その子たちももう卒業です。

お母さんと入場(Nazaria校にて)
諸事情で少し遅れて到着すると、ちょうど卒業証書授与式の真っ最中でした。席についた早々名前を呼ばれて?のまま中央に出されると、卒業証書を渡せとのこと。5人の生徒におめでとうといって証書を渡し、握手して頬にキスを交わしました。先生達の名前が引き続いて呼ばれ、数人の卒業生に次々と卒業証書を授与していきます。ちょうど順番に間に合ったのです。こういうのもいいなあと思いました。授与式の後は、在校生のスピーチ、卒業生のスピーチ、卒業生から学校へプリンターの寄贈、保護者から担任の先生への記念プレートの贈呈、卒業生の歌と式は続きます。どの高校でも、入場は必ずお母さん、お父さんや兄弟など生徒にとって特別な人と一緒に花道を歩いて入場します。腕を組んでしずしずと。式の最後は、記念撮影。そしてみんな帽子を投げあげます。この瞬間が好き。



別れを惜しんで抱きあう卒業生
 この日、式の後は先生達のパーティーがあるということで、少し顔をだすことにしました。ところが校長先生も乗る車が向かったのは生徒宅。ちょうど運転していた先生は4年生の担任の先生。生徒宅に呼ばれたからちょっとよっていくとのこと。でもちょっとのはずが、男の子のお母さんがなかなか帰してくれません。先生が来てくれたのが嬉しくてたまらない様子。杯を重ねるにつれて担任の先生の顔も赤くなってきます。他の先生達からは何度も電話がはいり、みんな待ってるよ~と気が気じゃない。ようやく家を後にした時には1時間以上たっていました。真っ赤な顔をした先生の運転(ちょっと怖かった)で先生達の1人のお宅である会場へ。1時間半近い遅れとはいってもそこはボリビア、みんな気長に待っています。ビールで乾杯、お昼御飯を食べ終わると、もちろんダンスタイム。ボリビアのフィエスタにはつきもの。若い先生もおじさん先生も全員踊ります。CumbiaSalsa、タリハならではのCuecaChacarera。年度の締めくくりの日でもあり、先生達にとっても嬉しい日です。高校卒業はボリビアでは日本よりずっと大きな意味を持ちます。田舎に住む生徒の1人の家ではなんと牛を1頭つぶしてお祝いしているとか。パーティーの後おしかけようとみんな大笑い。きっとすごい肉の量でしょう。自慢の娘が無事卒業したお父さん、お母さんの喜びが伝わってくるようです。

   別れの季節は私にも巡ってきます。一番仲がよくて一緒に働いた先生であるDurvynが実家のあるスクレに戻ります。おばあさんが亡くなってから、家族のことが心配でまだ迷っているようだけれど、彼女はベネズエラへいく奨学金を手にしていて、5月には向こうの大学に行くことが決まっています。Nazaria Ignacia March高校の卒業式の後、前から食べたいといっていた日本料理(といってもカレーにさやいんげんのお浸し、わかめとじゃがいもの味噌汁ととっても簡単なものだけど)を用意して、小さなお別れ会を開きました。彼女にはほんとにお世話になりました。ありがとう!
 
 週末、インカ道を歩いて以来、久しぶりにハイキングに出かけました。Padcaya(パドカヤ)というタリハ市内から40分ほどのところにある村に行き、そこから2時間ほど離れたところにある小さな滝まで歩きました。雨季に入って雨続きのタリハ。この日も降られたけれどやわらかい雨で気持ちいい。メンバーはほぼ同じ。インカ道を歩いたときにいたフランシスコの代わりにオランダ人のJudit(ユディット)が加わっただけです。環境や教育に携わる人間同士として、タリハにおける外国人として、彼らとは多くの情報交換をしてきました。イタリア人のジョルダナは1月末に帰国、トムとユディットも2月には仕事の拠点をラパスに移す予定です。ジョルダナはずっと前からお茶のお点前を見たいと言っていて、急遽家でお茶を点てる約束をしました。彼女も帰国前にあちこち旅行するし、私も夏休み中にやっておきたいこともあって、2人ともがタリハにいる時間は1月の半ばほんの一時しかないことに気付いたのです。ばらばらになる前にもう一度小さな旅行をしたいねとみんなで話しました。

  そして、11月末に行われた隊員総会。

午前中に行われた総会の後は隊員の活動と日本文化を紹介するフェリアを行いました。4月に続いて第二弾。テーマはArco Iris(虹)、日本とボリビアのかけ橋です。大勢の仲間と訪れてくれたボリビア人とで作り上げた本当に楽しいフェリアになりました。それでも、総会では仲のよかった人たちの多い隊次や3月に帰国する一部の同期の挨拶などもあって、大事な時間が指先からこぼれていくような感じもしたのです。とはいっても、この感覚があるから、総会そのもの、懇親会や打ち上げ、担当した写真展示ブースの準備過程やフェリアでの発表に向けて練習してきた「情熱大陸」が忘れられないものになるのだと思います。そう、情熱大陸、結構ちゃんと弾けました(と思った)。仲間のプロ並みにうまいギターとピアノに助けられて。あとからビデオをみたバイオリンの先生も「助けてくれてるね~」と言ってました。で、これからはもう少し基本をやろうね、とも言われました。ビデオを見ると音が泳いでて、かなり恥ずかしい。でも頑張りました。DELEの勉強そっちのけで練習したかいがあったかな。一緒に音楽をするって楽しいなあと思いました。

 茶道から生まれた言葉、一期一会。一期は一生、一会はただ一度の出会いの意味です。 「茶席で、たとえ何度同じ人々が会するとしても、今日の茶会はただ一度限りの茶会であるから、 亭主も客もともに思いやりをもって取り組むべき」という千利休の教えからきています。お道具、お軸、花、風、光、におい、集う人とその心持ち、一回一回のお茶席に同じものはなく、二度と戻ってはこない時間だからこそ、かけがえのないものになります。そして、それはお茶席に限らず全てにおいていえること。別れの季節にはこの言葉がいつも身にしみる気がします。ちょっと感傷的かもしれないけれど、それでもこんなことを考える余裕があるから、一瞬一瞬の出会いを大事にしようと改めて思えるのだと思うことにしています。友人、仲間、恋人との出会い、その一方の果てに最も身近な家族、もう一方の先にはゆきずりの人があると思います。身近な人々との当たり前のように捉えてしまいがちな時間、一瞬言葉や視線を交わしただけの人々との時間、どれも同じ形では二度と戻ってこない、貴重な一期一会。死があるから生が輝くように、別れがあるから出会いがいとおしいものになるのだと思いたいです。 


 Humberto Portocarrero2の卒業式。卒業証書を受け取りながら1人の生徒が言いました。「あなたに会えてよかったです。」出会った全ての人にこの言葉が贈れたらと思います。雨が降りやまない、ちょっとセンチメンタルなタリハの夜でした。

2011/12/07

緑の樹海ロボレの旅とDELEの試験





いつの間にか師走です。11月は怒涛のように過ぎていきました。
 
UNEFCOでのセミナーが終わったばかりの11月最初の週末はサンタクルスからバス5時間、世界遺産にも認定されているイエズス会の教会群の1つが残る村サンファン・デ・チキトス(San Juan de Chiquitos)へ、一泊した後夜行列車でさらに5時間、温泉で有名なロボレ(Robore)へと出かけました。TIPNIS問題に関連して1ヶ月以上続いた移動禁止令が解け、喜び勇んで出かけたロボレへの旅は大きな期待を込めたその予想もはるかに超えた素敵なものになりました。何より一緒行った仲間のおかげで、笑いの絶えない旅に(^^)

サンファン・デ・チキトスのプラザで、ひと際目をひく外側は石作り、中は木造の教会は土着の文化を守りつつ、布教活動と共に衛生教育や基礎教育を行って人々の生活の質を高めたイエズス会の僧侶の働きを思わせる静かなたたずまい。老齢ながらかくしゃくとした神父様が時間外にも関わらず礼拝堂をあけてくれました。翌日出かけたロボレの温泉はぶくぶくお湯の湧き出る砂の穴にはまったり、大きな池のようになった暖かい水の中を魚と泳いだり、泥バックをしたりと楽しいもの。ここまでは想像していた範囲。


予想を超えていたのは、絶対に行ってみなさいと地元の人々にすすめられた、ボリビアのエアーズロックとも言われるチュチョスの赤い岩や、その麓に建つ名もなき地元の人々の彫った木の彫刻絵で飾られた簡素な教会、そしてサンティアゴ村(Santiago de chiquits)の山から望む遥かブラジルまで広がる緑の樹海でした。ゆっくり動く雲の影の下はさらに深い緑。もくもくの入道雲は雨を伴って少しずつこちらへ近づいてきます。緑が真っ青な空に映えて、乾いた土と侵食された大地、まばらに生える草木を見慣れた目には眩しいほどで、山の先端から見下ろすと、両腕を広げて緑の海へ飛び降りたい気持ちになりました。ナウシカだ、ラピュタだと騒ぎながら、飛んだり寝転んだり。そしてロボレからサンタクルスへの帰り。ふかふかと快適な夜行列車の車窓からは、煌々と輝く月明かりのもと、チュチョスの岩山とどこまでも続く樹海を眺めることができ、なかなか眠ることができませんでした。




その2週間後にやってきたのがDELEの試験。ふらふらと誘惑に負けることも多かったけれど、仕事が終わって家へ帰った後はDELEの勉強に時間に費やしてきました。試験2日前、17日にラパス入り。携帯電話をタリハに忘れてきて、何かと携帯がないから・・・と周りに迷惑をかけました。なんやかんやと世話をやいてくれた仲間たちに感謝です。早めにラパスに来たのは、日本人にスペイン語を教えなれた先生にDELEに向けた特別授業を受けれると教えてもらったから。そして、この授業が本当に素晴らしかったのです。DELEの練習問題のテキストで解いた問題の中で、わからないものや、答えに納得がいかないものを片っ端から先生にぶつけ、複雑な文の構造の分析や知らない熟語や文法事項を教えてもらう方式。加えてオーラルテストに備えて4コマ漫画の描写やライティングパートの題に応じて書いてきた作文をみてもらいました。たった2日とはいえ、木曜日午後に約3時間、金曜日の朝に1時間、昼に2時間半、また夕方に2時間という集中講座ぶり。そしてその合間は喫茶店で予習・復習を行いました。先生の熱心さと一緒に勉強する仲間の存在で、100%真剣に取り組むことができました。2日間しかないという切羽詰まった状況だからこそもてた時間なのかもしれないけれど、試験当日にはこの集中した時間が終わってしまうのを寂しく思いました。


DELEとはDiplomas de Español como Lengua Extranjeraの略称。C2レベルをトップにA1まで6つのレベルに分かれています。今回受験したのは中級レベルにあたるB2。試験代は900ボリと結構します。試験はリーディング、ライティング、リスニングとグラマーに加えて、個別に時間が設定されたオーラルの5つのパートから成り立っています。ラパスのB2受験者は15人ほど、ドイツ人やフランス人が多くいました。テキストよりリーディングがずっと簡単だったこと、少々時間配分に失敗したけれどライティングもソコソコ書けて、ほっ。休憩時間の後少し気を抜いて臨んだリスニングで・・・。練習問題では他のパートよりはとれそう!?とそれほど心配していなかったのに、まったく集中できなくて、自信が持てる解答が1つもない間に終わってしまいました。その動揺を引きずって、グラマー。難易度はテキストと同じだったけれど、確信のもてない問題がたくさんで、早くに終わって席を立つ受験者が多い中最後まで粘りました。終了の合図の時にはほーっとため息がでる思い。お昼ご飯は受験した仲間たちと会場近くにある日本料理屋「けんちゃん」でお寿司を食べて景気づけして、午後2時40分からのオーラルに備えました。オーラルは練習の甲斐あって、面接官との会話もなめらか、ちょっと笑ってもらうこともできて、細かい間違いを除けば無事終えることができました。先生によると、各パートにつき80%の正答率を求められるというから、なかなかの難関。勝負は(大きく出ても)五分五分といったところ。それでも全力をだして取り組んだもの。結果が楽しみです。


 

 試験翌日、日曜日。仲間のいる標高4000m近い村Curahuara de carangas(クラワラ・デ・カランガス)へ出かけました。El Alto(エル・アルト)からOruro(オルロ)往きミクロに乗って1時間半。途中の村Patacamaya(パタカマヤ)でミクロを乗り換え、そのミクロが一杯になるのを待つこと30分。さらに1時間半かけてクラワラにたどり着きました。日帰りのちょっと強行軍だったけれど、そこで出会ったのはアルパカとリャマとビク―ニャの赤ちゃん。よっぽど運がよくないと見られるものではありません。一人前につばを飛ばして威嚇しようとする2頭のビク―ニャ赤ちゃんのお姉さん格。でも全然つばはとんでこなくて。アルパカとリャマの赤ちゃんはとても臆病。なかなか触らせてくれなかったけど、ふわふわしてとてもかわいいのです。ボリビアではここにしかいないというリャマに似たグワナコも見せてもらいました。凶暴だというこの2頭のグワナコの世話は隊員達にまかされていて、彼らとの攻防戦は(いろんな)涙なしでは聞けない話です。囲いを壊して野菜畑に乗り込み、収穫間近の野菜食べられてしまった、蹴飛ばされて1メートルほど飛ばされた(現場見せてもらいました)などなど。モルモットに似たクイは食用。クラワラのビジネスにできないか考えているそう。一度食べてみた仲間。大きさからもやむをえず、姿焼。後で気持ち悪くなったとか。かわいがっている動物を食べる・・・まだ経験したことのないことです。それも本当はおかしなことなのだけれど。
 

クラワラの見どころの1つは藁ぶき屋根の、塩でできたような白い不思議な教会。スペインからやってきた宣教師によってキリスト教に改宗した、地元のインディヘナの人々によって描かれた絵が残っていました。ほとんど光の差し込まない小さな窓のおかげで、自然の塗料を使っているにもかかわらず、300年たった今でも色鮮やかに保存されています。宗教画はあまり好きでない、というよりよほど有名な物でない限りわからないのですが、ここの絵は聖書にしたがって教えられたことを素直に信じ、それをそのまま写し取って絵にしたような素朴なものでとても魅かれました。最後の晩餐の絵では本来なら皿には魚がのっているはずが、クイになってたりするのをみるとなんだか嬉しくなります。勝手な想像だけれど、頑固だけれど穏やかな人々の気質が伝わってくるようです。人口5000人の本当に何もない静かなこの村で、野菜作りを頑張ってきた仲間は、ぐんと迫ってくるような空を見上げ、週末にはプラザで寝ころんで本を読むととても気持ちいいのだと言いました。日本ではきっと持つことのできない時間だろうと。

翌日、午後5時半、長距離バスでラパスを発ちました。相変わらずのデモと道路封鎖でラパスからエル・アルトまでに1時間以上かかり、さらにオルロとポトシの県境で起こっている衝突のために夜中に長時間バスが止められ、タリハに着いたのは午後1時半。20時間かかったのでした。それでもさほど疲れを感じることもなく、午後からの仕事に出かけました。慣れとはすごいなと思います。このデモと道路封鎖は月末に行われた安全対策会議で提示された資料によると年間1000件を超えるとかで、ボリビアでは1日に3つ別々の場所でこれらが行われていることになります。暇というかなんというか・・・と文句も言いたくなるけれど、差別され虐げられてきた先住民をエンパワーメントへ導いた手段でもあります。タリハへ戻って次週に行われる総会への準備を進めるうちに耳にしたのは、一度は撤回したTIPNISの道路建設を大統領が再開したとのニュースでした。道路建設に反対し1ヶ月以上かけて歩いてラパスにたどり着いたTIPNISの人々とその支持者を事実上の首都であるラパスの住民が町をあげて迎え、ねぎらい、政府との交渉をサポートしたことを思うと、このままですむとは思えません。去年大荒れに荒れたガソリンの大幅値上げ。政府は今年度末も値上げを行うと宣言しており、このTIPNISの動きと相まって、今年の年末もボリビア中が大きく揺れる気がします。豊かな自然と静かな村、その一方で大きく動く時代の流れのようなものがあって、ボリビアの静と動を感じています。