2012/02/24

活動20ヶ月目!


2月半ば、学校へ打ち合わせに行き始めました。夏休みが明けて2ヶ月ぶり。学校の先生たちも「どうしてたの!?」と歓迎してくれて、ちょっと嬉しい訪問です。ボリビアの新学期は2月から始まります。毎年この時期にInscripciónといって 生徒と保護者が行きたい学校へ行って登録をする仕組みです。もちろん各学校定員があるからそうコロコロ変わるわけにもいかないし、毎年の登録は大変ではありますが、1年通った学校が子供に合わなければ比較的簡単に別の学校へ変わることができます。この時期まだ休暇から戻ってきてない生徒も多くて、学校はすかすか。25人の生徒中18人しかいないなんてクラスもあります。

U.E Teresa de Calcuta(テレサ・デ・カルクタ校)へは昨年なかなか全体で動けず、一緒に働いた先生はもう嫌になっていないかなーと多少心配しながら行ったのだけど、担当のクリスティーナ先生は新たに協力してくれる先生も見つけ、保護者のなかにもリサイクル業者を営んでいる人がいるし、高等部とも連携したいと色々とプランをもっていていい始まりになりました。実はここの高等部(午前の部)では以前紹介した、生徒と野菜作りを行って素敵なフェリアを開いた先生も教えていて、来年(今年)はコラボしようと話していたのです。先生達同志で話が通じているなら尚更理想的!

U.E La Salle(サジェ校)は先生、生徒向けのワークショップを終えたところで夏休みに入りました。ここは公立ながら、伝統のある学校で保護者、生徒ともに教育に熱心。とても人気があって1年生の保護者のなかには登録をするために徹夜で学校の前に並んだ人もいるほどです。生徒も全員そろっています。ここでまず昨年あまりできなかった生徒を中心にした取り組みをしたいと考えています。提案してみると校長先生も、委員会の先生たちも前向き。もう少し計画を練るためにある日の午前中に担当の先生4人が私のオフィスに集まってきました。まず手始めに5・6年生が分別の仕方と注意点を書いた壁新聞を作り、下級生のクラスをまわって説明し、壁に貼っていく、そして同じく5・6年生の有志で環境委員会を作り、分別の管理と評価も行っていくことになりました。この環境委員会が自主的に動けるようになれたら!そう簡単にはいかないけれど、初めの一歩。うまく軌道にのりますように。
 
そして嬉しい驚きは、昼休憩も近い時間にひょっこりDurvyn(ドゥルビィン)が訪ねてきたこと。ベネズエラ留学の日程が未だにはっきりせず、情報もないということでとりあえず今まで働いていたU.E. Humberto Portocarrero 2(ウンベルト・ポルトカレロ校)に戻ってきたそうです。ウンベルト高校は彼女の協力でリサイクルのシステム作りからコンポスト・紙すきまでやりたかったことがだいたいでき、最後に環境フェリアをし、卒業式にも出席して気持ちよく終わることができた学校です。先生たちの遠足にも参加させてもらって、サマの山の麓でParillada(バーベキュー)をしに行きました。今学期はChaco(チャコ)のほうへ行く企画が出ているそうで、これも楽しみです。みんな来るのを待っているよと嬉しい言葉。実際、数日後に出かけると、去年の担当の先生たちはプロジェクトを続けようとやる気。昨年は初めての試みであまり成果があがったとはいえないから、今年はもっとよくしたい、そのためには評価の仕組みをしっかり作らないといけない、コンポストを使い畑作りを全校生徒でするために学校脇の土地を使えるよう市に要請しよう等々これも色々な案がでて、説得力のある要請書を書くために、カーニバル後私の職場で集まろうということになりました。

コンパドレの日
2月当初は登録、そしてカーニバルで何もできないだろうと覚悟はしていたけれど、ずっとオフィスに詰めているとちょっとくさくさするところもあって こんな風に学校に行けるのは楽しいことです。今年のカーニバルは去年よりずっと早まって18日から21日まで。そのおかげで、その2週間前の木曜日にCompadre(コンパドレ)、翌週にComadre(コンマドレ)、そしてカーニバルの翌週にEntrada Folclórica(エントラーダ・フォルクロリコ)と主だったお祭りが2月に終わります。「おかげで」というのはお祭り期間中ほとんど仕事にならないから。去年はカーニバルがもっと遅くて3月一杯ほとんど何もできなかったのです。葡萄の町Valle de Concepción(バジェ・デ・コンセプシオン)のお祭りは3月最初の1週間。これは少し離れた村で行われるからタリハ市内の学校にあまり影響はありません。
 
職場でタリハ料理サイセをみんなでCompartir!

コンマドレ用のパンを焼く
マリア・リリアとコンマドレに

12月から1月にかけてほぼ2カ月あった夏休み。(まだ書ききれていないけれど)サンタクルス内をピンポン玉のように動いて、自然に根ざした暮らしをしながら滞在者を受け入れる家族やイタリア人が営む芸術に重点をおいたフリースクール、日系移住地の大きな農家などを訪れました。1月末にはイグアスの滝を中心にパラグアイ、アルゼンチン、ブラジルを巡る短いけど盛りだくさんの旅もしました。
 

そんなこんなで1月タリハにいたのは1週間(出かけ過ぎ!?)。この間10月末に行った4日間の教員向けワークショップを再度行いました。40人以上登録があるけど大丈夫かとわざわざUNEFCOの職員が電話をくれたけれど、蓋をあけてみれば前回と同じく25人。ちょうどいい人数で始められました。環境に関するプロジェクトに興味のある校長先生やベテランの先生に混ざって、少しでも資格のほしい若い先生達がやってきます。

ワークショップで大切にしたいのは「何について考えるかではなく、どのように考えるか」。自分なりのテーマです。本やインターネットを見れば基本的なデータは得られる時代。そのデータを基にどのように考えるのかは、こうしさえすればいいという1つの答えなどない環境問題に取り組むには何より大事です。考えることを中心に据えたアクティビティをいくつか体験してもらい、自分たちで学校内の研修や教室で実際に使えるようにしました。紹介するアクティビティは本で見つけたものの他、同じく環境問題に携わる友人に教えてもらったり、彼らが実際に行っている現場を見学させてもらったりしたものです。学校現場ということもあり、授業案もしくはプロジェクト案を作るのに必要な年間計画、月間計画の立て方、学習指導案や教員同士の協力体制の作り方なども伝えてきました。こうして書いていると大層格好よく聞こえることに自分でもびっくりだけど、実は結構グダグダだったりします。特に今回は2回めということもあって逆に気がぬけたところもあって、これは猛省。慣れとは怖い。そして最大の問題点はやっぱり言葉・・・。


加えてもう一度考えなければいけないのはテーマのこと。「どのように考えるか」を教えることは言葉でいったら簡単だけど、壮大なテーマ。生徒に「どのように考えるか」を伝えるためには先生が「どのように考えるか」を考えていなければならず、しいては先生達にその大切さを説く私自身が、ということになるわけで・・・。私にとって、とても厳しい問いかけです。「教育は生徒に知識を植え付けるものではなく、教師と生徒の対話を通した学びに基づくものでなければならない」と言ったのはブラジルの教育学者パウロ・フレイレ。絶対的に正しい知識を持った教師(植民者)とそれを教えられるべき“未開”の生徒(被植民者)という従来の教師―生徒関係を批判し、多文化教育や先住民教育をはじめ教育全般に大きな影響を与えて、繰り返し引用されてきた言葉です。脱植民地主義を掲げるエボ政権の新しい教育法では1つの柱(言葉だけが独り歩きしている感はあるけれど)となっています。理想と現実のはざまで頭から消し去っていた言葉に思わぬところで再会です。教えることと学ぶこと。対極にありそうでいて、実は重なり合っているこの2つ。3月に行う次回のワークショップに向けて頭が許す限り考えをまとめたいと思います。

2012/02/10

バジェ・グランデ~チェ・ゲバラの面影を訪ねて~



夜11時半。
窓をあけると、
ざっざっ、ざあー。
ざっざっ、さあー。
通りの石畳を掃く規則正しい音。

1月2日、サマイパタからバジェ・グランデ(Valle Grande) へ出かけました。サンタクルスを出てサマイパタに11時~12時の間に通りかかるはずのバスを待ちます。何があったのか、12時をまわってやってきたバスは人でいっぱい。通路にも椅子を持ち込んだ人々が座っています。荷物の配達もかねているバスはしょっ中止まって、バジェについたのは午後4時前。最初は通路に座り込んでお弁当を食べたりしたけど、途中から外の景色が見たくて親子連れの座席のひじ掛けに腰かけさせてもらいました。この親子、母親と20代くらいの娘さんなのですが、娘が母親の胸に顔をよせ、母親は娘の髪に頭をもたせかけて、聖母子像のように眠っていました。日本では見かけない光景だなあと思いながら見ていました。バジェ・グランデはタリハと変わらない標高。緑が美しくて目が癒されます。

帰りの乗合タクシー(60ボリ)を予約。年末年始で移動する人々が多くどの会社も一杯でした。それからプラザに向かいます。静かな村。緩やかな坂が連なって、先が見えないところにちょっと趣があります。プラザの前のホテルをとって、観光案内所にいき、夕方17:00からのツアーを申し込みました。30ボリで病院(Hospital Señor de Malta)、チェが埋葬されていた場所、ゲリラ戦士の墓をタクシーで回ってくれます。

クリスマスの日に食事に出かけた友人Mariana(マリアナ)のお父さんがここの出身で、チェの遺体が運ばれた病院のLavanderia(洗濯場)で死体が公開された時、村人たちに混ざって見に行ったそうです。「すごく重要な人物の遺体が着くと聞いておばあさんと行った。9歳だった。」バジェ・グランデのカーニバルは有名だそうで、2月に行けばいいのになあと残念がりながら、色々な写真や本を見せてくれました。

チェ・ゲバラ、本名エルネスト・ゲバラはや映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」やソダーバーグ監督による2部作でも描かれているアルゼンチン生まれの革命家です。裕福な家に生まれますが、医学生の時に友人と二人バイクでラテンアメリカをまわる旅をし、そこで多くの貧しい人々の生活や暖かさに触れて、彼らを抑圧、搾取、不正から解放したいと社会主義思想に目覚めていきます。医学部を卒業してから社会主義革命の進行するグアテマラへ行きますが、アメリカのCIAや多国籍企業の後ろ盾をうけた軍部政権による逮捕、処刑が始まったため、メキシコへ向かいます。ここでフィデル・カストロと出会い、彼に協力してキューバ革命を成功させました。キューバ時代は経済相として日本にも来たことがあるとか。アメリカによる植民地支配を厳しく批判するだけでなく、社会主義国の後ろ盾となりつつ支配しようとするソ連にもその矛先をむけ、アメリカに対抗するためにソ連に頼らざるをえないキューバに居づらくなります。より自分を必要としてくれるところへとアフリカのコンゴを経て、ボリビアへ潜入しました・・・というのがお父さんとそして同じタリハのシニア隊員から借りた本から得た知識。

ゲバラはここボリビアでは人々の、特に共に闘おうと考えていた農民の支持を得ることができませんでした。ゲバラがボリビアにいることを察知したアメリカの精鋭部隊がボリビア人部隊を訓練し、包囲網を狭めてくる中、いくつかの部隊に分かれてジャングルで戦うゲバラの部隊は互いに連絡を取り合うこともできず追い詰められていきます。なぜゲバラがボリビアで支持を得ることができなかったのか。マリアナのお父さんは1952年のビクトル・パス・エステンソロ(タリハ出身)による社会主義的政策の一環、農地改革でボリビアの先住民に農地が分け与えられた後で、モチベーションが高くなかったといいます。政府の報復を恐れたのです。先住民の割合の高いボリビアでアルゼンチン人のゲバラはあくまでGauchoでありよそものの白人にすぎなかったのかもしれません。ツアーのお兄さんに聞いてみたら「ゲバラが何者か誰もしらなかったんだ」との答え。テレビだってない時代、単純だけどこれもありえそう。




セニョールデマルタ病院は現在も普通に病院として機能していてこの日も、翌日の朝もう一度出かけた時も、順番を待つ患者さんを見かけました。死体洗濯場、解剖室は見学者向けに公開されています。洗濯場は訪れた大勢の人たちのメッセージで埋まっていました。ハンカチで鼻を押さえながら遺体の周りを巡る村人、誇らしげに遺体と共におさまっている兵士たちなどここで撮られた写真を多く目にしてきたので、私にとって一番ゲバラを感じられる場所でした。死体解剖室は洗濯場よりさらに小高い場所にあって、ここは現在も使われているそう。血の跡がたくさん残っていて、ゲバラの手が切り落とされる様子など想像してしまいました。この手は確認のためにキューバに送られています。


 
前列左端がチェ・ゲバラの墓

ゲバラの遺体が埋葬されていた場所は長く隠されていて、死ぬ間際のボリビア軍人の告白によって遺骨が発掘されたのはつい最近1997年のことです。遺骨はキューバに送られ、家族やカストロ大統領はじめキューバの人々に盛大に迎えられました。今はサンタクララの霊廟に眠っています。発掘現場に記念館が建てられ、多くの写真が飾られていました。強い信念を持ちながらも、優しい人好きのする人柄があらわれている写真ばかりです。最後にFosa de Guerilleros、12人のゲリラ戦士が眠る墓に行きました。共同墓地に葬られていたのが、ここに集められたのです。女性ゲリラ、タニアさんが所属していた部隊。たった1人の女性ということもあり、憐れんだ村の女性によって遺体は初め村の墓地に埋められたそう。同じ部隊にはマイムラさんという日系の方もいたと後から知りました。


夕暮れのやわらかい光の中でみるゲバラの最後の地は美しくてなんだか心がしんとするようでした。と、浸っていたらタクシーの運転手が思いっきり水たまりに突っ込んで茶色い泥水がどばっと窓から飛び込んできてぶち壊されたりもしましたが。「窓があいてるとは思わなかったんだ~。ハハハ―。」ですって。ちょっとくらい謝れ~!!

これだけの世界に知られ、伝説的な英雄となっているチェ・ゲバラ。ゲバラを処刑した地であるボリビアだけど、社会主義政策を進め、キューバやベネズエラと親交を深めるエボ・モラレス大統領のもと、彼の名はボリビア人の間でも知られつつあります。それでもバジェ・グランデは商売っ気一つなく(日本なら絶対ゲバラグッズが山ほど売られているはず)、何か記念にと思っていたからちょっと拍子抜けしたけれど、これはこれでいいなあと思いました。プラザに戻ってからマーケットの方へぶらぶら。少し人の姿は増えていたけれど、あくまでのんびりとしたしずかーな村でした。

翌日出かけたゲバラ博物館のあるCasa Municipal。小さいながらゲバラの略歴や活動がたくさんの写真とともにわかりやすく展示されています。その中にゲバラが両親や子供達に残した手紙の抜粋がありました。

...One day we were asked who should be notified in case of our death and the reality of this possibility hit us all.  Later we understood how true this was.  In a revolution, you triumph or you die (if it is a true revolution). 

...I believed armed combat is the only solution for people who fight for their freedom and I am consequent with my beliefs.  Many will say I am an adventurer, and I am, only a different sort and I act according to what I believe to be true... 

...Remember that the Revolution is what is most important and each of us alone, is worth nothing.  Above all, always be capable of deeply feeling any injustice committed against anyone in any part of the world.  That is most beautiful quality of a revolutionary...

本でも読んだことがある別れの手紙。心打たれるけれど、ボリビアの貧しく虐げられているはずの民衆にゲバラの思いが届かなかった以上に、「革命」や「武器をもって立ちあがる」という言葉は私にはしっくりしませんでした。しっくりこないというもどかしさには理解できるものならしたいという思いがあります。昨年エジプトで始まりその後中東へ広がった市民の蜂起。革命に流血つきものだと言うけれど、血を流さずにすむものならば彼らだって流したくなんかなかったはずだと思うのです。それでもぎりぎりまで追い詰められた人々がとった手段はやっぱり革命であり、武器を手にすることでした。政治や経済は苦手だという私にそれはきちんと読んだことがないからにすぎないよと友人が言いました。理解したいと思いながらそうしようとしないのは、知ってしまった後の無力感やそれでも革命や闘いや抵抗という勇気ある選択をすることができるとは思えない自分からの逃げかもしれません。

ゲバラの最後の日記には自分の死が近いことを予想している記述があります。共に闘うはずだったボリビアの農民の裏切りにあい、CIAとボリビア軍の包囲網に追い詰められ、次々仲間を失い、喘息に苦しみつつ、ジャングルの中を移動するゲバラは何を考えていたのだろうか想像してみます。無力感や失敗だったという思いはあったのかなと。「私と行動を共にした一番いい銃弾、決して色あせない子供の頃の記憶、心に残る人生の断片、これらを革命にささげる。人をつなぐ力は何より強力なのだ。」映画で語られたゲバラの言葉です。不正義への激しい怒りと同志たちとの堅い絆。理想とする社会を実現させたいという断固とした信念。虐げられた人々への愛。端正な容姿とカリスマ性。色々な要素がゲバラという人間を動かし、あのような人生を送らせました。ゲリラ、革命家、闘士。強い名詞を伴って呼ばれるゲバラだけど、そんな彼を根底で支えていたのは幸せな記憶と人を信じる気持ちだと知ると少しほっとする思いがします。多くの人々が彼に惹きつけられる訳がわかる気がしました。

今ヨーロッパを中心に少しずつ広がっている反資本主義の動き。資本主義社会の顔だったアメリカの多国籍企業による搾取を植民地主義と強く批判し、社会主義思想に傾倒しながら、社会主義大国ソ連や中国の途上国に対する態度もまた資本主義的だと厳しく言い切ったゲバラ。彼が理想とした社会は、今何かがおかしいと感じ始めている人々が模索している新しい社会の在り方と同じ線上にあるのかもしれません。そして実はこれは環境問題とも切っても切り離せない問題です。最近読み始めた本に注意深くもはっきり述べられているように「私たちがモノ(STUFF)を作り、使い、そして投げ捨てているそのやり方をきちんと見つめれば、資本主義と呼ばれているある特定の経済体制の本質的機能が引き起こすかなり深刻な問題にぶつかります。はっきり言えば、資本主義は、これが現在のように機能していくならば、持続的ではないのです。(The story of stuff)」ハリ―・ポッター風にいうならば「the Economic-System-That-Must-Not-Be-Named (名前を言ってはいけない経済体制)」。ボリビアでささやかに環境教育に関わりながら感じる違和感の正体。亀よりもナマケモノよりもゆっくりのスピードで(1年半もあったのに!)環境にまつわる問題について学びながら、ぶつかるのはやっぱり政治と経済。一度は逃げたけれど、やっぱりきちんと向き合わなければいけないようです。そうすれば、ゲバラについてももう少し理解できるようになるのかもしれないと思いました。その時は今回は行けなかったイゲラ村に行きたいなと思います。

Casa Munincipal

2012/02/03

ボリビアの家族~La Familia extensa~


年が明けて、あっという間に1月も終わり。
旧正月も過ぎてしまって今さらですが・・・
謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
今年が平和で穏やかな年になりますように。

年末はサマイパタで同期と過ごしました。紅白をみながら、キムチ鍋をつつき、年越しそばをすすり、お酒を注ぎあって。行動力のある人たちが集まっているからあれよあれよという間に用意が整って、私は時に台所を冷やかすだけで、もっぱら食べる方専門。外国で紅白を見るのは初めて。東北への気持ちを込めた歌が多くて、歌う人の特別な思いを強く感じました。ボリビアにいながら日本のお正月らしい雰囲気で新しい年を迎えることができました。カウントダウンは除夜の鐘のかわりに次々あがる花火を眺めながら。

長く続いてきた伝統や習慣はやっぱりいいなと思います。日本にとってお正月が家族が集う大切な日なら、ボリビアではクリスマスがそれにあたります。卒業式が終わって一段落した12月。オルロで水祭りのお手伝いをし(お茶を点ててきました)、ラパスでAPC申請のために大使館にいき、ついでに?仲間とチョリ―タさんのプロレス、その名もLucha Libreを見に行ったり(これが完全なやらせなんだけど、すっごいおもしろい!)、日本やカナダやタリハ(なぜ?だけど4人も集まった)からの友人と会ったりして過ごしましたが、クリスマス前にはタリハに戻りました。ここボリビアで私の家族にあたるのは大家さんオルガとその家族。やっぱり彼らと過ごしたいなと思ったのです。





24日は朝から土曜マーケットへ買い物。巻き寿司をつくります。Sushiはボリビアでも有名。先日サンタクルスで材料も仕入れてきました。寿司でなくともsushiは作れるはず!日本では作ったことないから見かけは悪いけど、味はいけるはず!中身はツナマヨ、しいたけ、ほうれん草、卵とシンプル。お醤油とわさびを用意します。オルガがボリビアのクリスマス料理ピカーナを作っているから、おつまみにしてもらいます。作り終わってほっとする間もなく、仕事のパートナー、イルセンから電話です。今から迎えにいくから、ピカーナを食べにいらっしゃいとのこと。「私のピカーナを食べれるようにちゃんとお腹をあけとくのよ」とオルガにおどされながら出かけました。ピカーナのはしご。

帰ってきたらもう11時過ぎ。オルガの息子ミゲル一家とお姉さんエルヴィラ一家が来ていました。そして12時。贈り物をあける時間。主人公はやっぱりマリア・リリアです。クリスマスツリーの下のプレゼントをとってはお母さんに名前を読んでもらい、みんなに渡していきます。自分のだったら大喜びで、ビリビリ包装紙をやぶいてプレゼントをとりだします。私もいくつか贈り物をもらいました。


翌日クリスマス。再び同じメンバーが朝のお茶をしにやってきました。マリア・リリアのお母さんフリアの作った苺トルタ。おいしい!同期のちーちゃんもおすしを食べにきてくれます。大家さんのピカーナも一緒にぺろり。そうしている間にも、コチャバンバに住む姪一家が訪ねてきます。そして昼食によばれて友人宅に出かけようとすると、今度は市内に住む姪とその子供達(マリア・リリアの従弟)やラパスに住む甥がやってくるのに出会いました。クリスマスはこんな風に親戚一同お互いを訪ねあいます。オルガも午後はバジェにいってくるわと言っていました。タリハから車で30分、ワインで有名なバジェ(Valle de Concepción)にはオルガの実家があって、お母さんと妹一家がいます。近いから週1回は必ず訪れているバジェだけど、やっぱりクリスマスにはどんなに忙しくても行くのです。



年末から訪れていたサンタクルスで仲間の活動先を訪ねたある夜。ボリビアの友人2人を交えてパティオでおしゃべりしながらでたのがsobrino/a(甥/姪)という言葉の意味でした。日本では兄弟の子供を意味するけれど、ボリビアでは従姉妹の子供をも含むとか。ボリビアは日本に比べると子だくさん。還暦を迎えたオルガが8人兄弟なのは頷けても、年下の友人が8人兄弟なのにはびっくり。兄弟姉妹の数が多ければ家族のメンバーが増えるのは当たり前。それに加えて「家族」という単位の枠が広いのです。日本のように祖父母、父母、子供(孫)の一本の線ではなく、横に広がって枝分かれしています。それだけの大人数がクリスマスに1つの場所に一度に集まれないから、大勢の訪問者!という結果になるのです。

カナダにいた頃、同じ留学生でもメキシコ人の友達が家族や親せきと密に連絡を取っている様子に、面倒くさそうと思いつつどこか羨ましい思いをしたことがあります。この友人の家を訪ねたクリスマス休暇、家族や親せきあげて歓迎してくれて嬉しかったのに、入れ替わり立ち替わり訪れる親戚との食事会や家族行事にいっぱいいっぱい。伯父と伯母、父の従弟とその家族、従妹の誰々・・・次々と紹介されて、頭がクラクラ。部屋でぐたっと休んで友達のお母さんに心配されました。その頃はスペイン語も今よりずっとあやしく、よくわからない話を理解しようと聞いているのに疲れてしまったのです^^懐かしい思い出です。

日本でも一つ前の時代のお正月はこんな感じだったのでしょうか。みんなが近いところに住んでお互いを訪問し合って、新年の挨拶をかわす。家族という単位が煩わしかった時期もあったけど(ボリビア人でもそう感じる時はあるみたいで、年の近いオルガの姪カリナとイブの夜ちょうどそんな話もしたけれど)家族と離れ、その家族を何より大切な単位とみなすラテンアメリカに住んでみると、改めて家族の意味について考えさせられます。子供の頃、長い休みの度に鳥取砂丘近くの祖父母の元を訪れ、従姉弟達と過ごした日々を思い出すと、あれほど楽しかった時はない気がするのです。大人になるとなかなかそんな時間はもてなくなってしまったけれど、友達と友情を育んでいくように、家族と新しい関係を築いていけたらいいなと思います。

今年のお正月。駒ケ根からもうすぐ2年、共に過ごして今では「家族みたいだね」というセリフがでるほど、お互いに楽な関係になった同期と、お父さん的存在うえまさん宅で迎えました。軋轢が全くないわけではなく、それぞれが小さくお互いを傷つけたり、むっとしたりすることも当たり前ながらあるけれど、それでも全員集まろう!と誰かが音頭をとったわけでもないのに、サマイパタで集まってしまうのは、家族と似通った絆ができてるのかなと思うのです(最後の極め付けは25日にうちに来た後、スクレに旅立ったのに「サマイパタにきちゃいましたー」とメールをよこしたちーちゃん)。血が家族を結ぶのなら、同期としてボリビアに来たことが私たちを結んでいます。でも、こうしてわあわあ騒ぎつつ自分の場所を確保してゆるやかな時間を過ごせるのは、「血」に甘んじることなく、お互いの関係を結んできたからだと思うのです。国外へ旅行中で来れなかった仲間。でも誰かが持ってきたベニ県の小さなお面をいつの間にかヨータローと呼ぶようになって、集合写真にもちゃんとうつっています。


1月初め帰国前の仲間が言いました。「ボリビアにきて家族の大切さを感じた。」「信頼できる仲間がたくさんできた。」ボリビアに来て増えたものリストにのせるべき一番大切なものを忘れていたみたいです。
 『真の贅沢とはただ一つしかない。それは人間関係の贅沢である。』 
サン・テグジュぺリ 「人間の大地」
                   
世界中の人たちがこの贅沢を味わえますように。


2011/12/13

12月は別れの季節


Felicidades!!

12月に入ってタリハは再び卒業式の季節。日本でいえば3月にあたり、年度の終わりとも重なって別れの季節です。
 
小学校の終業式・卒業式は子供も保護者一緒に運動場のまわりに好きに座るという、先生の日や母の日などの行事と形態のかわらないカジュアルなもの。子供たちはあちこち走り回っています。校長先生や進行役の先生達の話も聞いているのかいないのか。拍手はあるので、たぶん聞いている??私もお礼を兼ねて少し話をさせてもらいました。式は卒業する8年生によるダンス、スピーチ、歌、そして成績優秀な子の表彰には保護者も一緒に出てきて写真屋さんによる記念撮影などなどにぎやかです。これに比べると、高校はずっとフォーマル。日本のようにしーんと静かではないことを除けばそれほど形式は変わりません。連れてこられた子供たちはやっぱり遊んでるけど。

紙すき後、思い思いに作ったカード
12月最初の月曜日はHumberto Portocarrero 2高校の卒業式に招待されました。卒業する4年生は60人。他校に比べても大人数。この高校で一番関わりを持ったのは3年生のクラスだけれど、4年生にも授業をしたことがあって、それ以来人懐っこい生徒たちは校内で見かけると“Prof(先生)!”と気軽に声をかけてきます。11月半ばにこの高校で行った環境フェリア。私は3年生とコンポストやミミズの展示作り、1年生と分別した紙を使って紙すきを行うのに忙しくて4年生とは何もできなかったのだけど、彼らはゴミの分別とリサイクルについての授業を覚えていて、それをもとに分別の大切さを訴えるチラシを作り、学校の周りの家々を訪れて説明、リサイクル業者の紹介をして、ペットボトルを回収するという取り組みをしました。フェリア当日はその様子を撮ったビデオを上映、フェリアの始まる前も近所をまわって回収したとかで、ペットボトルを抱えた生徒が大勢いました。その子たちももう卒業です。

お母さんと入場(Nazaria校にて)
諸事情で少し遅れて到着すると、ちょうど卒業証書授与式の真っ最中でした。席についた早々名前を呼ばれて?のまま中央に出されると、卒業証書を渡せとのこと。5人の生徒におめでとうといって証書を渡し、握手して頬にキスを交わしました。先生達の名前が引き続いて呼ばれ、数人の卒業生に次々と卒業証書を授与していきます。ちょうど順番に間に合ったのです。こういうのもいいなあと思いました。授与式の後は、在校生のスピーチ、卒業生のスピーチ、卒業生から学校へプリンターの寄贈、保護者から担任の先生への記念プレートの贈呈、卒業生の歌と式は続きます。どの高校でも、入場は必ずお母さん、お父さんや兄弟など生徒にとって特別な人と一緒に花道を歩いて入場します。腕を組んでしずしずと。式の最後は、記念撮影。そしてみんな帽子を投げあげます。この瞬間が好き。



別れを惜しんで抱きあう卒業生
 この日、式の後は先生達のパーティーがあるということで、少し顔をだすことにしました。ところが校長先生も乗る車が向かったのは生徒宅。ちょうど運転していた先生は4年生の担任の先生。生徒宅に呼ばれたからちょっとよっていくとのこと。でもちょっとのはずが、男の子のお母さんがなかなか帰してくれません。先生が来てくれたのが嬉しくてたまらない様子。杯を重ねるにつれて担任の先生の顔も赤くなってきます。他の先生達からは何度も電話がはいり、みんな待ってるよ~と気が気じゃない。ようやく家を後にした時には1時間以上たっていました。真っ赤な顔をした先生の運転(ちょっと怖かった)で先生達の1人のお宅である会場へ。1時間半近い遅れとはいってもそこはボリビア、みんな気長に待っています。ビールで乾杯、お昼御飯を食べ終わると、もちろんダンスタイム。ボリビアのフィエスタにはつきもの。若い先生もおじさん先生も全員踊ります。CumbiaSalsa、タリハならではのCuecaChacarera。年度の締めくくりの日でもあり、先生達にとっても嬉しい日です。高校卒業はボリビアでは日本よりずっと大きな意味を持ちます。田舎に住む生徒の1人の家ではなんと牛を1頭つぶしてお祝いしているとか。パーティーの後おしかけようとみんな大笑い。きっとすごい肉の量でしょう。自慢の娘が無事卒業したお父さん、お母さんの喜びが伝わってくるようです。

   別れの季節は私にも巡ってきます。一番仲がよくて一緒に働いた先生であるDurvynが実家のあるスクレに戻ります。おばあさんが亡くなってから、家族のことが心配でまだ迷っているようだけれど、彼女はベネズエラへいく奨学金を手にしていて、5月には向こうの大学に行くことが決まっています。Nazaria Ignacia March高校の卒業式の後、前から食べたいといっていた日本料理(といってもカレーにさやいんげんのお浸し、わかめとじゃがいもの味噌汁ととっても簡単なものだけど)を用意して、小さなお別れ会を開きました。彼女にはほんとにお世話になりました。ありがとう!
 
 週末、インカ道を歩いて以来、久しぶりにハイキングに出かけました。Padcaya(パドカヤ)というタリハ市内から40分ほどのところにある村に行き、そこから2時間ほど離れたところにある小さな滝まで歩きました。雨季に入って雨続きのタリハ。この日も降られたけれどやわらかい雨で気持ちいい。メンバーはほぼ同じ。インカ道を歩いたときにいたフランシスコの代わりにオランダ人のJudit(ユディット)が加わっただけです。環境や教育に携わる人間同士として、タリハにおける外国人として、彼らとは多くの情報交換をしてきました。イタリア人のジョルダナは1月末に帰国、トムとユディットも2月には仕事の拠点をラパスに移す予定です。ジョルダナはずっと前からお茶のお点前を見たいと言っていて、急遽家でお茶を点てる約束をしました。彼女も帰国前にあちこち旅行するし、私も夏休み中にやっておきたいこともあって、2人ともがタリハにいる時間は1月の半ばほんの一時しかないことに気付いたのです。ばらばらになる前にもう一度小さな旅行をしたいねとみんなで話しました。

  そして、11月末に行われた隊員総会。

午前中に行われた総会の後は隊員の活動と日本文化を紹介するフェリアを行いました。4月に続いて第二弾。テーマはArco Iris(虹)、日本とボリビアのかけ橋です。大勢の仲間と訪れてくれたボリビア人とで作り上げた本当に楽しいフェリアになりました。それでも、総会では仲のよかった人たちの多い隊次や3月に帰国する一部の同期の挨拶などもあって、大事な時間が指先からこぼれていくような感じもしたのです。とはいっても、この感覚があるから、総会そのもの、懇親会や打ち上げ、担当した写真展示ブースの準備過程やフェリアでの発表に向けて練習してきた「情熱大陸」が忘れられないものになるのだと思います。そう、情熱大陸、結構ちゃんと弾けました(と思った)。仲間のプロ並みにうまいギターとピアノに助けられて。あとからビデオをみたバイオリンの先生も「助けてくれてるね~」と言ってました。で、これからはもう少し基本をやろうね、とも言われました。ビデオを見ると音が泳いでて、かなり恥ずかしい。でも頑張りました。DELEの勉強そっちのけで練習したかいがあったかな。一緒に音楽をするって楽しいなあと思いました。

 茶道から生まれた言葉、一期一会。一期は一生、一会はただ一度の出会いの意味です。 「茶席で、たとえ何度同じ人々が会するとしても、今日の茶会はただ一度限りの茶会であるから、 亭主も客もともに思いやりをもって取り組むべき」という千利休の教えからきています。お道具、お軸、花、風、光、におい、集う人とその心持ち、一回一回のお茶席に同じものはなく、二度と戻ってはこない時間だからこそ、かけがえのないものになります。そして、それはお茶席に限らず全てにおいていえること。別れの季節にはこの言葉がいつも身にしみる気がします。ちょっと感傷的かもしれないけれど、それでもこんなことを考える余裕があるから、一瞬一瞬の出会いを大事にしようと改めて思えるのだと思うことにしています。友人、仲間、恋人との出会い、その一方の果てに最も身近な家族、もう一方の先にはゆきずりの人があると思います。身近な人々との当たり前のように捉えてしまいがちな時間、一瞬言葉や視線を交わしただけの人々との時間、どれも同じ形では二度と戻ってこない、貴重な一期一会。死があるから生が輝くように、別れがあるから出会いがいとおしいものになるのだと思いたいです。 


 Humberto Portocarrero2の卒業式。卒業証書を受け取りながら1人の生徒が言いました。「あなたに会えてよかったです。」出会った全ての人にこの言葉が贈れたらと思います。雨が降りやまない、ちょっとセンチメンタルなタリハの夜でした。

2011/12/07

緑の樹海ロボレの旅とDELEの試験





いつの間にか師走です。11月は怒涛のように過ぎていきました。
 
UNEFCOでのセミナーが終わったばかりの11月最初の週末はサンタクルスからバス5時間、世界遺産にも認定されているイエズス会の教会群の1つが残る村サンファン・デ・チキトス(San Juan de Chiquitos)へ、一泊した後夜行列車でさらに5時間、温泉で有名なロボレ(Robore)へと出かけました。TIPNIS問題に関連して1ヶ月以上続いた移動禁止令が解け、喜び勇んで出かけたロボレへの旅は大きな期待を込めたその予想もはるかに超えた素敵なものになりました。何より一緒行った仲間のおかげで、笑いの絶えない旅に(^^)

サンファン・デ・チキトスのプラザで、ひと際目をひく外側は石作り、中は木造の教会は土着の文化を守りつつ、布教活動と共に衛生教育や基礎教育を行って人々の生活の質を高めたイエズス会の僧侶の働きを思わせる静かなたたずまい。老齢ながらかくしゃくとした神父様が時間外にも関わらず礼拝堂をあけてくれました。翌日出かけたロボレの温泉はぶくぶくお湯の湧き出る砂の穴にはまったり、大きな池のようになった暖かい水の中を魚と泳いだり、泥バックをしたりと楽しいもの。ここまでは想像していた範囲。


予想を超えていたのは、絶対に行ってみなさいと地元の人々にすすめられた、ボリビアのエアーズロックとも言われるチュチョスの赤い岩や、その麓に建つ名もなき地元の人々の彫った木の彫刻絵で飾られた簡素な教会、そしてサンティアゴ村(Santiago de chiquits)の山から望む遥かブラジルまで広がる緑の樹海でした。ゆっくり動く雲の影の下はさらに深い緑。もくもくの入道雲は雨を伴って少しずつこちらへ近づいてきます。緑が真っ青な空に映えて、乾いた土と侵食された大地、まばらに生える草木を見慣れた目には眩しいほどで、山の先端から見下ろすと、両腕を広げて緑の海へ飛び降りたい気持ちになりました。ナウシカだ、ラピュタだと騒ぎながら、飛んだり寝転んだり。そしてロボレからサンタクルスへの帰り。ふかふかと快適な夜行列車の車窓からは、煌々と輝く月明かりのもと、チュチョスの岩山とどこまでも続く樹海を眺めることができ、なかなか眠ることができませんでした。




その2週間後にやってきたのがDELEの試験。ふらふらと誘惑に負けることも多かったけれど、仕事が終わって家へ帰った後はDELEの勉強に時間に費やしてきました。試験2日前、17日にラパス入り。携帯電話をタリハに忘れてきて、何かと携帯がないから・・・と周りに迷惑をかけました。なんやかんやと世話をやいてくれた仲間たちに感謝です。早めにラパスに来たのは、日本人にスペイン語を教えなれた先生にDELEに向けた特別授業を受けれると教えてもらったから。そして、この授業が本当に素晴らしかったのです。DELEの練習問題のテキストで解いた問題の中で、わからないものや、答えに納得がいかないものを片っ端から先生にぶつけ、複雑な文の構造の分析や知らない熟語や文法事項を教えてもらう方式。加えてオーラルテストに備えて4コマ漫画の描写やライティングパートの題に応じて書いてきた作文をみてもらいました。たった2日とはいえ、木曜日午後に約3時間、金曜日の朝に1時間、昼に2時間半、また夕方に2時間という集中講座ぶり。そしてその合間は喫茶店で予習・復習を行いました。先生の熱心さと一緒に勉強する仲間の存在で、100%真剣に取り組むことができました。2日間しかないという切羽詰まった状況だからこそもてた時間なのかもしれないけれど、試験当日にはこの集中した時間が終わってしまうのを寂しく思いました。


DELEとはDiplomas de Español como Lengua Extranjeraの略称。C2レベルをトップにA1まで6つのレベルに分かれています。今回受験したのは中級レベルにあたるB2。試験代は900ボリと結構します。試験はリーディング、ライティング、リスニングとグラマーに加えて、個別に時間が設定されたオーラルの5つのパートから成り立っています。ラパスのB2受験者は15人ほど、ドイツ人やフランス人が多くいました。テキストよりリーディングがずっと簡単だったこと、少々時間配分に失敗したけれどライティングもソコソコ書けて、ほっ。休憩時間の後少し気を抜いて臨んだリスニングで・・・。練習問題では他のパートよりはとれそう!?とそれほど心配していなかったのに、まったく集中できなくて、自信が持てる解答が1つもない間に終わってしまいました。その動揺を引きずって、グラマー。難易度はテキストと同じだったけれど、確信のもてない問題がたくさんで、早くに終わって席を立つ受験者が多い中最後まで粘りました。終了の合図の時にはほーっとため息がでる思い。お昼ご飯は受験した仲間たちと会場近くにある日本料理屋「けんちゃん」でお寿司を食べて景気づけして、午後2時40分からのオーラルに備えました。オーラルは練習の甲斐あって、面接官との会話もなめらか、ちょっと笑ってもらうこともできて、細かい間違いを除けば無事終えることができました。先生によると、各パートにつき80%の正答率を求められるというから、なかなかの難関。勝負は(大きく出ても)五分五分といったところ。それでも全力をだして取り組んだもの。結果が楽しみです。


 

 試験翌日、日曜日。仲間のいる標高4000m近い村Curahuara de carangas(クラワラ・デ・カランガス)へ出かけました。El Alto(エル・アルト)からOruro(オルロ)往きミクロに乗って1時間半。途中の村Patacamaya(パタカマヤ)でミクロを乗り換え、そのミクロが一杯になるのを待つこと30分。さらに1時間半かけてクラワラにたどり着きました。日帰りのちょっと強行軍だったけれど、そこで出会ったのはアルパカとリャマとビク―ニャの赤ちゃん。よっぽど運がよくないと見られるものではありません。一人前につばを飛ばして威嚇しようとする2頭のビク―ニャ赤ちゃんのお姉さん格。でも全然つばはとんでこなくて。アルパカとリャマの赤ちゃんはとても臆病。なかなか触らせてくれなかったけど、ふわふわしてとてもかわいいのです。ボリビアではここにしかいないというリャマに似たグワナコも見せてもらいました。凶暴だというこの2頭のグワナコの世話は隊員達にまかされていて、彼らとの攻防戦は(いろんな)涙なしでは聞けない話です。囲いを壊して野菜畑に乗り込み、収穫間近の野菜食べられてしまった、蹴飛ばされて1メートルほど飛ばされた(現場見せてもらいました)などなど。モルモットに似たクイは食用。クラワラのビジネスにできないか考えているそう。一度食べてみた仲間。大きさからもやむをえず、姿焼。後で気持ち悪くなったとか。かわいがっている動物を食べる・・・まだ経験したことのないことです。それも本当はおかしなことなのだけれど。
 

クラワラの見どころの1つは藁ぶき屋根の、塩でできたような白い不思議な教会。スペインからやってきた宣教師によってキリスト教に改宗した、地元のインディヘナの人々によって描かれた絵が残っていました。ほとんど光の差し込まない小さな窓のおかげで、自然の塗料を使っているにもかかわらず、300年たった今でも色鮮やかに保存されています。宗教画はあまり好きでない、というよりよほど有名な物でない限りわからないのですが、ここの絵は聖書にしたがって教えられたことを素直に信じ、それをそのまま写し取って絵にしたような素朴なものでとても魅かれました。最後の晩餐の絵では本来なら皿には魚がのっているはずが、クイになってたりするのをみるとなんだか嬉しくなります。勝手な想像だけれど、頑固だけれど穏やかな人々の気質が伝わってくるようです。人口5000人の本当に何もない静かなこの村で、野菜作りを頑張ってきた仲間は、ぐんと迫ってくるような空を見上げ、週末にはプラザで寝ころんで本を読むととても気持ちいいのだと言いました。日本ではきっと持つことのできない時間だろうと。

翌日、午後5時半、長距離バスでラパスを発ちました。相変わらずのデモと道路封鎖でラパスからエル・アルトまでに1時間以上かかり、さらにオルロとポトシの県境で起こっている衝突のために夜中に長時間バスが止められ、タリハに着いたのは午後1時半。20時間かかったのでした。それでもさほど疲れを感じることもなく、午後からの仕事に出かけました。慣れとはすごいなと思います。このデモと道路封鎖は月末に行われた安全対策会議で提示された資料によると年間1000件を超えるとかで、ボリビアでは1日に3つ別々の場所でこれらが行われていることになります。暇というかなんというか・・・と文句も言いたくなるけれど、差別され虐げられてきた先住民をエンパワーメントへ導いた手段でもあります。タリハへ戻って次週に行われる総会への準備を進めるうちに耳にしたのは、一度は撤回したTIPNISの道路建設を大統領が再開したとのニュースでした。道路建設に反対し1ヶ月以上かけて歩いてラパスにたどり着いたTIPNISの人々とその支持者を事実上の首都であるラパスの住民が町をあげて迎え、ねぎらい、政府との交渉をサポートしたことを思うと、このままですむとは思えません。去年大荒れに荒れたガソリンの大幅値上げ。政府は今年度末も値上げを行うと宣言しており、このTIPNISの動きと相まって、今年の年末もボリビア中が大きく揺れる気がします。豊かな自然と静かな村、その一方で大きく動く時代の流れのようなものがあって、ボリビアの静と動を感じています。