2011/05/30

プロジェクト始動!?




 5月。Proyecto de Concienciacion de 3Rと名付けたプロジェクトが正式に始まった。12月に校長先生に話を持って行って、2月に初めての先生向けのワークショップを実施してからの長い道程。

 プロジェクト紹介の最初のワークショップは全部で6校で行った。その中から4校を、モデル校として始めることになった。ここでやろう、ここではやらないと決めたわけではなく、JICAの援助で大型ゴミ箱を購入することになった時、ある程度準備のできていたのがこの4校だったっというもの。

U.E Aniceto Arce turno mañana (アニセトアルセ午前学校) 小学校1~8年生
  ー カウンターパートが校長を紹介してくれた学校。町中の中心部にあって庭はなく、すべてコンクリート詰め。
U.E Anceto Arce turno tarde(アニセトアルセ午後学校) 小学校1~8年生 
  ー 建物をシェアしているのだから午後の学校でも始めた方がいいという午前の学校の校長の希望で話をしにいって、了解してもらった学校。
U.E Carmen Mealla turno mañana (カルメンメアジャ午前学校) 小学校1~5年生
  ー カウンターパートの紹介。校長先生はオルガ(大家さん)の友人でもある。町中だけど、川沿いにあって、庭になりそうな小さい敷地がある。
U.E Humberto Portocarrero 2 (ウンベルトポルトカレロ2学校) 高等学校9~12年生
   ー 先生向けの研修を行った学校の生物の先生が自分が教えている別の学校でやってみないかと校長先生にも話を通してくれて、始めることになった学校。町外れにあって大きな庭がある。

 プロジェクトは何度か書いているけれど、いたってシンプル。掃除時間の導入、ゴミの分別、リサイクル。最終目標は有機ゴミからコンポスト作りで、私がとてもやりたいことだけれど、これは第二段階。先生向けの研修はタリハのゴミ問題と現状、プロジェクトの説明と目標、日本の学校での取り組み、タリハの学校での始め方を紹介するもの。私のプレゼンの後は先生たちに意見を言ってもらう。学校全体で取り組まないと意味がないこと、一人ではできないこと、どの先生にも協力してもらわないと成り立たないことを伝えるから、先生たちも言いたいことをばしばし言う。

 タリハ市の人々の環境意識は高い方だと思う。実践できているかは別にして、ゴミはゴミ箱へ捨てよう、環境を守ろうといったことはよく口にする。だからプロジェクト自体は好意的に受け入れてもらえる。ただそれに伴うもろもろの仕事が自分たちにふりかかるとなると話は別。それを受け入れてもらわなければならない。保護者が文句を言ってくるかもしれない、学習時間が減る(月に2・3回はある行事を減らせばいいと思うのだけど。なんせ全てを学校で祝うのだ、ここボリビアでは。カーニバル、タリハの日、海の日、父の日、母の日、先生の日。行進したり、ダンスしたり。もちろん授業はない・・・)など尤もな意見がでる。それに対して、保護者説明会を行う、時間は10分だけ、など1つずつ答えていく。上記の4校以外の何校かでも同じ研修を行ったけれど、最終的にはどの学校もやってみようということで研修は終わる。

 この研修後がなかなか進まなかった。2・3月はカーニバルに向けて学校は大忙し。プロジェクトに割く時間はない。その後教員のデモで学校が10日近く休みに。実際に動き始めたのは3月の終わりだった。それでもちょこちょこ学校へ出かける中で、先生たちのつくる保健委員会があったり(なかったり)、生徒会があったり(なかったり)、Portero(用務員さん)が責任感ある人だったり(ない人だったり)といったボリビアの学校の様子、4つの学校それぞれの特徴がわかってきた。

 3月の終わりから4月にかけて、特に学校内で協力してくれる先生たちを見つけることに費やした。保健委員会のある学校ではその先生たちと、ない学校では理科課の先生たちを中心に・・・何度もミィーティングを繰り返す。時に校長先生を交え、時に全体の先生を集めて話をしながら。頼りになる先生が誰なのかが少しずつわかってくる。私にとっても手探り状態。4校で始めたのはとてもよくて、一つの学校でうまくいったことを別の学校にも適用できる上、校長先生や委員会の先生もあっちではどんな感じなの?とライバル意識ではないけれど、ちょっと気にしたりもする。この間、他の先生たちには各教室におく3つのゴミ箱を用意してもらう・・・ことになっている。

 4月後半から5月にかけて生徒向けの授業を開始した。アニセトアルセ午後学校だけ以前に入っていたNGOのおかげでベースはできているので、授業はしない。残りの3つの学校で計38クラス、約1500人相手に授業をした。小さい子供には紙芝居を使って、大きい子供にはパワーポイントで写真を見せながら。最後に必ず学校ででるゴミ(本物)とゴミ箱3つを使って分別の仕方を実践。高校生向けにはゴミの分解年数など知識的なことも入れる。年齢によって少しずつ内容を変えているものの、同じことを38回繰り返すとさすがにあきる。けれど、子供・生徒相手に授業できるのは楽しかった。

珍しい外国人ということもあって、熱心に聞いてくれる。クラスごとに特徴はあって、賑やかなクラス、とても静かなクラス、一生懸命きいてくれるクラス、私語の絶えないクラスなど様々だけれど、反応は良好。もちろん実際にできるかは別の話だけれど、このあたりはたぶん日本も同じだ。しゃべる分には問題ないけれど(38回もするから!)、生徒の、特に小さい子供のスペイン語はなかなか理解できない。彼らは手加減せず、容赦なくしゃべりかけてくる。別の言葉に言い換えてくれたりしない。ふーん、そうなの、よかったね、など感覚で返事するけれど、答えのいる質問だと大変だから、授業には必ず先生が一緒に来てくれるようにお願いする。時にそれを口実にする。先生によっては授業がないなら、これ幸いと帰ってしまったりもするから。このあたりのことは来たばかりの頃に行っていた2つの学校で経験済み。


 毎週月曜日、学校で”Acto Civico de Saludo a Bandera ”と呼ばれる日本でいう朝礼のようなものがある。運動場に整列、国旗へ敬意を示し、国歌を歌ったあと、先生たちからの話や生徒会からの連絡がある。学校によって少しずつ形態は違うけれど、タリハの学校ではたいがい行われているよう。このActo Civicoにおいて、5月9日にアニセトアルセ午前学校とカルメンメアジャ午前学校で、16日にアニセトアルセ午後学校とウンベルトポルトカレロ2学校で、校長先生がプロジェクトの開始を宣言した。私も壇上に立ってよろしくと挨拶する。分別とリサイクルを通してゴミの量を減らし、今まで取り立ててばかりきた大地に自然な栄養分を返していくことで、環境に害を与えない学校を作っていこうと。

 ・・・と書くと大層格好よく聞こえるけれど、現実は甘くない。一週間早く始まった二つの小学校。まず2ヶ月もあったのに?ゴミ箱が3つ(段ボール箱でよい)揃っていないクラス、掃除時間と決めた時間に掃除をしないクラス(別の時間帯にしたり、全くしないクラスもある)、分別が全然できていないクラス、ジュースが入ったまま捨てられてぐちゃぐちゃになったゴミ箱をコンテナまでもってくるクラス、なぜか1時間も使って大掃除するクラス・・・。単発もののイベントに慣れているボリビアの先生たちは毎日続けるということが想像できないよう。これも一つのイベント、なんとなく過ごせればいいと思っている先生も少なくない。数日後経過を見にいった日はため息がでる思い。中心になって真面目に取り組んでいた担当の先生は全然なってないと半分投げ出しかかっている。準備段階から予想はしていたものの、やっぱりかという感じ。道程はまだまだ長い。それでも、担当の先生がこれではだめだと思ってくれただけいいのだと思う。これは違うと感じてくれるから、先が繫がる。まだまだ始まったばかり。

Acto Civico de Saludo a Bandera


2011/05/09

読書の秋~デミアンを読んで~



 サマイパタで友人にヘッセの「デミアン」を借りた。なんせここでは日本語はもちろん英語の本ですらなかなか手に入らないから、活字中毒にはつらい。一気に読みあげた。学生の頃、いいよとすすめられて読んだ時にはそれほど印象に残らなかったけれど、今回は感じるところが多くてこれも年の功?年をとるのもいいなと思う。はしがきに、「すべての人間は彼自身であるばかりでなく、一度きりの、まったく特殊な、だれの場合にも世界のさまざまな現象が、ただ一度だけ二度とないしかたで交錯するところの、重要な、顕著な点なのだ。」とある。さらに「すべての人間の生活は、自己自身への道であり、1つの道の試みであり、1つのささやかな道の暗示である。どんな人もかつて完全に彼自身ではなかった。しかしめいめい自分自身になろうと努めている。ある人はもうろうと、ある人はより明るく。」と書かれているところで、ちょっとため息がでた。たった数文で、なんて簡潔に全てを言いえているのだろうと思う。書くという行為は私の一部だから書かずにいられないけれど、いったい幾つになってどれだけの経験をつめば、こんな風に書けるのだろうと思わずにいられない。

 主人公シンクレールは父母の属する明るく公明な世界に安住しつつも、外の世界へのあこがれから不良少年と関わりを持ち、それによって苦しめられる。聡明な年上の少年デミアンに苦境を救われるものの、別の世界へ踏み出すにあたって彼が要求するであろうものを恐れて、一時彼を避け父母の安全な世界に逃げ帰る。それでも不思議な結びつきが存在して、二人は言葉を交わすようになり、シンクレールはおぼろげながら自分の道が敬虔なキリスト教徒である両親の道にはないこと、自分の道は自分で探求するほかないことを理解する。

  学校を卒業してからデミアンと物理的に離れたシンクレールは別の学校で酒を飲みばか騒ぎをする生活を送るが、完全に仲間の一部となりきれず孤独を感じ続ける。この頃偶然出会ったデミアンには反発を感じるだけで別れてしまう。けれども彼との会話の記憶をたどるうちに、新しく生まれるものを感じ、これを絵にして彼に送る。返事は不思議な形で届く。「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、1つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという。」このアプラクサス、「神的なものと悪魔的なものとを結合する」神、をきっかけに見るようになった持続的な夢がシンクレールの新しい自己形成を促し、その頃新たに得た友人ピスト―リウスがさらなる理解を深める助けをする。

 けれどもやがて指導者的な役割を果たしてくれたこの友人とも決別する時が訪れる。この決別は自分の自由意思で選びとった友人との別れであっただけに、両親の世界からの旅立ちよりもさらに苦しく、シンクレールはより深い孤独を感じ、心のなかでデミアンに助けを求める。大学に入ったシンクレールは再びデミアンと、そしてその母と出会う。デミアンの母は彼を救った夢に現れた人物だった。デミアンの母との会話からシンクレールは自分の道を生みだす過程は困難ではあったが、他に楽な方法はなかったこと、そして困難なだけでなく美しかったことを自覚する。そして道の困難さから自分を救った夢は、道を容易にしたものの、永久に続くものではないことも教えられる。デミアンの母はいう。「どんな夢でも新しい夢に変わられます。どんな夢でも固執しようとしてはなりません。・・・その夢があなたの運命であるあいだは、あなたは夢に忠実であらねばなりません」。


 この後、シンクレールやデミアンが飲み込まれていく時代の流れは別の時代に生きる私には想像できない領域。今回「デミアン」が私の中でヒットしたのは、私の中に慣れ親しんできた世界からでていこうという衝動がより強くなっているからにすぎない。だからこそボリビアに来ることを選択したりもしたし、それに先立つ様々な出会いがあったと思う。自分にとっての「両親の世界」や「ピストーリウス」は何か、「デミアン」や「デミアンの母」、そして「デミアンの母」が体現する「夢」は存在するのか考えてみる。主人公シンクレールはヘッセその人。彼の通ってきた道を知的レベルからいってはるかに単純な私がたどることはできない。あきらめでもなんでもなく、それはヘッセの道で私の道ではないから。それでも他者の経たステップを自分にあてはめてみることで、自分の道を振り返ることはおもしろい。

 ボリビアでしていることは、たとえそれがどんなに小さくつたない行為であれ、全て自分の意志において行い、自分の足で探して、考えて、始めたことであるという点で、今までと少し違う気がする。ヘッセのいう「もうろうと」から、「より明るく」はっきりとなったのかもしれない。今生まれている衝動が「アプラクサス」を目指しているものかはわからない。「アプラクサス」そのものが何なのか私には明確ではないから。けれども一つの世界を壊さなければ先に進めないことは確かだと思う。


 神と悪魔、光と闇という対立からひたすら神や光を求めるだけの生き方に限界があることは、時代が感じている気がする。「神をいっさいの生命の父」であるのに対し、「生命の基である性生活というもの」、つまり母性が体現するものを黙殺している、「人は世界全体をあがめることができなければならない」というデミアン。最近読み返した「ダ・ヴィンチ・コード」のテーマもそれだった。沢山持ってきた宮崎駿監督の映画の中でも特に好きな「ナウシカ」(映画というより原作)や「耳をすませば」、「もののけ姫」に現れるのも、「光と闇は全部人間の内部に混在してあるものでしかない。」という監督の考えだ。闇や汚れは暴力や殺戮ともいえるし、今扱っているゴミ問題(環境問題)でもある。ゴミを核兵器まで含めて考えると人間がともに生きていかざるをえないものの巨大さがのしかかってくる気がする。それでも人間は他の生き物を殺さずに生きていけないし、自身で処理できないゴミを生み出さざるを得ない。ではその先の道は?

 「アプラクサス」がなんであれ、私自身少しずつではあるけれど、自分の中にあるいわば習慣としてきた道徳観念や価値基準を壊しているのは事実。その過程が困難なものであったかというと、多分そうだったとしか言えない。結局、鍵となるのはその困難さを、それに伴う孤独を、自己がどれだけ深く感じて苦しむかだと思う。だから「われわれはたがいに理解することはできる。しかし、めいめいは自分自身しか解き明かすことができない」のだ。シンクレールは孤独の果てにデミアンやデミアンの母を見出した。常にそばにいた存在だけれど、強く願うことで、「夢」にすることで、意識的に見出した。私の「夢」はまだはっきりした形で表れていない。けれども、少しずつ変わっていくことで、かつては好ましいとはとても思えなかった自分を好きになってきていることで、少なくとも自分自身にとって正しい道を歩んでいることは感じられる。あまりにも遅々としていることすら、私らしいと笑って言える。(笑えない時もあるけど。)「夢」を実現できるものとして、しっかりと心の中で描ける日は近い気がする。

 本を読むのはやっぱりいいなと思う。お茶とクッキーを用意して、読みたい本を横に積んで、ベットの上で読む時間が一番幸せだ。もとから同時進行で数冊の本を読むし、好きな本は何度も読み返す。一冊に心を奪われたら次から次へ扉が開く。ヘッセの他の作品が読みたくなる。ユングやシュタイナー、聖書にもう一度きちんと取り組みたくなる。本との出会いと再会も、やっぱり「自己自身への道」の大事な道連れだと思う。

2011/05/06

サマイパタの素敵な紳士たち~自然と調和して生きる~




 5月1日のメーデーの連休、サマイパタへ出かけた。タリハからバスで約17時間。ポトシやスクレのようにサマ(Sama)の山を越えていくのではなく、以前Virgen de Guadarupeの祭りに出かけたエントレリオス(Entre Rios)からビジャモンテス(Villamontes)を通ってサンタクルスへぬける。ビジャモンテスーサンタクルス間は舗装されているけれど、ビジャモンテスまでの道は舗装どころか対向車がくればどこかで止まってすれ違わなければならないほどの細い山道だ。くねくねと曲がる道を容赦なく進むバスは時に絶壁からはみだすので、一番前(座席が少し広い!)に座るととても怖い。バスにあまり強くない私は気持ち悪くなってしまった。予約していたのは窓際の席。それが高校生くらいの女の子のお父さんに座席を変わってやってくれないかと頼まれ、No hay problemaと通路側に。後から女の子がバス酔いするのだと言っていた。これのことか・・・と思いながら、必死で耐える。ビジャモンテスについてから道は平坦になり、ようやく寝ることができた。

 ラパスからくる友人とバスターミナルで落ち合って、乗合タクシーで2時間半のサマイパタへ向かった。サンタクルスも緑が多いけれど、サマイパタに近づくにつれてさらに鬱蒼と森のようになってくる。日本の風景によく似ている。タリハから国境の町ベルメホに行く時にも同じことを感じるけれど、湿度の高いベルメホに比べ、こちらは標高が高いだけあって空気が澄んで気持ちいい。そして寒かった・・・。サンタクルスに着く頃から嫌な予感はしていた。サンタクルス=暑い!と思っていたから、いそいそと水着やスカート、虫よけなどをリュックにつめていたけれど、バスが町に入ってからも掛けていた毛布が手放せない。いつもは絶対もってくるレインコートも傘もなぜか持ってこなかった。帰ってから聞くとタリハもこの週末いきなり寒くなったとかで、ちょうど天気の谷間にあたったようだ。それでも、雨にぬれた緑はきれいだった。


 今回サマイパタを訪れた理由は二つ。世界遺産にもなっているサマイパタの砦を訪れること、そしてここに移住して長く住みついている2人の日本人に会うこと。
 "El Fuerte de Samaipata"、サマイパタの砦は実際に何に使われていたのかはっきりわかっていない。ご多分にもれず宇宙船発着場所だったという説もある。最も可能性があり、かつロマンがあるのは、インカ帝国の時代、低地の民族と高地の民族が落ち合って集会を行う場所だったという説。砦とよばれているが、水路も整った住居と宗教施設。赤い岩に人や蛇、ピューマなどの動物が彫られ、生贄を捧げた神殿もある。マチュピチュの遺跡を思わせた。同じインカの流れをくむ。訪ねた日は雨。遠くの山には雲がかかり、緑の上に霧がただよっている。どこかイギリスのハイランドにも似ている。これでモコモコの羊でもいたら・・・。El Fuerte自体の規模は小さいけれど、エクアドル、ペルー、ここボリビアを経て、アルゼンチンやチリにまで達してたいたインカ帝国の巨大さを感じさせた。




部族の代表がここに座り・・・

こんな景色を眺めていた・・・


 会いたかった日本人の1人は隊員の父のようなうえまさん。Don Gabrielの名前で知られるうえまさんには村に着いた時からお世話になりっぱなしだった。以前サマイパタを訪ねた仲間から噂は聞いていたけれど、本当にかゆい所に手が届くかのように私達のことを考えてくださった。とにかく歓迎してもらっているのが伝わって心地よい。到着した日は乗合タクシーを家の前につけ、お茶とお饅頭で一服させてもらってから、泊まる予定の小さな山の中腹にあるCabaña(民宿)へ送ってもらう。そしてサマイパタのボランティア2人と一緒にフランス人の経営する村一番おしゃれというレストランに連れて行ってもらって御馳走になった。

うえまさんちのやまと
 あまりにもよくしてくださるので、翌日は料理をしてお返しをしようと決めたけれど、民宿の部屋についているキッチンは小さい。結局、El Fuerteから戻った後、うえまさん宅で料理させてもらうことになった。材料も色々使わせてもらってどっちが招いているのかわからない。キムチ鍋をすることに。なんせ寒い。NHKの連続テレビ小説なんかを見ながら、鍋をつついていると日本に帰ったよう。物静かなうえまさん。でも私達の話をちゃんと聞いていて、たまにコメントを挟む。帰る間際、手作りのお風呂にいれてもらった。薪でお湯を沸かし、蛇口をひねれば熱々のその湯が鉄の風呂桶に流れ込むようにつくられている。以前は直接火で温めていたけれど、桶が割れてからは工夫して今の形にしたのだそう。タオルとビーチサンダルを用意してもらって、何ヶ月ぶりかでお風呂に入った(シャワーはちゃんと浴びてます!)。温泉大好きで、同じくすっかり温泉の魅力にはまったカナダの友人と丸半日お湯につかって過ごしたこともある私には至福の時間だった。たわいもない話に花が咲いて、今回はうえまさんがボリビアに来てこのサマイパタに住むようになった経緯を聞く機会はなかった。家族のように出入りする2人のにぎやかな隊員を最後にサマイパタに新たなボランティアが配属されることはない。日本に戻るまでに必ずもう一度訪ねてこようと思った。


柿酢見せてくださる
  そしてもう1人の日本人は自然農園を営むあさのさん。こちらは仕事的にも興味があった。トヨタの支店長としてボリビアに来て、裕福な暮らしをしていたあさのさん。お金を右から左へ動かす暮らしに疑問を感じて、サマイパタで農業を始めることを決意された。一言でいうと簡単だけれど、大きな決断。奥様の賛成があったことも大きいだろう。見せていただいたあさのさんの農園は一見なんの変哲もない。緑が濃く、花が咲き乱れて美しいこと、農場特有のにおいがしないことを除いて。そしてあさのさんの農園の秘密はそこにあった。農園を始めて25年。思考錯誤の日々を経て、今やあさの農園の野菜やアヒルでないとだめという人まで現れ、市場に出す野菜は瞬く間に売り切れる。そんなところまで彼の自然農法は認められるようになった。

トマトの原型
 あさのさんの農法は至ってシンプル。自然のサイクルを大切にし、土地に異質なもの与えるのをできるだけ避けるというもの。自然界との調和。あさのさんの農場にはサンファンで養鶏を営んでいる親戚からもらってくる排鶏(もう卵を産まなくなった鳥)がいる。ケージの中で変われ、ひよこから卵を生むようになるまで40日という早さで育てられた鶏。あさのさん宅にくると最初は全然動かない。動き方をしらない。勇気のあるのが辺りをつつき始めて他の鶏も動き出す。そして1年半もの間卵を生むという。自然には異質なものを排除しようとする本能がある。土地のものを与えると動物はおとなしく優しくなり、健康でにおうこともない。それに反して配合飼料を食べる豚やアヒル、鶏は猛々しく病気になりやすいし、独特のにおいを発する。配合飼料を与えてきた頃はキツネがアヒルを襲いにやってきたけれど、畑でとれたものを与えるようになってからこないという。生き物はみなその土地の土とバクテリアで生きている。人も土の子。

嬉しそうな野菜
 野菜も同じ。野草は土地にあっているから強い。トマトの実がなる→その実を植える→実がなる→植える・・・これを繰り返すうちにやがて土地にあったトマトが生まれる。小鳥の食べたトマトをつまずに置いておく。小鳥は次の日も同じトマトを食べにやってくる。自然とわけあうこと。かかしをたてて食べられるトマトは25%、自然にまかせると5%・・・とあさのさん。小鳥や蜂にも自然界の調和を保つ役割がある。小鳥の糞500gでキャベツ10個が育つ栄養分を含んでいる。美しい花を生き生きと咲かせ、色鮮やかな実を茂らせて野菜は小鳥や蜂をひきつけている。草、蜂、小鳥、虫達の間にはコミュニケーションがある。色や匂いがそれだ。植物が嬉しそうか。動物が嬉しそうか。

愛嬌たっぷりの豚
 現代農法と自然農法の違いはここにある。両方とも土地からとったものを返しているのだが、現代農法は異質なもの(肥料)を畑に返すのに対し、自然農法は土地にあったものを返す。あさのさんの農園には畑と畑の間に1~2m、雑草生え放題の場所が設けられている。ここでとれる?土はだんご虫やミミズが耕した健康なコンポストだ。これを畑に返す。また野草を乾かして藁にしたものは野菜のベッドにもなる。苗の周りを藁で覆ってやると、水の蒸発を防ぎ、虫やミミズが食べることで堆肥になる。あさのさんの家の豚が食べているのは畑の野菜や野草。豚がかんで唾液がたっぷりついた草は養分たっぷり。よい肥料になる。豚は配合飼料を与えていた時と違って自分の糞を食べるから囲いは清潔。豚小屋をあらった肥溜めの水もまた養分たっぷりだから畑にまく。そしてこの豚はとてもおとなしくて健康で、驚くほどにおわない。このようなあさのさんの農法を可能にしているのは観察だ。チョウが多いと雨が降らない。鳥が飛ぶと翌日は雨。小さな現象から自然の調和を読み取る。

お醤油
 あさのさんの農園にはたくさんの人がその秘密を知ろうと訪れる。私達が訪ねた時もベル―から来たという日系の若者が働きながら学んでいた。週末にボリビア人の農家が訪れることもある。あさのさんは自分が今の形にするまで25年かかったけれど、ボリビアの農家の人が今自分のやっていることを理解して実行すれば5年で同じようにできるだろうと言う。農家のおばちゃんがこれはうちでもできる、あれはこう工夫したらいいなんて言って、最後に感謝のbeso(キス)をしてくれたりすると、あさのさんはとても嬉しそうに話していた。サマイパタは緑の生い茂った気候のよい恵まれた土地だ。それでもあさのさんがここまで農園を調和のとれたものにするには大きな努力があっただろう。さらに厳しい高地の農家が同じようにできるのかどうかはわからない。それでも土地のものを土地に返し自然界の調和を保つ、というあさのさんの考えはどこにいてもあてはまるのではと思う。畑でとれたあずきから奥さんの手作りしてくれたおいしいおはぎをお茶と一緒にいただいき、帰りには手作りのしょうゆと柿酢、そしてお味噌をわけてもらった。これでお酢の物やみそ汁がつくれる。ほくほくした気分になった。

サマイパタには気候のよさから多くのヨーロッパ人が移住してきている。民宿La Visperaもオランダ人が経営する。私たちの部屋は領事夫妻が滞在したともいうかわいくて素敵な部屋(ちょっと奮発した!)だけれど、もとは鶏小屋だとか。半地下だから暖かいのだという。実際あのとっても寒かったサマイパタでの3日間、暖房もないのに部屋に入るとほんのり暖気が感じられた。あさのさんの農園を訪ねた日、イタリア人夫妻が営む有機農園を訪ねる予定を急きょ変更して、La Visperaにもう一泊することにした 。あまりの寒さと、長距離バスの疲れから。午後は意外に長く昼寝して、夕方裏山を上って付近を散策した。夜はキッチンで玉ねぎとトマトを少量の油でいため、塩、胡椒で味付けしたシンプルなパスタを作り、ロウソクをともしておしゃべりしながらお腹いっぱい食べた。デザートはおはぎ。ジャーナルを書いたり本を読んだりしながら、友達と眠くなるまで話し込んだ。

お邪魔していいですか?
 最終日、私達を迎えに来てくれたうえまさんが、良き友人でもあるオーナーのオランダ人夫妻が山を買った時、この何もない荒れ放題の山をどうするのだろうと思ったと話してくれた。その山を何年もかけてこつこつ耕して畑や庭を作り、かわいい家をたてて民宿にした。栽培し、収穫したハーブや野菜を使ってハーブティーやハーブオイル、チャトニ―などのソースを作って販売もしている。La Visperaは前夜祭という意味だそう。祭りの前日ほど楽しくてうきうきする時間はない。そんなことから名づけられたのかなと想像した。ヨーロッパ人は粘り強いね、と言ううえまさん。でもそれはもとから住むボリビア人やこうしたヨーロッパ人とよい関係を築き、土地に根ざして生きてきたうえまさんやあさのさんにもあてはまるだろう。自然と共に、土地とともに。そんな生き方をもっと知りたいと思った。