今回のアルゼンチンの旅は弟からきたメールから始まった。3月にアルゼンチンにいく、よければ一緒にまわらないかというもの。ベルギーに住む弟はヨーロッパからなら比較的近い南アメリカに今のうち出かけたいと考えたようだ。この2年間のうちにいつかはいこうと思っていたアルゼンチン。少し時期尚早な気はしたけれど、カーニバルで学校もまだ落ち着かず、家庭をもっている弟と二人きりの旅はこれが最初で最後になるだろうと思って心を決めた。タリハから陸路で9時間あまりかけてアルゼンチン北部の都市サルタへ行き、そこで一泊して翌日ブエノスアイレスへ飛行機で飛び、弟と合流し、約一週間かけてパタゴニアをまわるという計画。大学生から家をでていて、大人になってからそれほど長く話したことはない弟との旅は楽しみなような、ちょっと怖いような気持ちだった。その矢先の地震のニュース。すでに弟はアルゼンチン入りしている。何かしたい、でも何もできない、それでも悠長に旅行などしていていいのだろうか・・・旅の始まりから何かが心につかえていた。
アルゼンチン側税関 |
朝4時中央広場(Plaza Principal)集合。初めての国境越え、行きはタリハーサルタ間を結ぶバスDragon Rojo(赤い龍)を予約した。250Bs。バスとはいっても大きめのバンといったところ。7人つめこまれてあまり乗り心地はよくない。国境ベルメホ(Bermejo)まで3時間。ここまでは順調。ところが税関のシステムがダウンしていて、ボリビア人が出国できない。アルゼンチン人を含めた外国人は問題ないが、しばらく待つはめになる。そこは全員で行動しなければならない直行バスのつらいところ。国境の川は橋を歩いても、船でも渡れるが、この日は船がお休み。週末を互いの国で過ごそうと住む人々で税関はごったがえしていた。 結局13時には着くはずが、17時近くなってようやくサルタ到着。
地震の神を祀るカテドラル |
サルタはタリハを少し大きくした感じ。町を歩くとタリハはアルゼンチンの影響を強く受けているの言葉にうなずける。似ている。サルタに着くまでの道中の景色もタリハ近辺とほとんど変わらなかった。ただし中心街の賑わいはタリハの比ではない。おしゃれなブティックや電気屋が並ぶ。ちょうどセールの時期らしく、店には”Oferta” “Luquidacion”の札がかかり、大きな袋を提げた老若男女が歩いている。タリハの少し裕福な人々がサルタへ都会気分を味わいにくる気持ちがよくわかる。プラザ(Plaza Central)にある教会に立ち寄った後、カフェでサルテーニャ(多分ここが発祥の地)とオレンジジュースを頼み、道行く人を眺める。
サルタに向かうバスの中、国境を超える税関、ホステル。日本人だと知ると、家族は大丈夫だったかと声をかけられた。大変な事態だけれど、日本はきっと乗り越えられるよと励ましてくれる。夜ホステルで一日の移動とインターネットにかじりついて得た情報で疲れ果てていると、同じ部屋のカナダ人が食事に誘ってくれた。ポーランドやオーストリアの旅行者も一緒に。サルタの、アルゼンチンの夜は長い。シエスタの後店が開き始めるのも5時くらい。ホステルを出た時点ですでに11時近かった。グループでわいわい話をしていると気がまぎれた。赤ワインとともに、やわらかいアルゼンチン牛のParillada(バーベキュー)をみなで分け合って食べた。アイスクリームを食べながらプラザを歩いて帰ると夜中の2時を回っている。翌朝9時の飛行機。6時には起きないといけないから、部屋に帰って飲もうという誘いは遠慮した。
ホステルは相部屋、ネットができる環境で一泊US$10。パンとコーヒーの簡単な朝食がついている。朝、今日はバンジージャンプに行くというオーストラリア人カップルと一緒に朝食をとった。仕事をやめて南アメリカを旅しはじめて3ヶ月。オーストラリアは経済も好調、仕事に対して働き手が少ないから、帰ってから仕事を見つけるにもそう困らない。とてもラッキーなこと。色々あるけど旅は楽しいと笑っていた。”Have a nice trip" 、互いに言い合って別れた。サルタの空港から無事飛行機がとんで、時間通りにブエノスアイレス着。イグアスからやってくる弟の飛行機が遅れてやきもきさせられたものの、無事会えた時はほっとした。顔がまるくなって少し太ったよう(人のこといえないけれど)。元気そうだった。
この日南パタゴニア(Patagonia)の玄関カラファテ(Calafate)の町へ飛んだ。町を少し散策後、翌日の予定を決める。すっかり疲れて、夕食はホテルでとった。次の日ぺリト・モレノ氷河(Perito Moreno Gracier)、ウプサラ氷河(Uppsala Gracier)、スぺガッツィー二氷河をまわるツアーに参加した。朝8時、湖岸から出発した船がノルテ水道(Norte)を進んで1時間あまり、様々な形の氷山が現れ出した。光の入り具合によってその青みがかった色を変えて美しい。タイタニックの映画を思い出した。風が冷たく、手袋をしていても指先が冷たい。氷山が多すぎてウプサラ氷河には近づけなかった。やがて船はロス・テンパネス水道(Los Tempanes)へ回って、ぺリト・モレノ氷河へ。小規模ながら氷河の崩落をみることができた。一瞬の出来事。湖に落ちた瞬間、もうもうと白い煙のように氷のかけらが広がる。こうして遠くから眺める氷河はあくまで美しいけれど、そこにあるのは生き物のいない厳しい世界だ
カラファテはカナダの小さな町を思わせるかわいらしい町。物価もカナダなみで、ボリビアの生活水準で暮らす身には何をするにも財布と相談せざるを得なかったけれど、小さな町ながら久しぶりに洗練された都会を見た気がして心が浮き立った。(ちょっとボリビアに失礼^^)北の端と南の端。空気の冷たさ、雲の流れ具合、ポプラ並木と飾らない草花、近くの湖に遊ぶ水鳥、ひどく傾斜した三角の屋根。全てが懐かしい気持ちをよびおこす。コテージ型のホテルには暖炉があって、薪が火にくべられている。暖かい色のソファーにどっしりしたカーテン、丸太の感触。静かに談笑しながらワインをかたむける泊まり客。基本的に私は北(南?)の人だなと思う。南の島と北の湖なら、間違いなく北を選ぶ。自分の本質とあってしまうのだ。
カラファテからさらに北のウシュアイア(Ushuaia)に行きたくなった。ウシュアイアは火の大地の意味のFuego de Tierraと呼ばれる島にある、アルゼンチン最南端の町。マゼランがその名を冠したマゼラン海峡を航海中、おそらく原住民の焚く火であろう明かりをみて、この名前をつけた。季節はちょうど秋、一番黄葉の美しい時期だという。電車世界の果て号や真横になびく木などロマンを感じさせる土地だ。今回はバルデス半島(Peninsula Valdes)をまわりたいという弟の希望で、カラファテで2泊した後プエルトマドリン(Puerto Madryn)に向かった。少し後ろ髪ひかれる思いもしたけど、そういう土地があってもいいのかも。
旅から戻って一週間。父の命日が近い。ネットを通じて送った花が無事ついたようで、母からメールがきていた。買った店から注文した花の写真も送られてきてた。白い薔薇と紫の花を基調にまとめられている。父が逝って6年。まだ6年、もう6年。寂しさは消えていない。1人で毎日東北の地震や原発のニュースを見る母は精神的につらい様子だったけれど、妹が甥っ子をつれて帰京。これから、お出かけするのと嬉しそうだった。人はたとえ時間がかかっても、たとえ少しずつでも、必ず回復するのだと、何か信頼のようなものを感じて久しぶりに心が和らいだ。