"Profe!"と声をかけてきた男の子 |
チームの大半が大遅刻して現れ、ばたばたと村に着いてみればミサは終わっておらず、行列は昼少し前に教会を出発した。聖人サンティアゴの像を先頭に、各踊りのグループがすすみ(もちろん踊りながら)、最後に飾り立てた車が続く。村の人、タリハや近隣の村からやってきた人が見物したり、ぞろぞろついて歩いたりする。私たちのグループは音響が到着しておらず、来たと思えばワカワカのCDがない!というぐだぐだぶり。前のグループの曲モレナダ(Morenada)に合わせて踊ることに??
村を出てどこまで行くのだろうと思う頃、何もない原っぱに入っていった。ここが終点??と思っていると、みんな思い思いに休憩。聖人サンティアゴの像の前で踊りの輪ができる。のんびりとくつろいでいた人々がなんとなく動き始めたのは1時間もした頃。そして、強い西日の中街道を延々と踊り続けてすすみ、とある集落に着いた時にはすでに日は傾いていた。集まった人々の前でさらにグループごとに踊ってから、集会所のようなところで暖かい食事を出してもらった。なんだかわらわらと人があつまり、好きに見て踊って食べる。人に見せるためというより、参加した人が楽しむ、村の祭りという感じ。あまりに長く続くので疲れたし、美しいとか感動とかそういうものは感じなかったけど、素朴で飾らないところがよかった。そしてこの日、後の2人が食べなくて、私だけが食べたのは2本のアイスキャンディー。多分、これが原因。水には、特に田舎では注意するようにしていたのだけれど、暑さにそんなことはすっかりとんでしまっていた。
そういうわけもあって、近くの大きな公立病院は人でいっぱい。しかも先日生まれたばかりの赤ちゃんが盗まれる事件があってから、病院はぴりぴりしていると聞いた。公立の病院の様子も知ってみたかったけれど、今回はその余裕はなく、次の日の朝、家から角を曲がってすぐの私立病院へ出かけた。閑散として、患者は私1人。すぐに出てきて丁寧に症状を聞いてくれた若い女医さんは感染症でしょうね、という。なんの病原菌かを調べることもできるけど、そうするとまた別のところに行かないとだめらしい。いずれにしても、出す薬は同じ抗生物質とのことだったから、検査はしないことにした。結局4日寝込んで、この薬、きいてないんじゃないと疑い始めたころ、ようやく痛みがひいてましになった。
副大統領(右)と談笑。仲良し? |
8月6日、Día del Patria。ボリビア独立記念日。翌日の日曜日にはエボ・モラレス大統領を始めとした閣僚、軍や先住民のグループがたくさんタリハにやってきて大々的なパレードを行うというから、勇気をだして出かけた。ボリビアはどこにでもトイレがあると言うわけにはいかないから、お腹を壊している時は外出したくなくなる。けれども歩いているうちにどうも大丈夫そうだということがわかる。清潔そうな白い制服をきて整列した海軍兵士(そう、ボリビアには海はないけど海軍がある!)や小型戦車が並んでいる。
マスコミ席 |
暑いけど |
大通り沿いにスタンドが用意され、すでに大勢の人が席をとっていて、立つ隙間もないほど人でいっぱい。ぶらぶら歩いていると友達と出会った。仕事を通じて出会った学校の先生。大統領が座るひと際大きなテントの真正面、マスコミ席の横で見ようということになる。とはいっても、見えるのは人の頭ばかり。伸びあがっていると、マスコミのおじさんが上がってこいと言ってくれて、特等席で大統領の登場から演説までを見ることができた。生でエボ・モラレス大統領を見るのも二度目。今回は一生分っていうくらい長いこと見た。
語る、語る! |
やがていっぱいになってきたマスコミ席、パレードの途中で降りることになったけれど、その頃には大統領の写真もたくさん撮り、立っているのもしんどくなっていて、よいタイミングだった。道を歩くとパレードを終えた各県の村の人たちが一杯。ポトシの鉱山の労働者たち。ラパス近くユンガスに住むアフリカ系ボリビア人の人たち。アマゾン地帯に住む先住民の人々。のりのりで踊っている先住民のグループはオルロから来た人たち。さらに歩いて行くと、パレードの出番待ちをしている軍隊。顔に塗料を塗った陸軍の兵士、ウエットスーツを着こんだ海軍の兵隊、空軍兵士がボリビアの旗を掲げた飛行機で何度も空を旋回している 。
低地の人々 |
パレードを見た後、空腹を感じた。すでに2時近かったし、警戒して何もたべてこなかったからだけど、久しぶりに何かを食べたいと思えた。入ったレストランでSopa de Mani(ピーナッツのスープ)とLengua a la plancha(牛タンとチーズ入りご飯、フライドポテト添え)を頼んだ。お粥ばっかりだった後に突然の重い食事。ゆっくりと食べ始めるも、おいしい!この分ではせっかく減ったであろう体重もすぐ戻るなと思いつつ、ご飯がおいしいことが幸せだった。
この日から学校へ行きはじめた。ウンベルト・ポルトカレロ高校(Humberto Portocarrero 2)では先生対象のアンケートを集計し、これを元に話し合いをする。集まった先生達は、教員の意識が問題だから、再度全員を集めて仕切りなおそうと言う。それ以上の案は浮かばず、私的には行き詰まった感。何かが変わるだろか。同校2年生クラスと始めたコンポスト。ミミズの観察や生態系の仕組みのおさらいをして、新しい材料を投入。有機ゴミの量が多すぎるのか、嫌な匂いがし始めている。この日は枯れ葉と藁のみを入れた。これでおさまるといいけれど。土の温度があがる気配がないから、発酵がすすむのかも心配なところ。カルメン・メアジャ(Carmen Mealla)校の中高等部でも7年生のクラスとコンポストの寝床作りをはじめた。問題児?がいて、授業中に怒った先生に教室をだされたりもしている、ちょっと難しいクラス。どうなるだろうか。
悪いことばかりでもない。校長先生が別の学校から聞きつけてやりたいと言ってきたアベリナ・ラニャ小学校(Averina Raña)を見に行くと先生達に数回研修をしただけだったのに、子供達はきちんと分別を始めていた。打ち合わせに出掛けたテレサ・デ・カルカッタ小学校(Teresa de Calcuta)では来週月曜日から始めたいから朝礼で話をしてほしいと頼まれる。両校とも有機ゴミを分別して、コンポストを始める予定。テレサ・デ・カルカッタ校では、メヒカーノ(Mexicano)という踊りの練習にひっぱりこまれた。マザーテレサの名前を戴いているだけあって、教会関係の組織に属しているらしく(あまりよくわかってない)、月末の大きな集まりで披露するよう。どの学校も基本的にあけっぴろげで、少し関わりだすとあなたも私達の一員なのだからとよく言ってくれる。さすがに今回のように踊りのチームに入るのは初めてだけれど。
病気中悩んだことが解決したわけでは全然ない。それでも、いいところを見つつ、うまく行ってないところをちょっとずつ改善していくしかないのだろうなと思う。どこまで評価を厳しく行うべきかは迷うところ。文化の違いもある。テレサ・デ・カルカッタ小学校で出会った体育の先生はカルメン・メアジャ小学校にも行っている。私の目からみると、全くうまくいっているようには見えない学校。プロジェクトの話になって、「あまりうまくいってないね」とちょっと恥ずかしくなっていると、そんなことはない、だいぶ学校はきれいになっているし、いくつかの学年は掃除が習慣になってきている、と言ってくれた。慰めてくれているのか、よくわからないけれど、テレサ・デ・カルカッタ校での話合いでも前向きな発言をしていて、プロジェクトに意義は感じているよう。私の基準でうまくいっていると思うのは難しくても、やっていることに何か意味はあるのだろうと気をとりなおした。独立記念日が終わって落ち着きを取り戻した学校。体も元気になって、また頑張ろうと思えた。