(これを書いたのは2012年7月です。あれからもう1年半が過ぎました。臆病さを振り捨てて、教師というとてもやりがいのあった仕事をやめ、新しい道を探ることを決めました。新しいとはいっても、教え、学ぶという現場には関わり続けたいと思っています。なぜやめなければならなかったのか、私自身にとっても大きな疑問であり、今は今更ながらの人生最大?のチャレンジです。新しい生活をまたブログで綴っていきます。ボリビアで書きかけて置いたままのいくつかの記事もおいおい書きなおしてアップもしていきたいと思います。
VIVA TARIJAとしての記事はこれを最後にします。ここに行き着いて読んでくださった方々、ありがとうございました。)
21012年6月18日日曜日、午後4時タリハを後にしました。2010年7月14日に初めて空港に降り立って以来、1年と11ヶ月。本当にあっという間でした。最後の2ヶ月は目がまわるような忙しさで、1人で落ち着く時間も、本を読むこともなく過ごしてきました。そして日本に帰ってきて、おおきなカルチャーショックを受けたのも束の間、もとの職場に戻るとボリビアでの日々が夢のように感じられることがあります。
ボリビアの友人や先生たちとは今でもfacebookやskypeを通して話をするし、大家さんからも週に一度はメールがくる。私は確かにタリハに存在し、小さくともなんらかの痕跡を残している。
それでもこのボリビアでの2年間が私にとって何だったのかと考えるとき、不思議な気持ちになります。
結局何もできなかったのではないかという無力感。もっとこうしていたらという後悔。ボランティアとしての自分の仕事に、タリハの人々にとって自分の存在に、どんな意義があったのだろうという疑い。結局私は自分の殻をやぶることができず、独りよがりで終わっていたのではないか・・・
一方で、やれるだけのことはやったという達成感。1人の日本人として、教師として、そして1人の人間として、この2年間でなんらかの影響を与えた人々が確かにいると。繋がりが繋がりを呼んで、新たな人間関係を築き、思わぬところから反響があったりもしたのだから。
相反する2つの感情。評価。どちらも本当なのだろうと思います。
不思議な気持ちになるのは、1人の人間の存在は小さくも、大きくもなれると思うからです。時間の大きな流れのなかでは私の2年間のタリハ滞在はほんの点にすぎず、私のなかでも、タリハで知り合った人々のなかでもしだいに過去のものとなり、記憶は褪せていきます。今この瞬間にも私のいないタリハの時間は流れていて、たった一ヶ月の間に友人の幾人かの身の上は大きく変化しました。タリハを発つ日、友人の一人が言いました。ここを発った瞬間、全てが過去のものになるね、と。それは悲しいほどの真実です。愛した人々や土地との別れはそういうものなのでしょう。
それでも、この過去は私のなかで生き続けます。
星野道夫の本のなかに忘れられないエピソードがあります。アラスカへ忙しい仕事の合間をぬって、星野道夫を訪ねてやってきた編集者が、大海原を潮をふきながら進むクジラの群れを見ながら言いました。せわしない東京に戻って大勢の人々とともに地下鉄に閉じ込められて揺られる、その同じ瞬間に遥か北の大きくて広い海で鯨が悠々と泳いでいることを想うと、それだけで豊かな気持ちになれるだろうと。アラスカに住む友人が言います。このアラスカの広大な平原に何の意味があるのか。人間が住むのにはその一角だけで十分、これだけの土地は必要ない。それでも、心のどこかにこの大きな広がりをもつこと、そこにこの大平原の意味はあるのだと。星野道夫自身も、丸太でつくった自宅で暖炉の火にあたりながら、すぐそばの森のなかで冬眠しているクマを思って、心あたたかになります。
タリハの自然と人々はこれと似た形で私の中に息づいていくのだと思います。
価値観が変わった!そう言えるほど劇的な変化が私の中にあったわけではなく、少なくとも私の目には、そしておそらく他人の目にも、私はたいして変わっていないでしょう。
それでも私の中に確実に新たに加わったもの、それはタリハに流れる「時間」、またはタリハという「空間」としか呼びようのないものなのだと思います。
何かの拍子に私の名前がSEDUCAにおいて名前が過去のボランティアの名とともに同僚たちの口にのぼることがあるでしょう。オルガはマリア・リリアや息子夫婦、エルヴィラやヴォルフカンなどの家族と、pasanacoの仲間たちと日本にいる“娘”について話すでしょう。友人たちの口にかつていた日本人の女の子の名前がのぼることもあるでしょうし、通っていた学校の子供達や先生達も一緒にゴミ拾いをしたり、ペットボトルを集めたり、みみずを持ってきて観察させたり、コンポストや畑を作ったりした日本のセニョリータのことを思い出すことがあるでしょう。
穏やかな気候に惹かれた人々が移り住み、人口の増え続けているタリハの町はゆっくりと、でも確実に変化しています。新しくお目見えしたばかりの黄金色に輝くCasa de Culturaも、Rio Guadarquivirの川ベリに新しく作られたParque Tematicoもいずれは古びた風合いに落ち着いてくるでしょう。結婚や出産、進学などに伴う希望に満ちた変化がある一方、老いや死が知り合った人々を襲うこともあるでしょう。たとえ何年かのちにタリハを訪れることがあったとしても、タリハはもうかつて私が知っていたタリハと全く同じではありません。
それら全てをひっくるめて、私のなかにタリハは、ボリビアは存在し続けます。その場所を想うだけで、心が豊かになり、なごませてくれるような場所が一つ増えたのです。
サンタクルスを発ち、リマ、ロスを経て東京に着く過程でどんどん増えるアジア人率ときめ細かいサービス、そして丁寧な対応。マイアミからボリビアに向かう飛行機の中、眼下でうねるように続くアンデス山脈に南米に来たのだと実感し、新しい文化との出会いに毎日驚いていたのと同じように、もしくはそれ以上に、今帰っていく自国であるところの日本を異質なものとしてとらえている自分がいました。微かな苦々しさを伴うこのカウンターカルチャーショックの方がむしろ生々しいよう。
無数の光を伴って暗い空に伸びる巨大なビルの群れとその間を飛んでいる(ように見える)車の赤いテールランプ。隅から隅まできれいでどこも壊れていない家々。煙もださずに静かに走るバスと時間通りに音もなく滑りこんでくる電車。おしゃべりもせず整然と並んで、無表情に乗り込む人々。満面の笑顔をむけてくる店員とそこまで卑下しなくても思わせるくらいの敬語、恐ろしい数の注意書き。色白でふわふわのきれいでかわいい服をきた女の人たちと、(みんなゲイに見えるよと聞いてはいた)ピシッとスーツで決めた細くて青白い男の人たちが目まぐるしく行き来する通り・・・
そんな景色も1ヶ月もする間に当たり前のものとなりました。タリハの人々とボリビアの日々を心のなかの大切な場所におきながら、日本での日常が進んでいきます。あの日々を心の中にしまっておくだけでなく、意味のある形で他者に伝えられるようになること、出会った様々な人々から受けた影響をこれからの自分の生き方に生かしていくこと、ボリビアの人々にもらったたくさんの愛を返していくこと。やりたいこと、やらなければならないことはたくさんあります。いつの間にか、いい年齢になりました。いつまでも言い訳してもいられない。自分の成長のことだけにかまけていてもいられない。そんな年齢です。自分の頭で考えて、行動する。当たり前のことなのに、いまだに難しいなと感じている自分がいます。
「わたしたちは必要なものはみんな持っている。大切な家族がいる。残念なのは海外旅行に行きにくいことくらいかな。」と笑ったタリハの人々。物や栄誉への執着は当たり前に持ち合わせているけれど、それ以上に大切なものがあることを私よりももっと本質的に知っている、そんな気がしました。
ボリビアでは日本製品と日本人の勤勉さと辛抱強さに対する賛辞をそれこそ雨あられのように聞きました。そして、自分の国がそのように受け止められていることを誇らしく得意に思っていました。それには今も変わりはありません。豊かさの影にある恐ろしいほどの歪みと国としての迷走に目を覆いたくなることもあるけれど、お互いを思いやって暮らそうとする意思をもつ人々や他者や他国のためにつくそうとする人々がたくさんいることも知っているからです。
その一方で、なぜ日本ではと思うことも多いのです。ボリビアにいた頃の一週間分のゴミよりも多そうな1日のゴミ。なぜこんなに何もかもを紙やプラスチックで包んでしまうのだろう。まるで醜いものを全て覆い隠して、飾りたてなければならないみたいに。無数の目に見えないばい菌が私たちの周りに漂っていて、そうでもしなければ、身をまもれないというかのように。
美しいものを作ること、清潔にすること、便利であることを追い求めようとするあまり、うまれてくる大量の「ゴミ」。包むものは紙やプラスチックだけではありません。広告や宣伝。様々なキャッチコピーに使われる心地よく美しい映像や音楽や言葉。
そして、飾りたてられて、覆い隠されているのも、モノだけではないのです。人もなのです。隠され見えなくされている「美しくない」モノと人。「清潔でない」モノと人。「便利でない」モノと人。自分をみえなくしているものは、世界を見えなくしているものは、何なのだろうと問いかけることをしなければならない気がします。
多民族国家ならではの軋轢に苦しむボリビアではあるけれども、世界における環境問題への危機意識の高まりとともに、先住民の昔ながらの知恵や考えを見直す動きがでています。高地の民族への偏見がまだ根強いタリハでもそんな動きを何度も感じました。帰国直前、同僚のマルティナ(Martina)が言いました。「母なる大地(Madre Tierra)なんて大統領が宣伝文句に使うあっち(高地)の言葉だと思って好きになれなかった。けれど最近本当に思うの。自然は私たちの母だって。」
大切に守っていかなければならない、と。
日本とボリビア、共に学ぶことはたくさんで、そして私たち両方にできることは学んで変わることだけです。
長いようで、あっという間だった2年間。
ボリビアに家族ができました。会いたい、話したい友達ができました。
あたたかさと共に、心に思い浮かべることのできるたくさんの人々ができました。
本当に幸せな2年間でした。
ありがとうございました。