2011/08/03

ボリビアの歯医者さんとパッチ・アダムス

7月16日、ラパスの日のムリリョ広場(Plaza Murillo
大統領府まで行進するエボ・モラレス大統領


 ラパスへきた第一の目的は歯医者さん。二ヶ月前から定期的にしくしく痛み始めた右下の親知らず。大家さんのオルガの息子は歯医者だからレントゲンをとってもらったところ、斜めにはえていて横の歯をおしている、早めに抜いたほうがいいとのこと。ただでさえ、抜くのが嫌で残りの3つの親知らずをはえるままにし、なんとなく前歯がでてきたような気がしてた頃。一大決心をして抜歯することにした。ラパスには日本で勉強し、働いたこともある、日本語を話す歯医者さんがいるという。歯だけは丈夫でめったに行ったことのない歯医者、何かがあった時のためにも、ラパスで治療を受けようと決めたのだ。


美術館が集まるハエン通り
 ティワナク遺跡から帰った翌日月曜日午後の予約に合わせてソナ・スル(Zona Sur)に出かけた。冬休みの連絡所、同期が大勢集まってわいわい、朝方5時頃まで飲んで、歌って、怪談をしてと学生みたいなことをして過ごした。そんな中親知らずを抜く怖さをたっぷり脅かされたから、どきどき。ラパスで陶磁器を教えている友人に付き合ってもらった。ソナ・スルは中心街よりミクロで約30分、さらに標高が低い、高級住宅が立ち並ぶおしゃれな地域。出かけた病院はきっとお金持ちの人しかいけないと思われるきれいで整った設備を備えた気持ちよいところ。いよいよ抜くんだ、覚悟していたら、今日はレントゲンをとりにどこどこへ行って来てねと言われる。明日の朝血液検査をして(これも別の場所で)、結果が大丈夫なら(きちんと凝血するなら)夕方手術するよと。ボリビアのお医者さんにかかるのは初めてだけれど、友人たちの情報によるとボリビアでは検査のため、その結果を受け取るため、薬をどころか注射を買うため!?と患者は結構あちこち行かされるらしい。痛みに苦しんでいたり、しんどい時には当然のことながらかなりつらい。けれどさすが?ソナ・スルの歯医者さん、地図を見ながらふんふん言っている私をみて心配になったのか、自分の車でレントゲンをとりに連れて行ってくれた。

 そして、翌日血液検査時、同じようにしてくれた上、夕方親知らずを抜いた後は泊り先まで送ってくれたのだった。もちろん、手術が2時間半近くかかって終わった時は9時を回っていた上、この日エルアルト(El Alto)ーオルロ(Oruro)間でデモ封鎖があり、市内にガソリンが入ってこなくなって、タクシーが動いていないという事情もあったのだけど。親知らずの根っこが神経から3mmほどのところまで届いているから、無理やりぬくと後から非常に痛むからということで、少しずつ削っていく方法をとってくれたよう。休憩もあったけれど口をあけているのに疲れたし、何をされてるのか最初のうちはわからず、麻酔をかけているから感覚はないはずなのに、ぐらぐら歯をゆすられる度に神経に振動が届き、ここで抜かれたら泣くかも・・・。すぽーんと抜けますようにと祈りながら時間が過ぎていった。そのうち何回もレントゲンを撮りながら手術が進められるようになって、ようやく何が行われているのかがわかった。レントゲンを見てもピンとこず、いつ抜けるのはだろうと思っていたら、後もう少しだから頑張ろうね、と言われた。よく見れば、白く映る他の歯に比べて問題の親知らずは薄黒い影の様。先のほうだけが白っぽい。極先っぽはあまりに神経に近すぎるから残すけれど、問題ないだろう、これで終わりだよと言われた時はほーとため息をつく思いだった。


医療保険問題で座り込みをする
Choritaさん達
 初めての本格的歯科手術。色々と怖かった。それでも、私はこの国で最高級の治療を受けたのだと思う。今回の治療費だけでボリビアの普通の公務員の給料1カ月分にあたる。徳島大で博士課程までとった歯医者さんは、おかしな日本語でごめんね、といいながらも会話は全て日本語で進め、家とは反対方向に送ってくれる車の中で恐縮していると、外国で困った時の気持ちはよくわかるからと全く気にした風もない。患者に対する穏やかでフレンドリーな態度はこの歯科医院で働く全ての歯科医や看護師に共通している。日本の医療事情とて必ずしもよいと言えないけれど、サンタクルスで看護師をする友人や普通の医療機関で診療を受けた経験のある友人から話を聞くと、サービス精神(実はあまりこの言葉は好きでないけれど)がないこの国で医者が当然のように行う患者に対する心ない行動は基本的なレベルで信じられないようなことが多い。 患者の尊厳を大事にするお医者さんの治療が、それを可能にするシステムが、市井の人々の手に届くまでどれくらい時間がかかるのだろうと思う。そして、素晴らしい歯医者さんの治療を受けることができることに感謝する気持ちと共に、どこか申し訳ないような気がしている自分もいた

  そんなちっぽけな思いを吹き飛ばしてくれたのは、抜糸した夜に出かけた、ロビン・ウィリアムズ主演の映画で知られるアメリカの医師、パッチ・アダムスの講演会だった。講演は2日、1日目は野外で100ボリ(1人に対し1人の学生や子供が無料で講演に参加できる仕組み)、2日目はHotel Radissonで550ボリという入場料。私たちは当然?1日目に出かけた。7時半開始のはずが、いつものごとく時間になっても会場の前にはよくわからない行列がくねくねとできている。友人達が列に並んでくれている間、風邪をひいている友達と歯が痛い私と、2人少し離れた高台に座って、このカオスを眺めた。せめてロープくらいはればいいのにと感想述べながら。さらに、そろそろ入口に近くなったかと思われた頃、青いチケットを持っている人(私達の色)は違うラインらしいと同じ色のチケットを持っているおばさん達がいいだして、みんなで列を抜け出して青チケットの入り口を求めてさまようことになった。2つくらい別の列に聞いても、黄色だ、緑だと違って、ようやく会場をぐるりと回ったところにある列が私達のだとわかった。結局私達が並んでいたのは、無料で講演を聞きに来る人達用の列だったのだ。と、なんやらかんやらあったものの、無事に席に着き、あとは主役の登場を待つばかり。午後9時。

 そして登場したパッチ・アダムス。パジャマのようなピエロのような奇抜な格好。軽快でユーモアたっぷりの話しぶりで1時間。あきさせなかった。英語で話す彼についていたスペイン語への通訳者も絶妙の訳しぶり。パッチ・アダムスの話しぶりにつまったエネルギーを上手にうけて伝えていた。英語とスペイン語の両方を聞いていると今更ながら語順が同じというのは楽だなあと思う。今回の通訳者さんはプロの方なのだろうけれど、たとえプロでも日英の通訳に感じることのある、ある種の緊張がほとんど感じられない。安心して聞いて、笑っていられる。そしてこの通訳者の余裕?を見てとって、パッチ・アダムスも盛り上げどころに利用したりして楽しいトークになった。


 パッチ・アダムスは自分自身が自殺未遂を起こし、精神病院に入っていた時期がある人。そこでの精神病患者との交流から笑いと幸せであることが医療に不可欠だと感じるようになった。その後医学部に入り、医者は権威ある存在でなければならないとする学長と対立しながらも、自らの信じた医療を施すべく診療所をたちあげ、保険の網からもれた人々の治療にあたる。変人扱いしていた周りの学生も徐々に彼に同調し、協力するようになる。そんな時、協力者で恋人でもあった女性が思わぬ死をとげ、責任を感じた彼は無力感にさいなまれるが、仲間に、そして患者に救われ、最後に学生でありながら医療行為を行ったと糾弾する学長に対して持論を述べ、大学の医学会と学生の支持を得て無事卒業していくというのが映画のストーリー。(前日予習でみたから、だいたい正しいと思う。)

 パッチ・アダムスにとって幸せとは内的な平和のことではなく、行動そのものである。幸福はある特定の一瞬にあるのではなく、何かに対する褒美としてあるわけでもなく、今自分が存在するこの場所にある。よく言われる幸福の追求なんてことはあり得ない。人は生まれながらにして幸せなのだから。幸福とは、幸福であろうとする意図、その意図をどう表現するかというパフォーマンス、そしてその結果だ。結果がよくなければ、つまり幸福でなければ、パフォーマンスを見直せばよいのだ。アメリカのような問題を抱えた社会の典型的な症状は孤独と恐怖だ。孤独をいやすのは愛し愛される喜びを与えてくれる友人であり、恐怖を克服するのは所属感を与えてくれる共同体の存在である。ミアキャットの例。仲間が巣穴からでて太陽のもとで楽しんでいる間に、敵がいないか見張る役目のミアキャットが必ずいる・・・。そして創造性と愛。これが友人、共同体・・・人間関係のカギ。

 この人間関係における創造性と愛、友人と共同体の存在。たとえ、貧しくとも、システムが整わずよい治療が受けられなくとも、医者が多くの場合恐らくやむを得ず患者に冷たい仕打ちをしても、ボリビアにあって、パッチ・アダムスがいう病んだ社会であるアメリカや日本に希薄になりつつあるのはこれだと思う。美化するつもりは毛頭ないけれど、ボリビア人が友人を、家族を、時にはわずらわしがりながらも、大切にする姿は心打たれることが多い。職場SEDUCA前、暑い日も寒い日も午後にはやってきて、薄い教育関係のブックレットを並べて売るお母さん。小学校高学年のお姉さんがいつも小さい弟の面倒をみにきているし、高校生のお兄さんは学校帰りに店じまいを手伝いにやってくる。向かいにお菓子のスタンドをだすサンドラおばさんのところにも小学生の息子がしょっちゅう手伝いにきている。大家さんのオルガはたとえ、疲れてベッドに入った後でも、ウィークデイの夜遅くに話をしにくる友達を追い返したりはしない。妊婦さんや足元の弱いお年寄りがバスにのってくれば若者がすっと立って自然に席を譲るし、乗降の手助けをなんの照れもなくやってのける。例をあげだしたらきりがない。幸福であろうという意志とその表現。ボリビアの人々はそれに優れている気がする。それにかけるエネルギーと時間をおしまない。幸福を追求なぞしなくとも、ボリビアの人々は生そのものを楽しんでいる、そんな気がすることもある。

 パッチ・アダムスの話を聞いている時、聴衆のボリビア人の反応はとてもよかった。パッチ・アダムス自身が彼の話す内容通り、行動の人であり、それによって幸せである人だから、説得力もあるのだ。けれども、一方で少し首をかしげてしまった。映画にでてきたお医者さんということと軽妙な語り口が受けているので、もしかしたらボリビアの人々にとっては何を当たり前のことを言っているのだろう・・・という内容だったかもしれないと。私達がいた100ボリ席にいる少数のWesternizeされたインテリボリビア人は別にして。パッチ・アダムスのいう幸福と不幸の尺度はアメリカや日本に当てはめたらとても低いだろうけれど、ボリビアに当てはめたらきっと高い数値がでるに違いないと思う。

 ブータンが一位となったGNH「Gross National Happiness」(幸福度指数)。ボリビアも高い順位にくるのではないだろうか。「健康」、「家計」、「家族」、この3つを重視する日本に対し、ブータンの人々が第一においたのは「人間関係、隣人関係、家族間の交流」だったという。だからこそお金がなくとも、よい医療制度がなくとも、幸福度が高くあり得る。ボリビアを”貧しく、社会制度の整っていない”途上国として、色眼鏡でみている自分がまだいるのかもしれないと戒める思い。ボリビアの医療制度も、お医者さんや看護師の質も、もっとよくならないといけない。そのほかのあらゆることと同様に。ただ、システムが整って行く過程で、今存在する自然な互いをいたわるパフォーマンスが、心から切り離された機械的なものに変わってしまうことがなければいいなと思う。

2011/07/26

冬休みのラパス~ティワナク遺跡へ




 冬休みに入り、プロジェクトの方向転換に向けて資料作りをしながら1週間が過ぎた8日金曜日、夕方5時発ラパス行きのバス(115ボリ)に乗った。約17時間。バスの旅は長時間の座っているしんどさはあるものの、バスの中で、途中の小さな村で人々の生活ぶりを垣間見れて楽しい。実際、帰りの飛行機のようなことが起こると時間的にも変わらなくなる・・・。

Japónのタグ
 ちょうど前日、タリハにある天文台に出かけた。天空まで届くハンディ・レーザー・ポインター(!)を持った観測員が実際に星を指し示しながら西洋のだけでなく、アンデスの民による星座を教えてくれた。そしてロシアの援助による巨大な天体望遠鏡で月と土星を見た後、日本が送った立派なプラネタリウムで冬の空の移り変わりを見せてくれたのだった。これ全て無料。車で連れて行ってくれたオルガの甥っ子は高校生の頃行ったとか。行きはバスで、帰りは歩きで(^^)でもいい。それも含めて高校生には楽しい体験だったのじゃないかと思う。
 
 サマ(Sama)を超え、カマルゴ(Camargo)からポトシ(Potosi)に至る曲がりくねった道の途中に明かりはなく、半月が乾いて侵食された大地を照らすばかり。タリハをでて4時間ほど。月が傾くごとに増える星の数。教えてもらったばかりのさそり座、ケンタウルス座、リャマ座が南十字星のすぐ近くで輝いているのが見えた。(もっと色々教えてくれたのだけど、理解できた範囲で・・・)サンタクルス行きのバスよりさらに深く倒れる座席から夜空を見上げながら、好きな音楽を聞いているとなんだか幸せな気分になった。

  
  10時過ぎラパス着。タクシーの運転手さんも知らない、何かの祭りで大通りが封鎖され、泊り先の連絡所まで1時間近くかけて着いた。仲間とスペイン料理を食べに行った後、サガルナガ通りに買いものへ。タリハにいれば食糧くらいにしか使わないお金だけれど、さすが高地ラパス、リャマやアルパカの可愛いセーターや色鮮やかなアイワヨなどいかにもボリビアらしい土産物がたくさん。どれも素敵で目移りする。かわいいニットのワンピースと甥っ子に縞の角つきニット帽を買った。今回はバスでゆっくり上ってきたせいか、さほど高地病で苦しまずにすんだ。途中で飲んだ薬もきいているのかもしれない。なんだかんだいってタリハも海抜1800m。多少は赤血球の数も増えているのかも!?それでもちょっとした坂を上るだけで息切れがして、その夜は早めに休んだ。


博物館入り口
 日曜日ゆっくり起きだして、ティワナク遺跡へ出かけた。Cementerio(墓所)前から出るミクロで約1時間半。到着してまずリャマ肉で昼食、博物館の見学をした。遺跡の入場料込で外国人は80ボリのところ、どこ出身?の問いかけにタリハと答え、Residencia(居住者)であることを示すIDカードを出して10ボリでいれてもらう。チケットは一枚の紙。行く先々の遺跡の入り口でチケットをチェックする係員に首を傾げられた。"Chapaquita"かと笑ってくれる人もいる。

 ティワナク文明は紀元前200年から紀元後1200頃まで続いたとされる、プレ・インカ文明の一つ。創造神ビラコチャへの信仰などインカ文明へ引き継がれてるものもある。子供の頃「太陽の子エステバン」というアニメがあった。話の筋は忘れてしまってインカ文明を題材にしていたのかですらあやしいけれど、エルドラド(黄金都市)、赤茶けた大地、ジャングルの中のピラミッド、空高く舞うコンドルやアンデスといった言葉はエキゾチックな響きをもって記憶に残っている。エルドラドがスペイン語のEl Dorado(The Gold)だと知った時は魔力が薄れたような気がしたものだった。マチュピチュの遺跡に行くことが許されていない今、ティワナク遺跡はあの頃の憧れを満たす場所だ。


 巨石文明として知られるティワナク遺跡。イースター島で、島に残された祭壇の石の積み方にインカの石積みの技術の影響が見られると聞いて以来、ますます気になっていた。エクアドルからチリ、アルゼンチンまで続く広大なインカ帝国の領土がサンチアゴから3700キロも離れたイースター島にまで渡っていたとしたら・・・。さすがにそれはあり得ないとしても、誰かが石積みの技術を伝えたとしてもおかしくない。イースター島にしげる葦は遺伝的にチチカカ湖のトトラ(Totora)と同じだとも聞いた。その石積みの技術を持った誰かは葦の種の入った袋を抱えていたかもしれない。人類学者ヘイエルダ―ルはポリネシア人は東南アジアからではなく南アメリカからの移住者だと信じ、ペルーからポリネシアの島へ筏による航海に挑戦し、成功している。彼の学説はは今ではあまり信じられていないらしいけれど、南米からの南太平洋の島へのコンタクトはきっとあったのだろうなと思う。前日連絡所で「コンティキ号漂流記」見つけたばかり。読むのが楽しみ^^。 

イースター島の石積み

ティワナク遺跡の石積み

 ティワナク遺跡はスペインの侵略後、教会や住居建設の際の礎に使われてしまったため、ほとんど原形をとどめないほど荒らされていたり、風化していたりする。しっかりとした調査を経ないまま復元してしまったため、本来の面影はないと言われたりもする。それでも残されている巨大な一枚岩で作られた太陽の門はじめとする建造物には迫力があり、きれいな石積みは美しかった。太陽の門の上部、ビラコチャ神の横に鳥人が彫られている。イースター島でモアイ像にもまして心を捉えた"hombre pajaro(鳥人)"の伝説。デザインは違うけれどもこれにも繋がりがあるのだろうか。

ビラコチャ神と鳥人

イースター島の鳥人

 遺跡は本当にとても静かだった。遺跡と並行に伸びる道を走る車は無音。風をさえぎるものもほとんどなく、訪れている観光客の声が稀に聞こえるのみ。見渡す限りほとんど何もないように見える大地を見ていると、1000年近く前に標高4000mのこの地に人々が系統だった社会をつくって暮らしていたことがとても不思議に思えた。おもしろい石があった。マイクロフォンのような役割を果たす。その前で話すとかなり遠くまではっきりと言葉が届く。集会時に、人々を呼び集める時に、使われたのかもしれない。この静けさならかなり遠くまで届いただろうと思う。

 帰りのミクロではボリビア人の親子と一緒だった。若いお母さんが息子に絶えず話しかけている。博物館入り口で渡されたチケットを取り出して話をしたりしているから、見学してきた遺跡のおさらいをしているのかもしれない。ボリビア人はあまり旅行をしない。どこどこに住んでいる親戚を訪ねることはしても、旅行という旅行をする人々は少ない。まだまだそれだけの余裕がないのだろうと思う。そんな中、卒業式前に様々な催し物をしてお金を集め修学旅行出かける高校生や、親子で近隣の遺跡に遊びにきた決して裕福には見えない母と息子を見ると微笑ましく感じる。自分の目で見て、聞いて、触って、感じる体験はやっぱり大事だと思う。プロジェクトにそういったファーストハンドな体験を組み込めるようにしたいと改めて思った。

太陽の門。6月23日アイマラの日には大勢が日の出を見に訪れた。

2011/07/06

タリハの防寒対策



冬休み直前、極寒の創立記念日 U.E. Carmen Meallaにて

 最近立て続けに怪我をしています。

 先日はwallybollという壁を使ったバレーボールをしにいったら、薬指をつき指しました。ただでさえ運動音痴、寒くて体の動きも鈍っている中、壁を使ってあっちこっち飛びまわるボールは見失うこともしばしば。増え続ける体重をなんとかせねばと出かけて行ったのですが。後半は少し慣れて、体が動くようになりました。同じグループの人にも助けられ、ちょっと頑張って今までは逃げていたボールに手をだしたらやってしまいました。幸いあまり使わない薬指。重いものをもったときだけ、うっときます。

 そして昨日は膝を酷くすりむく、アクシデント。寒いからサウナに行こう!との誘いがかかり、出かけました。このサウナ、先に行ってた友人が言うに閉まっていたそう。寒くて客がいないからという理由で。友人が交渉してあけてもらったらしく、寒いからサウナに行くんじゃないの?とひとしきり話題に。日本の温泉は裸で入る話(普通男女別だと断りをいれて)からヌーディストビーチまで広がり、友人はお母さんと最初は知らずに行ったところ男の人にぶつかられたとか。ヌーディストビーチにいく勇気なんて今の私にはまず絶対ないなと思いつつ、一番起こってほしくないねーと笑っているうちはよかったのです。客は私たち3人だけ。薪で暖めたサウナに入ってたくさん汗をかき、シャワーでそれを流して、ミストサウナへ。友人2人が先に外へでて、体をほぐしていた私がちょっと居残っていたら、入口で話しかける声。聞こえないので降りていったところ、最後の段でコケッ。真っ白でなにも見えないミストの中急いで降りたので、3段あるのを忘れて2段目で最後と思ってしまったのです。

 盛大にすりむいて血が一杯でて、サウナのオーナーのセニョーラもびっくり。アルコールをだして消毒してくれました。これが痛かったこと。ひえーってくらい沁みて。こんな怪我も久しぶりです。幸い単なる擦り傷。足を挫いたりしなくてしなくてよかったとほっ。喉が渇いたからナチュラルジュースでも飲みに行こうという友人の誘いは辞退して帰宅。帰ってからサウナではそれどころでなくなったシャワーを浴びて、大家さんのオルガがくれたクリームを塗り、ガーゼを貼ってその夜はベットにおさまりました。出かけたと思ったら怪我してくるのだから、こんな寒い時はベットでぬくぬくするのが一番よっとオルガにお説教されつつ。

 6月末から気温がぐんと下がって、天気予報でマイナス4度なんて言われる日もでてきました。一度は27日からと発表された冬休み、少し暖かくなったのを受けて7月11日からに伸ばしますと宣言されたもつかの間、再度気温が下がって結局4日からスタートで落ち着きました。途上国であるということに加えて、寒い期間が2ヶ月ちょっとと短いこともあるのでしょう、タリハには暖房のある家はそれほど多くありません。当然学校にあるわけもなく、寒くなると休みになるのです。去年来た頃は厳しい寒波に死者も出る程で、2週間冬休みが伸びて4週間になっていました。

 この寒さも2度目。去年の7月14日にタリハに着いた日は暖かくて家の前の木はピンクの花を咲かせていたのに、翌日一気に下がってマイナスに。一変に枯れていました。オフィスで震える日を過ごして、週末田舎に出かけてさらに体の芯から凍える思いをしたのでした。何年かぶりにしもやけをこさえたのも懐かしい思い出です。本当に寒い時はマイナス30度にもなるモントリオールでもここまで寒い思いはしたことがない!というほどの寒さを味わいました。建物の中に入りさえすればTシャツ1枚で過ごせる、セントラルヒーティングのすすんだカナダ。オフィスで1日体が暖まることのないまま過ごし、家に帰って尚寒いタリハ。

 というわけで今年は寒さ対策はばっちり!?

 冷える夜、大家さんは4つあるガスコンロを全部つけます。そしてコンロの一つにユーカリの葉をいれたお鍋をおいて煮たてます。ユーカリのいいにおいが家中に広がって素敵です。風邪を予防する役目もあるのだとか。タリハ県東部Gran Chaco(グラン・チャコ)は天然ガスが豊富。それもあってタリハは比較的豊かです。ガソリンでなくガスで走る車があることを知ったのもここ。ガスはとても安いのです。去年は黄色い大きなガスボンベに四角い網のようなものをつけ、それに火をつけて暖をとったりもしました。ちょっと怖いのですが。

私がはまっているのは足湯。エッセンシャルオイルを垂らしたお湯に足をつけるとぽかぽかしてきます。おばあさんみたいと笑われたりもしたけれど。シャワーをするときも洗面器にお湯をいれて足をいれるといいとアドバイスしてくれた人もいます。私の部屋の電気のシャワーは加熱力が弱くて、大層寒い。零下まで下がった日はガスで温めているオルガのシャワーを借ります。でなければ、4・5日はお風呂に入らずに過ごしているかも。

そして厚着。母の送ってくれたユニクロのヒートテックを2枚重ね、さらにセーターを着てカーデガンを羽織り、そしてコートを着ます。下はスパッツを2枚重ねてはいて、それからジーンズをはく・・・と。冬休みの職場はデスクワーク。これくらい着込まないと耐えられないのです。夜はポンチョとマフラー、厚手靴下が大活躍。

動くことも大事。本を読んだり、コンピュータに向かったりでじっとしてると冷えてきます。そんなときは掃除、洗濯、料理、何かをして体を動かすこと。ただこれにも限界はあって、芯から冷え切った体はどんなに動いても暖まらないこともあります。そういう時はたくさん着込んでベッドに入るしかないのです・・・湯たんぽがいいと聞いて探しているけれどまだ出会っていません。

最後にホットワイン。15ボリ(200円)だせば買えるタリハワイン。ちなみにチリワインなど外国産になると50ボリ(700円)から数百ボリと高くなります。ボトルを買ってきて鍋にワインとシナモンを入れてあたためます。タリハではオレンジの皮を入れるけれど、私はリンゴやオレンジを小さく切ってポンチにするのが好きです。オルガは牛乳を暖め、ティーバックをいれてチャイ風にしたものにSingani(シンガニ)を垂らすTé con té(テ・コン・テ)が好き。シンガニはぶどうから作る蒸留酒で、ワインと並んでタリハの名産です。この冬も何度か作ってくれました。

 こうやって寒さ対策をあげていくと先人の知恵みたいなものを感じます。電気をいっぱい使ってガンガン暖房をつけるのはもうはやらない!?石器時代に戻るのは無理だけど、ないならないで小さな工夫をしてちょっと地球に優しくなれる気がします。便利なものがあり過ぎるのもよしあしだなーとベットの上で冷たくなった鼻を温めつつ思ったりしています。

ボリビアに来て1年。寒さについて語るとより実感が増します。意味するのはこれから過ごす1日1日が2度と帰らない日であること。ボリビアであろうとなかろうと、同じ日なんて1日とてないのだけれど、ひどく毎日を大事にしたい気にかられます。というわけで、とにかく誘われたらなるべく出かけるようにしようと決めた矢先のアクシデント。薬指と膝と親知らずが痛むさむーい夜でした・・・


お世話になっている先生方(真ん中白髪の方が初代校長、その右隣が現校長)

2011/06/23

カルチャーショック~チリを訪れて


ハンガロア村から望む夕日

6月23日Día del Corpus Christi(聖体の祝日)。

Pascua(イースターまたは復活祭)から60日目の木曜日に祝う。聖体とは聖餐式(ミサ)で信徒に分けるパンとぶどう酒のこと。復活祭と同じようにその年によって日が変わる。今年は偶然6月24日のFiesta de San Juan(サンファンの祭り)の前日となった。これはイエスの先駆者、洗礼者ヨハネがキリストに洗礼を授けたとされる日。サンファンの祭りの日はなぜかホットドックを食べる(アメリカからきた習慣だとか?)とのことで、友人宅でソーセージの代わりにチョリソ(香辛料の入った腸詰!)を挟んだパンを食べた。現在は環境を汚染するからと禁止されているけれど、昔はこのサンファンの祭りの前夜祭でfogota(焚火)をして悪を追い払ったと友人のお父さんが懐かしげに話してくれる。1年で1番寒い日とされていたらしい。パチャママ(先住民の宗教の大地の女神)信仰と結びついているようだけれどこれははっきりしない。聖体の祝日は学校も仕事も休みだけれど、サンファンの祭りは祝日ではなく、祝い方はカトリック国でも様々なようだ。


Carnabal(謝肉祭)、Semana Santa(聖週間)、Pascua(復活祭)、そしてCorpus Christi(聖体の祝日)、Fiesta de San Juan(サンファンの祭り)とカトリックの祝い事が続く。奇しくもチリ領La Isla de Pascua(イースター島)から4日前に戻ってきたばかり。チリへの旅で考えたこと、そして帰ってからの短い4日間での出会い・・・。新しいことに目を開かされることが多くて、不思議な気持ちになる。出会いが出会いを呼ぶ。

今回のチリへの旅行はこれも思いがけぬ程ばたばたと決まった。同期から6月にイースター島に行かないかと声がかかったのが3月。アルゼンチンへの旅もあるし、さすがにやめておこうとも思ったけれど、1人だったらきっと行くことはないだろうと心を決めたのが5月。面倒見のよい同期のおかげで(感謝!)日本からだと考えられないほど割安で憧れの島へ行けることになった。6月にはプロジェクトを始めた4つのモデル校で一通り必要なことをやり終わって、新規の学校で活動を始める時期にさしかかって切りもよく。旅へ出る前の週は風邪をひいて仕事を1日休み、その他の日は学校を回っていたのでほとんどオフィスに行けないまま。それなのに旅行明けで久しぶりに出てきた日、同僚が普通に挨拶するからあれ?と思ったら、なんと教育省の決めた新しいカリキュラムが気に入らないと教師や学生がオフィス前でデモをしたため、旅行中の1週間オフィス閉鎖、仕事はなしだったとのこと。午後になってようやくそういえばチリはどうだったの?と聞かれて、お土産を取り出すことになった。

この旅はボリビアを新たな目でみるきっかけになった。アルゼンチンへは陸路でサルタへ入ったため、カラファテで物価の高さとカナダと変わらない町並みに多少目を見張ったものの、それ程ボリビアとの違いを思い知らされはしなかった。他のことで心が一杯だったこともあるかもしれない。今回は飛行機でいきなり首都Santiago(サンティアゴ)へ飛んだこと、ボリビアで1年を過ごした同期と一緒であったことで、見る目も違っていた。ある種のカルチャーショック。

夜行バスでタリハの同期とサンタクルス入りし、別の町で活動する仲間達とVilVil(ヴィルヴィル)国際空港で合流したのが午後5時。チリのLAN航空で向かった飛行機は途中、Iquique(イキケ)というAtacama(アタカマ)砂漠にある地方都市に到着、ここで入国管理局を通った。地方空港とはいえ、設備はボリビア一の空港ヴィルヴィルより豪華、入国管理も厳しく、その効率性にびっくり。隣に座っていたチリ人のセニョールが砂漠の真ん中にあるこの地方都市は発展が遅れていたため、政府が消費税を免除し交易が発達するようにしたと教えてくれる。実際多くの乗客がここで降り、その座席をサンティアゴに向かう新たな客が埋めて、人の流れがさかんなことを感じさせた。

夜10時サンティアゴ着。イースター島行きの飛行機は翌日8時発。空港で夜明かししようかと考えたものの、やはりしんどい。空港でタクシーの手配するおじさんが12ドルの宿があるというので、タクシーの値段を交渉の上、ホステルへ連れて行ってもらった。ところが、ホステルの値段が20ドルに値上がり。これではまるで詐欺。8ドル(56ボリ!)の差は大きい。交渉するもらちがあかない。すでに夜11時。疲れてもいたけれど、このホステルに泊らないことにした。この間、私たちを連れてきたおじさんは交渉に参加、2台のタクシーの運転手はずっと待っていた。ホテルの値上がりをおじさんは知らされていなかったとあとでわかる。

翌日6時半、時間ぴったりどころか5分前に迎えにきた前夜のタクシーの運転手さんが言ったことがふるっていた。仲間が昨日の私たちの苛立ちを謝罪したところ、彼は「あなたたちには怒るだけの当然の権利がある。チリにもいろんな人間がいるけれど、我々としてはチリにくる外国人に嫌な思いをしてほしくない、また訪れたいと思ってほしいと考えている。だから待っていたのだし、我々としては当たり前のことをした。」と。


サンティアゴ空港
 このプロ意識、時間の正確さ。そしてホステルから空港までのサンティアゴの町の整然とした美しさ。人々は礼儀正しくも陽気で、暖かい。車は歩行者優先でクラクションの音も聞かない。ボリビアの傍若無人な運転ぶりに慣れた私達は交差点では必ず立ち止まり、車が通り過ぎるのを待つ習慣がついている。その私達に気付くと数メートル手前で止まり、手でどうぞ渡ってと合図を送ってくる。泊ったホステルのお兄さんは夜中に突然どやどやと訪れた私に嫌な顔一つせず、荷物を運び、施設の説明をし、お茶まで用意してくれた。なんだか感動した。国境を一つ越えただけでここまで違うものかと。経済の発展ぶりに驚いたのではない。人々の違いだ。あまりにもボリビアと比べ、ともすればこき下ろすことにもなったから、私達の中でボリビアの悪口を言ったら罰金というルールまでできたほど。もちろんこれは冗談だけど、その中には私達の中に確実にある思い、仲間の1人がよく口にした「ボリビア頑張れ」という気持ちがあると思う。


ボリビアは南米最貧国と言われている国。それでもきっとアフリカなどの貧しさとは雲泥の差がある。学校に行き出すと汚れた服、破れた靴やカバンで通ってくる子供を見るようになった。その子供達の多くは学校に遅れて来がちだったり、高校まで進めなかったりと確実に貧富の差、民族による格差を感じる。でも、豊かな自然と資源に恵まれ、野菜や果物も豊富で、基本的なインフラも整っている。JICAの援助も除々に保健衛生面、教育面に集中しつつある。飢餓や貧困といったせっぱつまった問題ではなく、この国の人々が自分達の国をどのように発展させたいのかを考える時期にきていると感じる。

チリの魚市場
 学校に通う様になって、改めて教育の大切さを思う様になった。チリを訪れて、つくづく感じたのもそれ。海がある・ない、地下資源に恵まれている・恵まれていない、先住民が多い・少ないなどなど、同じ南米でも国ごとに違いはあるし、一概にはいえない。それでも結局国を作るのは人。感動したのは多分ボリビアにはあまりないサービス精神。企業と顧客、店主と客、タクシーの運転手と乗客。強いのは企業・店主・タクシーの運転手。物を、媒体を持っている側だ。例えばチリから戻って、あーボリビアに帰ってきたのだと確実に実感したのは、道を渡るとわざとのようにスピードを上げて突進してくる車、遅れても平気、搭乗口の突然の変更に右往左往する客をみてすまなそうな顔1つみせない航空会社の職員の姿(客は”Nadie sabe[誰も何も知らない]”とあきらめたように言うのみ)だった。ボリビア人が意地悪なのかというともちろんそんなことはない。個人的に接すると暖かく、親切で親しみやすい。それが仕事や商売になると、または車に乗るとどうしてこうも変わるのだろう。


ボリビア人の友人が興味深いことを言った。これこそが植民地主義の弊害。単純に言えば、白人(南米では主にスペイン人)がやってきて以来、南米の国々(南米に限らず)はその宗主国の植民地として天然資源や安価な労働力を搾取され、都合のよい市場または軍事的要地や領地の拡大の足掛かりとして使われてきた。これにより、人々の中に持てる者が強いという考えが生まれたという。例えば1950年代以前には町への立ち入りすら許されなかった先住民。1952年に初めて立ちあがった先住民の運動により、先住民や女性が投票権を手に入れ、徐々にその立場が向上していく。ところが力を手にいれてもその使い方がわからない。自分たちがされてきたことと同じことをするようになり、今やボリビア人同士で搾取しあうようになったと彼は言う。企業から運転手やパン屋に至るまで所有する者が威張り、顧客を見下す。地方政府も同じメンタリティをもっている。例えばタリハからビジャモンテスへのひどい道をどうしようともしない。だから一部を除いて観光事業が発展しない。外国から観光客を惹き付けることができない。多くのボリビア人は地方主義者で、目先のことしか見ることができず、他国との関係の中で自国を見ることができない・・・ラパス出身とはいえ、タリハにこのようなものの見方をする人が住んでいることに驚いた。

脱植民地主義はエボ・モラレスの新教育法が抱える旗印の1つ。学習と現実の生活が結びついていない前近代的な教育現場ではあまりにも観念的すぎてとても実践できそうもないと思われたし、そもそも「脱植民地化」の意味を理解している校長や先生は少ないだろう。エボ・モラレス政権も他のあらゆる政策同様、この言葉の意味をきちんと説明しきれていないと感じる。一貫性のないモラレス政権だけど、それども以前より自由にものが言えると友人はいう。いずれにしても、このメンタリティの変換(それを脱植民地化と呼ぶかどうかは別にして)が行われないとこの国は変われない気がする。教育はその要だ。

昼のニュース。教育省の大臣が長期休暇に宿題をだすことは禁止、出した教員は罰せられると話している。学校は半日制、行事や祝日、祝日の前夜祭でしょっちゅう授業がなくなるボリビアにおいてこの禁止令。授業をする同じやり方のままで宿題をだしたからといって何かが変わるわけではないという点では正しい。ただ、教育の大切さを軽んじている気がしてなんだかしっくりこない。宿題は結局、どんな宿題を、何を意図してだすかという先生の意志しだいで意味があるものにも、ないものにもなるのに。

掃除・分別・リサイクルのプロジェクトを始める最初の教員向けのプレゼンで必ず口にしたのが、ボリビアには日本初め先進国が犯してきたのと同じ間違いをしてほしくない、という思いだった。自然から搾取するのではなく、共に生きつつ人々の生活をもよくしていくオルタナティブで新しい道を見つけてほしいと。その道が具体的にはっきりと見えているわけではなく、これがその方法と伝えることはできないけれど・・・3Rの啓発はその助けになると思っていた。

そんな中少しずつ大きくなる違和感。リサイクルは大切ではある。けれどボリビアにはそれ以前の何かが必要なのではないかという思い。ある高校生が紙は木からできていることを知らなかった時のショック。「環境に優しい」というのは全世界の歌い文句、気候変動もホットな話題だ。ボリビアも、少なくとも私の知るタリハはその御多分に洩れない。環境意識が高いと評することはできるけれど、何かが違う。リサイクルの推進はリサイクルさえすればいいといういい隠れ蓑になる。それ以前の大量消費、自然からの搾取にまで目がいかなくなる。紙が木からできていることすら知らなければ、紙をリサイクルする理由をどうやって理解できるだろう。しかも紙のリサイクルにおいては大量の水を消費する。紙に限らずリサイクルにかかる水や電力の消費が環境に与える悪影響は議論の的になっている。そこまで視野にいれて新たな道を模索するためには・・・。プロジェクトの、ボリビアでの仕事の在り方を問う思いが大きくなる。考えすぎるとにっちもさっちもいかなくなるけれど、少し方向転換しなければならないことを感じる。


未だ堂々巡りを続けているけれど、チリへの旅で受けたカルチャーショックはボリビア人のメンタリティから自分のプロジェクトの意義までまた新しく考えるきっかけになった。「脱植民地化」という言葉は昔よく目にし、使いもしたから、ボリビアの教育法で目にした時は懐かしくさえ感じた。そしてあの頃は観念にすぎなかったことを実感している。今だって同じようなものだけれど、実際に「途上国」であるボリビアで教育現場に少しなりと携わると多少現実感が伴ってきたように思う。アメリカによる開国や敗戦が日本人のメンタリティに大きな影響を及ぼしたように、植民地であったことやその後のアメリカ合衆国の干渉はボリビアはじめラテンアメリカ諸国に多大な影響を及ぼしているのは当然のことだと思う。ボリビアがまるでヨーロッパの一国のようなチリを追いかける必要は全然ない。たったの1週間、サンティアゴとイースター島にいただけではわかりようのない歪みが急発展したチリにはきっとあるだろう。ボリビア、チリ、アルゼンチン・・・あまりよく知らない南米の歴史をもっと知りたいと思った。

今日はボリビアへきてちょうど丸1年。
実り大きかった1年。
チリの発展ぶりにびっくりしたけれど、ボリビアに帰ってきてほっとしている自分がいる。職業的なサービス精神がないからこそ、見せかけではない真の暖かい心と笑顔に触れられるボリビア。
ここへ来る機会を与えられたこと、ここへ来ることを選択できたこと、全てに感謝したい。


朝日~日本からラパヌイへ


2011/06/06

試行錯誤は続く・・・

出番待ち
 今日はDia de Maestro、先生の日。生徒達が歌い、踊り、花やプレゼントを渡して先生に感謝の意を示す日。プロジェクトを始めた学校に招いてもらった。

 日本にしてみたらそれほど大層なことにも思えないシステムなのに、ボリビアで始めようとするとなぜこんなにも大変なのだろう。やっぱり教員同士のコミュニケーションが少ない上、協力して何かをしやすい体制ができていないからだろうと思う。

 定期的な職員朝礼や会議がない。会議室どころか職員室がない学校もある。先生は出退の時間を記録する台帳にサインする時、または10分の休憩時間に、秘書室と職員室が一緒になったような部屋にやってくる。日々の連絡事項を伝えるのはこのときくらい。休み時間に教室から降りてこない教員もいるから全員の先生に周知徹底することは難しい。そもそもほとんどの教員は用事でもない限り、自分の授業がある時間にしか学校に来ない。授業時間外に学校へきて別の仕事をするなんてことはよほど意識のある先生でないとやらない。小学校ですらそうだから、高校になると更にひどくて、講師だけで学校で成り立っているようなもの。もちろん、連絡事項をボードやノートを使って知らせる工夫はしているけれど、そんなの聞いてなかったわよという先生も多い。先生同士で教えあったり、情報を交換したりする機会は限りなく少ない・・・。

 これはボリビアの先生達のせいだけではない。先生がじっくり仕事に取り組める環境が整っていない。働き始めたばかりの先生の給料は月1200Bs、25年間働いたベテランの先生でも4000Bsに満たない。日本円にすれば、4万5千円ほど。いくら物価が安いとはいっても、生活に余裕はない。多くの先生は子供を抱え、学校は午前か午後にしかないから迎えにもいかなければならない。お昼ご飯が一日の中で一番大事な食事だから、それなりに気合いをいれて料理もしなければならない。授業以外の仕事を求めるのはやっぱり酷だと思う。せめて、午前の学校なら午前中、午後の学校なら午後の間は先生達が学校にずっといて、仕事に専念できるシステムができればいいのだけれど。

 そんな中、協力してくれる先生達には本当に感謝したくなる。始めたばかりの頃、学校にいくと2人の先生が軽く言い争っていた。1人の先生が中身のジュースが入ったままでぐちゃぐちゃになっているのだからと、分別されたプラスチックの袋をみんなEMATが回収する埋め立て地行きのコンテナに移した。もう1人の先生はそれでもせっかく分別できてるんだから、今回は洗ったらいいじゃないと力説。そして自分で何百枚ものジュースの袋を洗い始めた。なんとかなるんじゃない、と初めて思った。
校長先生や担当の先生たちと集まって対策を考える。校長先生にやる気があること、一所懸命な先生がいること、これがなければ何も出来ないことをしみじみと感じる。この対策を考える会?も多くの場合授業時間に行われる。校長先生は気軽に担当の先生を呼び出してくれるけれど、その間生徒はどうしているのだろうか、気が気ではないから、なるべく昼休みに合わせて出かけ、手短にすませられるようにする。


授業そっちのけ。楽しい!?
 掃除時間は10分だけ、それ以上でもそれ以下でもなし、ゴミは必ずこの時間にコンテナまで運んでくるなど、最低限のルールを確認。掃除時間にはわかりやすいように音楽をかけるのはどうかな。子供たちに分別はやはり難しい。教室で先生たちがチェックをしてくれたらいいのだけれど、そこまでに至るには時間がかかるから、どうしてもコンテナについて分別を手伝う人が必要だ・・・誰が適役だろう?上級生?用務員さん?フォローアップにアンケートをとろう。ジュースの袋はちゃっと中身を抜いて、皺をのばてもって来るように先生達に言おう。少しずつ話し合って、改善案を考える。

 こうして決めたことを一番たくさんの先生たちが学校に来る日、休み時間に集まってもらって伝える。いない先生には秘書の女の人から伝えてもらえるようにお願いする。プロジェクトを始めるからとゴミと分別の授業を行い、子供たちに堂々と開始宣言をしたのに、先生たちが責任をもってイニシアティブをとらなければ、子供たちもそれでいいのか思ってしまうよと(自分が聞いたらかなり耳の痛いことを^^)言ってみる。このあたり、ボリビアの人達はとても素直。うなずきながら聞いてくれる。(聞くだけ・・・が多々なことは横において。)


 それでも、少しずつ状況がよくなってきた(と思う)。休み時間、掃除の時間、放課後、様々な時間に学校に顔をだしてみる。子供達に話を聞く。先生に声をかける。熱心な先生は最初から本当に熱心にやってくれて、頭が下がる思いがする。ほとんどの教室にゴミ箱がそろった。音楽が鳴り始めて少しするとごみ箱をもった子供達が降りてくる。まだ全クラスではないし、分別も完璧ではないけれど、数が増え、3種類のゴミ箱を抱えている。コンテナの横に、常に分別を手助けしてくれる人がついてくれる。何より担当の先生にどう?と聞くと、ましになってきたわと、笑顔がある。



 一週間後、アニセトアルエ午後校とウンベルトポルトカレロ2校が始めた。アニセトアルセ午後校は校長先生がかなり厳しい人。私が特に何をせずとも、学校でできることをしっかり把握して、先生を、生徒を動かしている。ゴミ箱がまだ揃えられていないから、今はプラスチックのみを分別すると決めた。以前NGOが入ってやっていたプロジェクトの名残で、子供達はジュースの袋を最後まで飲みきり、しわをきちんと伸ばしてクラスごとに集めて持ってくる。たまに顔をだして、こちらがアイディアを盗む、3つめのゴミ箱をそろえ、紙もリサイクルしてくれるように声をかける、くらい。

 ウンベルトポルトカレロ2校は、さすが高校。ゴミ箱は生徒たちがお金を出し合い、小学校と同じ紙用、プラスチック用のゴミ箱に加え、コンポスト用に有機ゴミをいれるゴミ箱も用意した。正直これにはとてもびっくりした。元々上記の小学校と同じ日に始める予定を一週間延ばしたのは、ゴミ箱が揃わなかったから。生徒に用意させていると聞いて、とても無理だろうと思っていたら、きちんと揃えられていた。あるクラスは段ボール箱にナイロンを張って手作りし、別のクラスは四角いアルミ缶を用意するなど様々だ。用務員さんがしっかりしていてコンテナの管理をしてくれる。問題は全てのクラスの生徒達が毎日ゴミ箱を教室からもっておりていないこと。つまり肝心の掃除が毎日できていない。分別もクラスによって相当差がある。それでもここまでできるなら、先生の声のかけ方一つで変わる気がする。


暑い!
 そして、この学校で有機ゴミからコンポスト作りを始めることになった。町外れにあるから庭が広い。コンポストはコンポストで、作った後のメンテナンスが大変。多少心許ない。けれど生物の先生は一番責任感があってまとまりのあるクラスを選んだし、成績にもいれてしっかりやらせるから大丈夫と請け合う。一番やってみたかったこと。オルガに”tus hijas”と笑われる、以前もらったカリフォルニア・ミミズはかなりの数に増えている。いよいよ出番!?最初の授業はコンポストの説明をしてから、寝床づくり。念のためミミズを使うのと使わないのと二つ。寝床はこんな感じでいいの?水分はどれくらい?本当に温度があがるかな?ミミズは冬休みを生き延びれる?どうやって世話していけばいい?など?マークだらけ。でも、もしいいコンポストを作れたら、花や野菜を育ててメルカドで売ることもできるかもしれない・・・

リサイクル業者が回収にきた。計57Bs
 1年目はお試し、実験、試行錯誤。冬休みに入るまでに1サイクルやってみたいと思っていたことがなんとかできそう。2年目はやってみたいという学校を募ること、継続してもらえるよりよい方法を考えること、ただリサイクル業者にもっていくのでなく、コンポストや紙作りをすること、そして・・・と夢想は続く。4校とも今はそれなりに改善していっているようだけれど、まだまだ問題がでてくる気がする。これから長く続けていこうと思えば、システムとしては弱いし、校長先生と担当の先生がいなくなれば、2・3人のとても意識のある先生が続けるだけになってしまうだろう。ゴミとリサイクルにこだわらず、色んな教科と関われる方法をもっと考えないと。


 今回この掃除、分別、リサイクルのシステム作り(便宜上プロジェクトと呼んでいるけれど)を始めて、自分が学ぶことがとても多い。自然と調和して生きるということ、それは言葉でいうととてもきれいだけれど、現実には虫やみみずやカビ、その他もろもろの生き物、今まで袋にいれて蓋をしてきた、ほうっておけばすぐ腐って臭うゴミや動物の糞と顔をつきあわせることでもある。環境教育の一環としか見なしていなかったこのプロジェクトを通して、人間のとても本質的なことを伝えられることを今更ながら思った。あるクラスは先生が掃除を罰として用いていた。それでは、一番大事なことを子供達が学ぶことはないだろう。肝心なことを伝えきれていなかった。きれいに掃除をした後の清々しさ、ものを大切にする精神、自然の移り変わりを敏感に感じとる心、人をもてなす気持ち・・・。8年近く続けてきた茶道の基本でもあるのに、普段の生活と結びつけて認識できていなかった気がする。


 子供達の発表は続く。1年生から8年生まで学年ごとに。マイケルジャクソンの曲に合わせて踊ったのは4年生。チャカレラは3年生。5年生の男の子は慣れた態度でフォルクローレの歌を歌い上げ、上級生はボリビア各地の伝統舞踊を披露した。発表は1時間半ほど。11時に子供達が帰った後、先生チーム対お母さんチームでバスケの試合。観戦していたフランス語の先生は先生チームは体が重いな、おかあさんたちは若いと失礼な感想をいっている。そして昼食会。Picante de pollo (ちょっと辛いソースを絡めた鶏肉)。お腹いっぱいになった。宴の後Patioをチェック。ゴミはやっぱりある!けど・・・以前よりずっと少ないような。そう思うことにした。