2011/10/31

ミミズコンポストとアララチ自然保護区




 9月~10月はタリハに腰を落ち着けて、学校をまわる日々が続きました。評価、試験、補習が始まる11月に入ると、学校での仕事は難しくなります。12月の学年末と卒業式にむけて先生達は大忙しになるのです。新しい学校でリサイクルのシステムを作る活動を続ける傍ら、以前から働き始めた学校ではコンポスト作りを継続します。寒さであまり変化がなかったコンポストも、冬休みがあけて暖かさを増すにつれて活発に分解が進み始めました。

 コンポスト作りは生物の授業を使って行うので対象は日本でいう中学生から高校生。学校、学年、クラスによって反応は様々でしたが、コンポストに使うミミズを実際に観察しながら生態を学ぶ授業はどの生徒も大喜びでした。この授業に向けた準備のおかげで私もミミズについてちょっと詳しくなりました。雌雄同体であることや皮膚で呼吸すること、心臓は5つのパーツに分かれていること、小さな脳とながーい腸をもっていること、環帯と呼ばれる白い輪の部分で生殖活動を行うこと、だから環帯は大人のミミズの証であることなどなど。コンポストにはカリフォルニアミミズ(日本で使われているシマミミズとたぶん同じ)という生ごみを食べる種類を使います。糞に含まれるミネラルによってコンポストの質があがるのです。





 コンポストを作るのは初めて。ネットとボリビアで手に入れた冊子を見ながらこわごわと始めました。材料もそろわずコンポストの寝床も写真の通り。それでも最初に始めた学校ではこげ茶色のほくほくした土ができ始めました。生徒たちは週に1度の生物の時間に混ぜ返しを行い、新たな生ごみを足し、水を撒きます。夏になり、温度があがると週2度水を撒いて、湿り気を保つようにしました。ミミズはどんどん増え、黒々と大きく太ってきています。黄色がかった透明の卵、小さくて白い赤ちゃんミミズやピンクがかった子供ミミズもたくさんいます。興味を持つ生徒ももたない生徒もいるけれど、変化をみるとやはり嬉しそう。近くにあるたくさんある鳩の糞を入れてやってみたらどうだろうと実験用に小さな寝床を作ったのはやんちゃな男の子たちです。出来あがったコンポストは庭の植木にあげたりしていますが、来年は畑を作って野菜を作ろうと話しています。
 
 そんなある金曜日の夜、Escuela de Convenio(カトリック教会の援助を受けている公立の学校)のダンスのプレゼンテーションがありました。通っている学校の1つ、U.E Teresa de Calcuta(マザー・テレサ学校)の先生達と練習していたMexicana(メヒカーナ)というメキシコの踊りを踊りました。先生たちだけではなく、学校を代表して子供や生徒たちも踊ります。6時に開始の予定がようやく7時半ころに始まるという相変わらずのタリハらしさ。創立記念日、母の日、先生の日・・・生徒たちによるボリビア各地のダンスは見慣れてきてもいたし、あまりにも回数が多すぎる上、練習と称して授業がカットされ、ただでさえ午前又は午後のみと授業時間数の少ないボリビアの学校、首を傾げることもありました。ボリビアの子供達の学習時間の少なさは相当なものです。それでも、初めて公に参加したダンス大会。見るだけとは違った楽しさです。メヒカーナはゆっくりした動きの踊りで難しくはないけれど、さすがに緊張。結局全員そろって練習することがなかったから多少?ずれはあったものの、最後まで踊りきって会場から拍手をもらった時はほっとしたのでした。揃えた衣装もフクシア色の長いドレス。着ているだけで楽しい気分になりました。


 そして10月23日、U.E Nazalia Ignacia March(ナザリア・イグナシア・マーチ校)の最終学年、日本でいう高校3年生のクラスを自然保護区へ連れていきました。アルゼンチンとの国境、Belmejo(ベルメホ)への道の途中にあるReserva Natural de Alarachi(アララチ自然保護区)です。サマの自然保護区の職員の仕事について行かせてもらって下見したり、Alarachiの自然保護区を担当するNGO、PROMETAと打ち合わせを進めて、今年中に一度はどこかの学校でやりたいと思っていたけれど、デモや行事で授業時間を削られなかなか実現しなかった体験学習。雨季がはじまったばかりでまだ緑が少なく乾燥したサマより、標高が低く湿度の高いアララチの森が生物の先生の興味をひいて、今回連れて行くことになりました。

 人間の活動が自然に及ぼす影響を考える事前学習をした週末日曜日、Mercado Campesino(メルカド・カンぺシ―ノ)前に集合。集合時間は8時。全員集まったのは8時半。まずまずの出だしです。21人と少人数で仲の良いクラス、一緒に働く2人の生物の先生が引率です。今回、PROMETAとの書類のやりとりやガイドの手配は私がしたけれど、バスの手配をしてくれたのはクラスの男の子たち。学校のない午前中は仕事をして家族の手助けをするボリビアの生徒には社会性があり、思わぬ大人っぽさを見せてくれます。少々ガタのきたミニバスはとてもゆっくりで、ガイドが待っていてくれるはずの小さな村Mamora(マモラ)に到着したのは予定時間を30分以上過ぎた10時半過ぎ。ガイドにもPROMETAの友人にも電話はつながらず、暇げにたたずむ警官は親切だったけれどガイドは知らないとのことで、ミニバスで少し先にあるという保護区の入り口へいってみることにしました。ところがここにも誰もおらず。なんだか嫌な予感・・・。ここまで来ると電話の電波も入らず、お手上げとなりました。保護区の看板からおそらくここだろうと見当をつけて草木の中に入ってみるも地図もなく、引率3人でさてどうしようかと顔を見合わせました。

 それでも少し歩くと水の流れる音が聞こえてきて、川が近いことがわかりました。確か滝があったはずと、川の上流へ向かって30分ほど歩きました(でも、なかった・・・)。石だらけの川沿いをキャーキャーいいながら歩き、川べりでお昼御飯としました。男の子たちが川で泳ぎたがるので、少々心配だったものの許可。早い流れにのって楽しげに遊んでいます。残った生徒たちと写真をとったり、歌を歌ったりして過ごし、川遊びをする男の子の服を女の子が奪いにいったりして(水着はもってきていない・・・)それなりに楽しんではいるものの、さすがにこれだけで帰るわけにはいきません。せっかくお金を出し合ってバスをチャーターしてきたのに、いくらなんでも悲しすぎます。とはいってもガイドをする知識など私にあろうはずもないし、いくら生物の先生でもそれは無理。少々焦ってきた3人。

 
 一度ミニバスへ戻ろうと生徒たちを行かせた直後、男性が1人斜面を降りてくるのが見えました。もしや!と思ったら、ガイドさんでした!マモラで待っていたけれど、来ないから一度保護区へいってみた、それでもいないから、ここへ戻ってきたらミニバスがあったからずっと探していたんだとのこと。そう、実は川べりへ向かっていた時、人の叫び声を聞いた気がしたのでした。一回きりでとぎれたので、気のせいかと思ったのですが、きっと彼だったのでしょう。アルゼンチン人だという男前のガイドさんが天使に見えたのでした。時間は14時。今からでも行けるかと聞くところ構わないとのこと。保護区は実はもう少し先だとのことでバスに乗り込んできたガイドと共に向かいます。途中3つの真っ暗なトンネルを通ると生徒たちは歓声を上げて大はしゃぎ。ちょっと退屈してきたところだったのでと、ガイドさんに言い訳しつつ、彼に会えた安堵感で私たちの気持ちも高揚。


 
 そして連れて行かれたのは熱帯の森。タリハからベルメホへ向かう道は次第に緑が増して日本の景色に似てきます。茶色い禿山から木々に覆われた緑の山へと変わってくるといつも心が浮き立つ思いがしました。その幹線道路からほんの少し中へ入っただけなのに、保護区内の森へ入った途端の気温の変化は劇的でした。湿度がぐんとあがって暑くなります。最初にいた川べりでは寒かったくらいなのに、散策道を少し歩くと汗びっしょり。咲く花々も赤や黄色の原色で派手です。木を切り、道路を通すことでここの気候はかなり変わったことでしょう。木々にまきつく蔓は丈夫だからのぼってみろというガイドの言葉に男の子たちはターザンごっこ。ぶんたんに似た木の実を食べてみるように差し出すガイド。ゴムの木の幹を削って白い汁を出してみせます。つられて華やかな花を折ってしまった女の子。嬉しそうだったけれど、さすがにこれは注意。本来自然保護区ならばそこにあるものを傷つけてはならないけれど、五感を使って自然を体感するのも大切。迷うところだけれど訪れる人間皆がこんなことをしていたら保護区の意味がありません。ガイドの教育はどうしているのだろうと気になりました。


 たった1時間ちょっと(ミニバスではかなり時間かかったけど)下っただけなのに、タリハとは全く異なった気候。ボリビアの豊かさにまた触れた思いでした。滅多にタリハをでることのない生徒たちがはしゃぐのも当然です。帰りはさすがに疲れて眠りこむ生徒たち。それを見ながらやっぱり連れてきてよかった、ガイドに会えて良かった(!)と2人の先生と大満足したのでした。手順を聞いただけなのと、一度経験するのとでは大違い。次回連れて行く時に必要な事柄も、事前・事後学習に盛り込みたい内容もわかってきました。実際ゴミについてはプロジェクトの威力(?)もあって、生徒たちは袋につめたゴミを自慢げに見せ、バナナの皮1つ残すことなく川辺及び保護区を後にしたのでした。12月に卒業するこの子たちと会う機会はもう数少ないけれど、初めて企画して出かけた彼らとの体験学習をきっと忘れないでしょう。そして彼らにとっても東洋から来た外国人との遠出はまた格別だったようで、国際親善(?)にも貢献したのでした。11月には卒業旅行でラパスに行くと言う彼ら。GripeH1N1(インフルエンザ)がはやりだして、学校単位の旅行が禁止になったともいわれているのでちょっと心配です。無事に行けるといいなと思います。18時にはもどっている予定がタリハに到着したのは20時。保護者に何か言われたら携帯に電話しなさいと引率の先生たちが言っています。途中家の近くでバスを降ろしてもらって、3匹のノミをお伴に、気持ち良い疲れを感じながら帰ったのでした。(1匹はシャワーをしたその翌日発見!どこにいたの??)



2011/10/11

TIPNIS ~先住民による大規模なデモ~

 9月26日月曜日、電話による連絡網で28日から行われる予定だった健康診断、安全対策会議、総会が延期、もしくは中止になる旨が通達されました。総会ではサンタクルス市民に向けたフェリアを開催予定で、そのための準備を長くしてきたこと、仲間と会う機会を楽しみにしていたこと、と二重にがっかりだったのですが、タリハにいるとそれほど実感はないものの事態は深刻です。

 政府がベニ(サン・イグナシオ・モホス)とコチャバンバ(ビジャ・トゥナリ)間に通そうとしている道路がイシボロ・セクレ先住民族テリトリー自然保護区、TIPNIS(Territorio Indígena y Parque Nacional Isiboro Secure)を横断することに反対し、先住民グループがデモ行進をし始めたのが8月。TIPNISの人々が自分たちの生活を守ろうと立ちあがったのを他の先住民たちが応援し、さらにそれをサポートとする学生、市民団体、NGOが加わって大規模なものになりつつありました。9月25日、この先住民の行進がTIPINISからラパスへ向かう途中にあるヤクモ(Yacumo)という町に到着した時、警官隊が介入し、催涙ガスなどを使用して死者、けが人、そして大勢の逮捕者がでました。行進には家族連れも多く、子供が亡くなったという話も伝わっています。ヤクモの町は行進に反対しており、この介入は先住民のグループとヤクモの人々との争いを避けるためだったと言われていますが、これにより多くの人々の同情が先住民グループに集まり、26日全国的なデモが行われたのです。総会開催予定地のサンタクルスのプラザでも大勢の人々が集まったとのことで、中央から離れ常に穏やかなタリハでも学校が休校、先生達も大勢デモに参加しました。

 この事態を受けての一連の会合の延期または中止の連絡です。実際26日の昼間、テレビを見ていると騒然とした現場の様子が伝わり、本当に事態が悪くなってボランティア全員引き揚げ・・・という状況にもでもなったらどうしようという思いがちらりと頭を横切ったくらいだったので、その後まわってきた電話の内容に、がっかりはしたもののある程度覚悟はできていました。そしてその夜。大家さんオルガと一緒に見ていたニュースで、モラレス大統領が道路建設の中止を宣言しました・・・・この宣言がまた唐突。全国規模のデモに根負けしてのその場しのぎという事情が丸わかりで、年末年始にかけてのガソリン値上げ問題Gasolinasoを彷彿とさせ、モラレス大統領の評価は(私の中で)地に落ちたのでした・・・。

 このTIPNISの話はデモ行進が始まった頃に前後してよく話題に上っていたし、友人の中にはこのデモ行進に参加するためにベニまで出かけた人もいます。オルガともよくニュースの話をしていました。それでもはっきりしなかったのが、TIPNISの人々の生活を保障し、道路の建設がもたらす利点を伝え、自然をなるべく損なうことなく道路を通す道はなかったのかということです。事態がここまで大きくなる前になぜきちんと話をしなかったのだろうと不思議でした。道路が通される予定地には50家族ほど、それほど多くの先住民が住んでいるわけではないと同僚は言います。それでも時間がたつにつれ、少しずつこのTIPNISにまつわる問題の複雑さがみえてきました。

 大統領の言い分は、このTIPINISを縦断する道路が通されればアマゾンというジャングルに閉ざされているベニ県とパンド県の経済的発展を助けることになるということです。友人たちがベニのサン・イグナシオ・モホスを訪れた時、雨が降って道路が泥の川となりバスが動かなくなって、泥まみれになりながら次の村まで歩いたとのことでした。さらに奥のパンド県へ行くのはもっと難しいのです。アクセスがよくなれば生活の基本である教育や医療の手もより届きやすくなります。道路の建設が実現できればベニ県にあまりあるおいしい牛肉(トリニダ在住の仲間談)をはじめとした特産物を簡単に都市部に輸送できるという利点もあります。自然破壊ということを考えれば、道路が通されない方がいいけれど、これはこうした道路によってもたらされる生活の便利さを享受している町の人間が一概にどうこう言えないことだと感じます。

 先住民の人々の心配は道路の建設に伴う人の移動です。ボリビア高地で行われているコカの栽培は土地の劣化に伴い、生産量が減少しているという話もあり、道路ができることでTIPNIS内にコカ栽培者が入植し、コカを生産し始めるのではないかと心配しているのです。コカの栽培を行うのは主にアイマラの人々であり、その合法性を認めているのはアイマラ出身の大統領です。これにより大統領は国際的な非難をあびてもいます。入植者がTPINISに入って来始めた頃、入植者側代表者としてTIPINIS側の代表者と交渉をしたのは大統領にある前のエボ・モラレスだったそうで、入植者側(多分コカ栽培を行うアイマラの人々側)であるモラレスが今大統領であるという権力にものを言わせて、自分の代表する民族の利益のために働いているととられても仕方ないといえます。そして実際にそういう部分はあるのだと思います。そうなると大統領が言うベニとパンド県、TIPNISの人々の発展のためという歌い文句がうさんくさく聞こえてきます。TIPNISの先住民は土地を奪われる可能性もあるのです。加えて、今回の工事を落札したのはブラジルの会社。TIPNIS内には石油があり、その採掘と輸送、そしてボリビアの安価な品物と労働力をブラジルにいれるために道路をつくりたがっているという話もあります。石油関係の人間のためどころか、麻薬密売人のための道だという人もいます。

 同僚はTIPNISの先住民たちは僻地での自分たちの生活をかえたくない、なぜなら僻地であるからこそ各国のNGOが入ってくるけれど、道路が通ってしまえば生活が変わってしまい、援助が届かなくなることを恐れているのだと言います。援助が途切れることを恐れているかはともかく、私たちの目からみて「文明化」されていないにしろ、彼らが慣れ親しんできた昔ながらの自分たちの暮らしを変えず守りたい気持ちは何より強いものでしょう。そしてNGO等によって行われた調査によると、この道路の建設が世界で最も豊かなものの1つと言われるTIPNISの多様な生物種に与えるダメージは相当大きいとのことです。

 一方モラレス大統領はこの先住民の行進は反米を大っぴらにしている現政権を転覆させようとするアメリカやアメリカの息のかかったNGOが扇動しているのだと主張しています。必ずしもTIPINISの先住民の願いを体現したものではないと。ボリビアに来る前、アメリカがいかにラテンアメリカ諸国の政治経済に介入してきたか、アメリカの多国籍企業がどれだけ搾取を続けてきたかという本を数冊読んできた私には、これも実際のところありえるのかもしれないと思ったりもします。けれどもこれがTIPNISの人々の主張を無視する理由にはなりません。

 ボリビアにはアイマラ・ケチュアなど多数派の先住民、TIPNISの人々をはじめとする少数の先住民、先住民の枠でくくられないボリビア人・・・それぞれの間で色々な考えの違いがあり、そこが多民族を抱えるボリビアの難しさなのだと改めて感じます。同じような問題がタリハでおこったら、タリハの人々の反応も全然違ったものになるはずです。周辺国やその他の国、NGOや企業、それぞれの利益団体にそれぞれの思惑があります。それでも少数の先住民のために多くの人々が立ちあがり、関心をもっていることはいいことだなと感じます。

 大統領はボリビア多民族国家と国名を改め、ボリビアの数多い先住民の権利を尊重するそぶりを見せながら、結局自分の出身民族であるアイマラ族のことしか考えていないのだという批判をタリハでよく耳にします。外向きの言葉だけいいから諸外国はそれに騙されていると。先日オルガのお姉さんエルヴィラとドイツ人の旦那さんのヴォルフカンと話していた時、エボ・モラレスが自然保護区、もしくは先住民テリトリーに関する法律を変える法案を議会にかけていると言っていました。国連で母なる大地(Madre Tierra)の権利について演説してきたばかりの大統領がこの行動。矛盾する言動が多くて、大統領への信頼が失われていくのがわかります。

 10月11日現在も先住民の行進は続き、まもなくラパスに到達しようとしています。この行進を止めるため、軍が出動する可能性は十分あり、そうなったとき惨劇は避けられないとオルガは心配しています。今までの思いつきだけのような行動から多少まぬけな?印象があるけれど(オルガいわくエボ・モラレスは高校も卒業しておらず無学なのだとか)、エボ・モラレス大統領のMAS党は議会の大半を占め、軍部との折り合いも良好。この法案を通すことはたいして難しいことではなく、これを契機に彼がより独裁者としての要素を強めていくことも考えられます。「先住民出身初の大統領」という言葉に込められた希望をエボ・モラレスが裏切らないでくれるといいなと思います。

  TIPNISの先住民を後おしするために行われた26日のデモ。教員組合はじめその他の組合も参加して大きなものになりました。反モラレス大統領の動きが大きくなったともいえます。突然の道路建設停止宣言はこれをおさえるためと思われます。この後10月6・7日にもデモが行われるとか、行われないとかいう噂があり、多くの学校が休校になっていました。これがなんのためのデモかは、実際あまりにもデモがしょっちゅうありすぎてボリビア人達も興味を失っているのか、同僚もニュース見なかったからわからないわ、と言うほどで、はっきりしないまま。TIPNIS関係ではないらしいのですが。

 折しも、この日職場SEDUCA(教育事務所)は大勢の先生達でごった返し、友達からSEDUCAで(に対して?)デモがあるの、と聞かれたくらい。実はエボ・モラレス大統領が教員1人1人にコンピューターを配布することを決め、これを手に入れるために必要な書類を求めて先生達がやってきているのです。例のごとく、コンピューター配布の日程とその方法が突然発表されたため、先生達が大挙してSEDUCAに押し掛けることになりました。9日、日曜日には大統領がタリハ入りして、セレモニーを行いました。全てのコンピューターには大統領の写真がはってあるとか。

 7日木曜日からSEDUCAの入り口前には長い列ができ、建物の中に入ればごったがえす先生達の間をすりぬけて自分の部屋へ行かなければいけないありさまです。一緒に働いている先生達にたくさん出会いました。そのうちの1人はここまで自己宣伝をする大統領は初めてだわ、とため息をつきつつ書類を得るための列に並んでいました。この行為も教員の視線をTIPNISからそらすためだとしたら、大統領(もしくは側近?)は結構知能犯かもと、思ってしまいます。配布を決めたのはかなり前、配布の日程は突然、でしたから。コンピューターはあくまで貸与であって、贈り物ではない、というところに一抹の希望をもちたいところです。自分の生活・仕事を見てもどれだけコンピューターに頼っているかがわかるので、この貸与は使う先生しだいで意味あるものになると思います。

 前回インカ道で出会ったボリビア人の話をしたところ、オルガが言うに、タリハの田舎の村の生活がよくなったのは前年反エボ・モラレス派として更迭された前知事マリオ・コシオ(Mario・Cossio)の政策によるものが大半で、大統領の政策ではない、エボ・モラレスは上手に自分がやったことのような顔をしているだけだということです。これに騙されて多くの農民たちはモラレス大統領を未だに支持しているのだといいます。これもあり得るのかなと思えるのです。この1年と少し、ボリビアを見てきて、政治の腐敗と汚職というものは確かに存在するのだなと感じます。日本の政治がクリーンであるとは決していえないけれど、日本にはない種類の政治の私物化が確実に存在します。

 以上、書き記したことは色々な噂、大家さんや同僚や友人の話、新聞、テレビやラジオ、インターネットから寄せ集めたもの。何が真実なのかは私にはわからないのが正直なところですが、裸足で行進する人達もいるという先住民のグループが無事ラパスに着くこと、軍の標的になるようなことだけはないことを願って事態を見守りたいと思います。

2011/09/28

El Camino de Inca ~インカ道を歩く~




たった1つだけ、珍しいサボテン
 9月24・25日。イギリス人の友人がインカ道を歩くからいこうと誘ってくれました。Mercado Campesinoのさらに先、Parada de Norteに朝7時集合。総勢5人。イギリス人のトム、イタリアのジョルダナ、フランス人のフランシスコ、ボリビア人のアルド、そして私と偶然にもばらばらの国籍だけれど全員タリハ在住。外国人が多いとはいえないタリハ。逆にいえば、トレッキングをしたがるのは外国人くらいだということです。交通網の発達していないボリビアにおいて、歩くことは日常の移動の手段でもあります。緑と水と山の空気を楽しむためのウォーキングの概念はあまりないようです。タリハの自然を知るための最もお金のかからない娯楽。ずっとここを歩きたかった理由は「インカ道(El camino del Inca)」という浪漫のある名前に魅かれたこともあるけれど、学校の課外学習に組み込めないかと考えたからでもあります。今回の行程は一泊。ここまで長いものは無理でも、一部なりと出来ないか探りたいところ。

見慣れない顔!?
 まずは小さな乗合バスでサマの山を越えた最初の町イスカヤチ(Iscayachi)へ。少し休憩した後、新たな客を乗せ同じバスがインカ道の入り口タクサラ(Tajsara)へ連れて行ってくれました(45ボリ)。ラグナ・グランデ(Laguna Grande)、通称タクサラ湖(Laguna de Takjsara)はフラミンゴがみれることで知られているけれど、まだ飛来していません。乾季で小さくなった湖を横に歩き始めます。やがてサマ自然保護区(Reserva de Sama)の入り口を示す看板。このタクサラには女性の織物グループがあって、サン・ロケ教会前では草木染めのポンチョやマフラーを初めかわいい小物をたくさん売っています。歩きはじめは平坦。途中でリャマの大群発見。もちろん野生ではありません。オルロに住み、農業に携わる仲間からタリハのリャマは優秀だと聞いています。エリートリャマの集まるリャマコンテストでも注目をひいていたとか。気候と食べ物のせいだろうといいます。トムが言うに、タリハのリャマの飼育は草を根こそぎ食べてしまう羊に変わる家畜として、NGOが導入したのが始まりだそう。リャマは草の葉の部分のみを食べるし、その毛は良質。いいアイディアだと思います。それはともかく、愛嬌あるリャマはかわいくて、ジョルダナと沢山写真をとりました。

牛を追う人
 やがて道は登り坂。始めた地点で2500m辺り。3000mを超えてくる地点になると息切れがして、苦しくなります。ようやく「ここからは下りだよ」という場所でお昼休憩。フランシスコの持ってきたツナに、イタリアに帰っていたばかりというジョージアナの持ってきたおいしいパルメザンチーズ。私は梨と母が送ってくれた飴を提供。二つのvalle(谷)を結ぶこの地点で多くの旅人が休憩をしたとのことで、石塚ができていました。涼しい風の吹く山あいでとる食事は最高。ここからEl Camino de Inca、インカ道の始まりです。丹念に並べられた大きな石。すり減ってなめらかになった表面が年月を感じさせます。この道があのマチュピチュ遺跡から続いてきたのです。けれども目の前にはそんな感傷もふきとばす、悲しい風景も広がっています。美しい山の稜線を引き裂くように走る道路。たった一本の車がすれ違うこともできない道は雑に機械を使って作られたため、山の水の流れを変えてしまい、ひどい土壌侵食と土砂崩れを引き起こしています。そうまでして作った道なのに、私たちが歩いていた数時間の間、走っている車をみることは一台もなかったのです。山に住む人で車を持っている人は少ないという事情もありますが、実際のところあの崩れ具合では車が走ることは早々にできなくなるのではないでしょうか。サマのレンジャー達と働くトムはこうした事情に詳しく、色々と説明してくれます。



 ひたすら下る道は上りとは違ったつらさがあり、2時間も歩いた頃にはすっかり足が笑っていました。やがて今日泊まる予定の小さい集落が見えてきました。山小屋があいていれば、そこに、あいていなければ近くの民家に泊めてもらうとの話でした。もう少し、と思いながら前を見ると、ずっと先を歩いていた3人が大地の切れ目で立ち止まっています。さらに遠くの集落を指さすアルド、信じられない、冗談だろという風に大きく手をひろげて片手を頭にやるフランシスコ。それを見て、横を歩くジョルダナも「信じたくないわ」といいます。追いついた私たちにフランシスコは「もし、誰も人がいなければあっちの集落まで歩かないとだめだって言うんだよ。」とどう見ても2・3時間はかかりそうな先にある集落を指さしました。日はもう落ちつつあります。まさかね、と思いつつ、集落にたどり着くと、山小屋は予想通り閉鎖。タリハ仲間が以前インカ道を歩いた際、壊れていた屋根は今はなおされているようです。雨がふってひどい目にあったとか。アルドは山小屋に行くことなく、まっすぐ小さな店に導きます。そしてここに泊まることになったのです。いたずら好きのアルドにまんまと担がれたのでした。

 日が落ちてから急激に冷え込んできました。ベットの用意をしてくれるこの家のお母さんは8人の子持ち。その子供達の大半は結婚してブエノスアイレスに住んでいるそうで、年末にはみな帰ってくるとのことです。どこから来たのかという話のあと、話は地震のことに。地面が揺れるのだというと、信じられない様子。カフェ色に染まっているとはいえ、お母さんの顔だちはとても日本人的。アジアからベーリング海峡を経て、北アメリカから南アメリカへ南下してきた人々がいたことを実感します。粗末な小屋ながらろうそくをともし、寒くないようにと毛布をたくさん用意してくれた部屋は居心地よくあたたかでした。夕食を待つ間、お母さんの用意してくれたパスタの煮込み(Guiso de Fideo)を食べながら、そしてお茶とクッキーでくつろぎ、ウイスキーの瓶を回しながら、言葉や習慣、料理を話題に話が咲いたのでした。星は降るように瞬いているけれど、風がひどく吹く大荒れの夜でした。翌日はうってかわってやわらかい朝の光が土で作った家と石垣に囲まれた小さな畑を照らす穏やかで美しい日。山からひいた水は冷たく、揚げたてのブニュエロとコーヒーの朝ご飯がとてもおいしかった。9時、泊まらせてくれた家のお母さんとお父さんに挨拶をして出発(夕飯、朝ご飯込で35ボリ!)。さらに下り、石だらけの川を横切ります。地下水が湧き出て小さな流れをつくり、やがて川になっていく様子がわかります。水量が増え、泳いだら気持ちよさそうな薄い緑いろの澄んだ水たまりがあちこちで見られます。今度は水着を持ってこようと言いあいました。川を離れて再度山を登るつめると目指す村がずっと下に見えました。さらにインカ道をたどり、ごろごろ転がる石の間に足をとられ、とられしつつ歩くこと5時間あまり、ようやく山の麓に到着しました。振り返ると遥かにそびえる山。あそこから降りてきたとは信じられない思いでした。


石がごろごろ、ここからさらに登り、
左下木々が見える場所まで下る。


 宿のすぐ近くで出会って一緒に下山した2人組イサベルとロセンド(この二日の行程で唯一出会ったハイカー)。新しく旅行会社を始めるのでインカ道のガイドができるように歩いているのだと言います。ロセンドはお祖父さんが日本人とのこと。名字は「シムラ」だそう。戦前アルゼンチンからタリハに来てここに住み着いたそうです。漢字を少し書けるそう。イサベルはPlan Internacionalで働いていたことがある女の子。村をたくさん回っていたそうで、エボ政権
到着!タクシーある!?
は色々と言われているけれど、村の発展に力をいれる彼の政策は効果をあげていると話してくれました。ラパス県に限らず?と聞くと、タリハでもどこでもと。その代わり中産階級以上に対する政策がおざなりだから、彼らからひどく批判されている、全てに万遍なくとはいかないものね、と言います。実際、今回のハイキングで目にした山あいの集落の家々にはソーラーパネルがつけられ、学校は広々と新しく、家々の壁は輝くように白く塗られてシャーガス病の防止を意識し、生活の向上が覗われます。変化がいつからどのように起こり、どこまでがエボ大統領の政策と関わっているのかはわかりませんが、貧富の差をなくすために社会主義政策を推し進めるエボ・モラレス大統領を支持する人々の多くが貧困層である理由がよくわかります。

 エボ・モラレス大統領の株がちょっと上がったその翌日。再度がた下がりするようなことが起こったのでした・・・

2011/09/23

チャグアヤ巡礼、チュンチョ、そして"Los Kjarkas"

 オキナワ豊年祭へ、ラパス、アフロ・ボリビアンの村トカーニャ、アイマラの村アチャカチ、そして標高6362mのイリャンプ山を抱くソラタへ、と移動の多かった8月とうって変わって、9月はタリハを満喫する日々となりました。


 9月3・4日はボリビア中の大勢の仲間がチャグアヤ(Chaguaya)への巡礼の旅に参加するためにやってきました。去年も歩いた61キロの道を今年は総勢13人で歩きました。今年は3つあるルートのうち、ボートで川を渡る別ルートをとりました。涼しい夜風が気持ちよく、日本語でかわす会話も弾んでいます。みんな準備もよくて、休憩所に着くたびに、バナナやチーズ、黒糖に日本のお菓子など次々と色々なものがでてきます。去年の反省を生かして今年は各休憩所で休む時間を少なくしました。ちょうど半月の夜、煌々と輝いて道を照らしています。時間がたつにつれて、それぞれの歩くスピード、疲れ具合に合わせて小さなまとまりになって歩きます。やがて月が沈むと、あたり一面、星の海。ミルキーウェイがゆるやかに空を横切っています。話声がまばらになって、歩くことに集中し始めました。

 チャグアイヤの教会が見えるころ夜が明けはじめました。ここからがひと踏ん張り。大きく迂回する道を1時間。17時ころ出発して、早い人たちが6時前後、全員が7時のミサに間にあって到着しました。聖母マリアの祝福を受けてから、チャグアヤ名物チリアーダ(Chiliada)と暖かいスープを食べました。帰りのバスは爆睡、仲間のとった写真を見ると結構おもしろい光景(バスの中も含めて)もあるのに何も覚えていません。この後バスでタリハに戻り、少し休んでから、町のサン・ロケ教会(San Roque)までチュンチョ(Chuncho)を見に行きました。らい病患者を看病して自ら病を得てしまった聖人を記念して行われるこの祭りはチャグアイヤ巡礼と時期(8月15日~9月15日)をほぼ同じくし、密接な関わりをもつタリハ特有の祭りです。前日長距離バスでタリハ入りした仲間、日本から来たお姉さんとボリビアを旅してまわった最後に2人でタリハを訪れた仲間、前夜遅くまでワインをたくさん飲んで参加した仲間。みんな超人なみに元気でした。



 9月11日、日曜日はサン・ロケ教会でクラシックコンサートが行われました。音楽学校の校長先生はじめ、私のバイオリンの先生、フルートを習う友人の先生などタリハの名だたる音楽家!が集合。美しい音色を響かせました。1時間弱の短い時間でしたが、演奏にはバイオリン、チェロ、コントラバス、クラリネットとともに、ボリビアの楽器ケーニャやサンポーニャ、カーニャも加わってとても素敵でした。4月に目白押しだったコンサートも冬の間はほとんどなかったので久しぶりのオーケストラに大満足。この後、近くの韓国料理屋さん(タリハ唯一のおいしいアジア料理屋さん)に出かけて、お寿司を食べました。タリハでもサーモンの刺身がちょこっとだけど楽しめるのです。

 翌週9月13日、サン・ロケ祭りは最終日を迎え、仕事は昼休みなしの連続勤務で午後4時に終了。この一ヶ月間各地区で踊られていたチュンチョ、週末には全員集まってメインの通りで踊られていたこの踊りが、終わりをつげます。全参加者が集まって主な教会を回り、最後に聖母像(Virgen de San Roque) がサン・ロケ教会に戻っていきます。夜ボリビアの友人と近くまで行ったのものの、すごい人で結局よくいくハンバーガー屋さんのテレビでサン・ロケ前に集まった大勢のチュンチョの踊りを見守ったのでした。高いところから撮った映像はチュンチョ独特の羽帽子のてっぺんを飾る白い羽を沢山移して壮観でした。



  9月22日、バイオリンのレッスンに向かっている時、友人のDurvynから電話がありました。今日ロス・カルカス(Los Kjarkas)のコンサートがあるから行こうとのこと。8時開始予定だから多分9時半くらいにいけばいいとのんびりしたもの。ボリビアで開始時間+2時間くらいみておいていいのです。実際、始まったのは10時をまわった頃でした。ロス・カルカスは多分日本で一番知られているボリビアのフォルクローレグループ。結成40年近い大御所で、現在のチャランゴ奏者は日本人のマコト(宍戸誠)さん。大学の体育館Coliseo Universitario で行われたコンサートはこじんまりとして、メンバーもよく見えました。スタンド席は50ボリ、ステージ前は80ボリ(1000円)。前回サンタクルスで出かけたシャキーラ(Shakira)のコンサートが500ボリ近かった事を考えると、普通のボリビアの人が行くことができる値段設定です。

 コンサートは素敵でした。ゴンサロとエルメールのエルモサ兄弟の歌声はよく伸びて感情がこもり、タリハではめったに聞けないチャランゴやケーナ、サンポーニャの入ったフォロクローレを思う存分楽しみました。そして、コンサートの半ばマコトさんがヒット曲の一つ"Llorando se fue"(泣きながら)の一部を日本語で歌いました。ロス・カルカス大好きのDurvynから「この歌よ」とつつかれ今か今かと待っていた一瞬。大きな歓声があがりました。タリハ人はおとなしいのかコンサート中立ちあがることはなかったのですが、ゴンサロがマイクを向けると全員が大合唱。みんな歌詞をしっているよう。サビをちょこっとしか歌えなくてとっても残念。ボリビアらしく「アロアロ」のかけ声で小話(ジョーク)が数回入って、みんな大受けでした。私は1つしかわからなかったけど><。最後の方はステージにかけ上がってゴンサロやマコトに抱きつく人がでて警官に阻止されたり、立ち上がって踊りだす人もでて、とても盛り上がりました。コンサートの後、生まれて初めての出待ち?を決行。ブロックしていた警察も私の顔(どうみてもアジア人)とマコトに挨拶をしたい!という言葉(可能な限りイノセントな感じで)にメンバーの乗る車に近寄ることを許してくれました。挨拶して、ボリビアにいつからいるのか、何しているのという簡単な会話を交わした後、泊っているホテルを教えてくれました。 とっても男前のマコトさんは気持ちのいい方で、日本公演に行ってきたばかりという他のメンバーも「コンバンワ」「アリガトウ」を連発しつて快く一緒に写ってくれました。


2011/09/17

Aimara villages


A street of Achacachi

On Sunday, 21 of August I headed to Achacachi with some fellow volunteers to help the fair and to know a little more about altiplano or highland whose culture is totally different from that of Tarija.  Most of the people living in Achacachi were the people of Aymara, and their main language is Aymara language.  The current president, Evo Morares is of Aymra origin, and his people seem to have gained politically larger voice now.  I was informed that people of highland are more closed and do not mix much with outsiders.  It was not a case of Achacachi nor Sorata, probably because it is close to La Paz and people are used to foreigners.  Soon after arriving at Achacachi, we went on a street to eat a fish soup for breakfast.  People were nice and friendly, made space for us, and explained about the dish. They spoke Spanish without any difficulty, but used Aimara between them.   


The fair was to be held in the plaza.  When we arrived, several blue tents were already set and local people were selling their products; sweaters and scarves made of alpaca, cloths and handbags of Aguayo, a typical multicolored cloth of altiplano, wooden furniture, etc.  Our friend, whose specialty is textiles, has set up her own textile group in Achacachi, passing on the members her techniques and the way to create a sales net work.  At the opening ceremony she gave an address both in Spanish and Aimara.  I was impressed and remembered fondly of the days I tried to learn some of Quechua, the language of other big ethnic group of Bolivia.  It seemed like a long time ago.  At the back of the plaza, we set up a small place to demonstrate a work of our organization and some Japanese culture like calligraphy and ceramics.  Besides helping calligraphy booth, I walked around the plaza.  All the handwork textiles were beautiful.  I bought an alpaca cape to send my mother on Christmas, and a colorful bag and book cover of Aguayo for me.  Our booth was always crowded with people, and when the event was over, we were all tired but very much satisfied. 

 

After Achacachi, I headed to Sorata, a village 2 hours away from Achacachi. The guidebook says that the scenery to Sorata is really nice with a range of high mountains. The Mt. Illampu (6362m) is the highest in the area. The bus left sometimes after five thirty, and I could see the pale evening glow. Far away there were pinkish snow-capped mountains with a thin layer of clouds in the middle. I expected to see those mountains come closer and closer. However, after 30 minutes ride, we all were in a thick cloud. There was nothing but white mist outside. Feeling a bit disappointed, I sat back, but soon realized that there was a slight tension in the minibus. Only four passengers were on the bus besides the driver and his wife. All were leaning forward and telling the driver something like “there was a light!”, or “a car is coming”, well, so I imagined since all conversation took place in Aimara. Everyone was watching the front glass which was just white to me, and seemed worried about bumping into something or falling off, but interestingly nobody said to the driver anything like “why don’t you slow down a bit”. It was as if we were on the roller coaster in the cloud and I started to enjoy the moment. I also clung to the front seat as everyone did, after knocking my head against the ceiling. About 2 hours later, the minibus slowed down, and we went into a tiny village.


 
I got off the bus at the plaza, asked the last bus to La Paz next day, and headed to the hostel which my friend recommended to me. There seemed to be a Sunday fair in Sorata, and lots of people with their products on their back were walking around in yellow lights. I went down the street as told, but soon got lost. Two women whom I asked the direction kindly showed me the way, but there were no light on the road they pointed at. I doubled checked and stepped into the darkness without being able to see anything. I wondered if those Aimara people had better eyes than mine and could see things in the dark. On my back I could hear those two women talking to one another, saying, “She asked where Las Piedras (the name of the hostel) was, right?” “Yes she did!” It was quite a steep narrow road. I went down step by step feeling like Alice in Wonderland. Finally I came close to where exist a gentle light. After several blocks, I found a bright welcoming sign shining in front of a pretty house.
  
When I went into saying “Buenas Noches”, a woman came out. She was the owner of the hostel, Petra, a German woman who has lived in Sorata for 12 years. After settling in my room, I went down to ask about the place to visit in Sorata. Petra gave me a detailed map of Sorata  Then I got mate tea and sat down on one table, and asked her to accompany me. She made a tea for herself and brought some cookies. We talked what made us come to Bolivia. She asked me about the situation in Japan, especially about the nuclear plant. I told her as much as I knew. Our conversation went to Hiroshima and Chernobyl, and then naturally we started to talk about the environment. She told me that once she tried to collect the plastic bottles, hired a truck, and brought to La Paz to recycle. She had no choice but to quit when the price of the bottles went down, but said that even though now the price has recovered, she did not want to start it. Actually some local women asked her why she didn’t start again, but she wants to wait till the local people will stand up and start on their own.

 I understood that feeling. It was exactly what I wanted. I’ve already started my project in several schools. The schools have adopted the project in their way, not necessarily in a way I intended. However, it is the teachers who must carry on the project in actual setting, and all I can do is to give an advice to improve the situation or to solve the difficulty, or to say more precisely, to think of the better way with them. Now I am hoping to give courses helping teachers to create a project of their own, so that they can start and continue it without any outside help. Continuity is a key word for me since people in Bolivia, in my opinion, tend to see what they have started is something temporal and will finish in a certain period of time. I assume it is because they are getting used to adopt a project initiated by foreign government or NGOs. I don’t think it wrong, but believe that it is definitely much better if teachers or any local people take the initiative in a project and then ask for collaboration of outside institution if necessary. So, I enjoyed our conversation pretty much. I also could not help thinking about what made Petra decide to stay in Bolivia, about some kind of force working internally and externally, allowing people to make a decision to change or follow their course of life.


The next morning when I opened a French window, the mountains were still foggy and seemed mysterious. I went down to have a breakfast and chatted with two Swiss girls who had stayed in Sorata for a week, gone on trekking and were leaving on that day. They told me that until yesterday, the weather was perfectly nice. It was a pity that I did not have that luck, but I decided to look at a good part, as Petra said, it wouldn’t be hot and dusty. Actually I quite like it. About nine, I started to walk to San Pedro, a tiny village where the cave locates. The road was nicely moistened and the air was fresh. It seemed be an only road connecting Sorata with several communities in the mountain, but only a few cars and trucks passed. I also met two or three local people walking, but besides, the road was all for myself. Monday, a day after Sunday market, is a day off to most of the people there. I walked quite happily, singing, and enjoying scenery: a peach blossom, several yellow flowers, cows and goats grazing on a steep slope, terraced fields, canyons and rivers far below.


After two and a half hours, I got to the cave, “Gruta de San Pedro”. An old man was watching me walking up to the entrance. I greeted and watched the mountain beside him for a while. He offered me a guide into the cave. I wondered how much he would charge, but accepted his offer. Soon after going into the cave, I realized it was a really good idea to ask him to accompany, since the cave was quite dark in spite of some lights. I walked hurriedly following his flashlight. It was very hot inside. He explained that the cave is 480m long.  After walking about 5 minutes, we got to the darkness. He sounded a buzzer and the lights were on, and then I could see a small lake ahead of me. Three small boats were tied. We pedaled a boat and went further into the cave. At first I could not see anything in the water. Actually it was bit scary and I imagined some huge creatures might swim underneath. Gradually as I got used to the darkness, I could see some rocks underneath. The water was crystal clear. The guide told me the lake is made of the water from the snow on the mountains and no creatures live in it.


Getting out of the cave, I said good-bye to the guide, and went down a hill to find some food. A small shop in front of the cave which seemed to be closed when I came was open and a young woman came out with her little daughter. I asked for a sandwich. A little girl was gazing at me while I settled myself down on a small table outside. I asked her name and how old she was. She showed her light blue cardigan, and told me she did not go to the kindergarten because she had a cold. I made a crane out of a small paper I had in a purse. She went into the shop to show it to her mother. A woman came out with a nice big sandwich. It was delicious. I started to chat with a woman. She was shy, but opened up after knowing we were almost the same age, asked me where I’m from, what I am doing in Bolivia, etc, and told me that she was divorced and now lived with her father who owned the land there. Meanwhile I bought some sweets and shared some with a girl. We talked about Sorata and Tarija and their similarities. Both towns locate in “valle”, more or less on the same altitude (Sorata 2639m, Tarija 1835m), though Sorata is more humid and greenish than Tarija. Both are comfortable to live in. She showed me the trees of grapes, peaches, and bananas besides the shop and those of chirimoyas down on the hill. When I got up, she went into her house, and gave me two chirimoyas. We hugged each other. I could see them waving when I turned back on the corner.

The path back to Sorata went slightly uphill, and it was getting hotter. I was quite tired when a nice taxi driver who shows shiny golden teeth whenever he smiles passed by. He told me that there are mines of gold, copper, aluminum, etc in the mountains near Sorata.  I got off at the plaza, bought some chirimoyas to bring back to Tarija, and then went back to the hostel to pick up my backpack. Petra had gone to La Paz early morning, but a Bolivian family who works with her attended me. We talked over tasty fruits salad. She was listening to the radio carefully, telling me there was a blockade by miners on the way to La Paz. Luckily a blockade was over and miners were gathering at the central plaza. I saw them when I went up to the plaza to catch the bus to La Paz, and wished their negotiation would go well. I sat on the front seat watching Sorata disappearing in the mist. All the people I met in Sorata were kind and friendly, and I liked the village very much. I especially thought of the woman and her little girl who lived in front of the cave and their everyday life. I was with them just a little while, but they gave me a strong impression somehow. I am glad that I take their photo as the last picture of this trip. Unfortunately my camera just went out of battery, and I couldn’t show the picture to them. I hope I can bring the photo to them someday.