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2011/08/30

日系移住地オキナワの豊年祭



 ボリビアでの時間が1年をきってから、この国をもっと知りたい、できるだけ多くの場所を訪れたいという思いが大きくなってきました。冬休みにすっかり崩れてしまったプロジェクトも除々に形を取り出しつつある中、学校とのアポの間をぬって国内のあちこちを訪れようと計画しています。

 8月21日は日系移住地オキナワで豊年祭が行われました。年に一度の盛大なお祭り。きっぱりと線が引かれているというわけではないものの、日常ではなかなか共に何かをするという機会がないというボリビア人と日系人が共に祝い、踊って楽しむ機会でもあります。

 前日20日サンタクルス行きのバスに乗り、17時間かけてサンタクルスにいき、さらに2時間かけてオキナワへ向かいます。翌日昼過ぎには飛行機でタリハに戻るという強行軍ですが、16~18時間のバス旅行も今はもう当たり前。それほど苦にもなりません。

 朝10時サンタクルスについてから、Cafe Alexsandarというおいしいコーヒー屋さんに行きました。ここでサンタクルス在住の島袋さんと待ち合わせです。島袋さんとの出会いはおもしろくて、チリのイースター島へ行った帰り、ヴィルヴィル(Vilvil)空港の到着ロビー「日本人の方ですか。市内に行かれるなら送っていきますよ。」と声をかけてもらったのがきっかけです。沖縄からボリビアに移住して長い島袋さんは黒糖とウユニ塩湖の塩やタリハでとれるピンク色の塩を日本に向けて輸出する会社の社長さんで、ちょうど日本からのお客さんとブラジルから戻ってこられたところ、私たちの到着と重なったのです。その日お客さんと一緒にサンタ一の5つ星ホテルでお茶をご馳走になり、その後泊めてもらう予定のお家の方と知り合いだということがわかって、2人のいるカラオケパーティーに連れていってもらいました。久しぶりに思いっきり日本語でカラオケをして、とっても楽しかったです。島袋さんとはその後メールを通じて連絡を取り合い、今回一緒にオキナワに行ってくださることになったのです。

 同期と2人本を広げて待ちます。彼女はオキナワ移住地の本。私はアガサ・クリスティーのEl Misterio del tren azul(青列車の謎)。一度読んだことがあるからスペイン語で読むにはちょうどいいのです。島袋さんとの縁がこれだけ続いたのも、本の存在が大きいと思います。沢山読まれているだけでなく、書いてもおられるからです。死ぬまでには?何か小さな物語を1つくらい書けたらいいなあという夢のある私にはとっても羨ましい方です。そしてしばらくして到着した島袋さんが早々に手渡してくれたのがやっぱり本でした。ザフォンの「風の影」とミステリー「フィッツジェラルドを目指した男」です。新しい本を得てほくほく。間もなくサンタ在住のあきちゃんも到着。3人で島袋さんの車に乗せてもらってオキナワへ向かったのでした。

 オキナワは二度目の訪問。去年の10月に移住地を訪れ、第一日ボ小学校を訪れて授業をさせてもらったのがついこの間のようです。豊年祭にむけて準備は始っていて、テントの中ではすでにさーたーあんだーぎーやお餅、ソーキそばなどが売られたくさん人が並んでいます。各地から訪れてきた仲間と合流した後、売り切れてしまっては大変とお土産にする分を買いました。その後資料館を訪れようと向かう途中、サマイパタでお世話になったうえまさんとも一緒になりました。お孫さんの一家がここに住んでいるのです。元々はアルゼンチンへ移民したこと、その後ペロン大統領の台頭とフォークランド紛争で混乱したアルゼンチンから親戚を頼ってボリビアのもう一つの日系移住地サンファン(San Juan)へ移られたことをしてくれました。

 資料館を訪れるのも2度めだけれど、以前とは少し違う目で見ました。かつて住んでいたモントリオールはフランス語圏にあることに加えて、移民の国カナダの大都市。町を歩けば様々な言語が耳に入り、その国のシェフによる各国料理屋が並んでいます。クラスメートの中にもインド、アフガニスタン、パレスチナや中国から移民してきた人がいました。小さい頃親に連れられてきた人、親が移住してきてからカナダで生まれたという人、大人になってから自分の意志で移住してきた人。戦争に紛争、内戦、歴史の教科書で学んだような出来事が引き金である場合も多くて、クラスで自分の経験を語ってくれた人もいました。

 なのに日本の移民の歴史について考えることはあまりしてこなかったなと思います。戦時中、そして米軍占領下の沖縄の人々の状況は高校時代の修学旅行の事前学習や大江健三郎の「沖縄ノート」、昔好きでよく読んだ灰谷健次郎の本などを通して少しばかり知っていました。同期が連絡所から持ってきてくれて、久しぶりに読んだ「太陽の子」(私の名前から選んでくれたそう)には沖縄から本土に出稼ぎにきた若者が出会う差別や集団自決の強制によって心に深い傷を負った人々が描かれています。オキナワの移民一世の人々が抱えていたものを垣間見る思いでした。こうした同郷の人々を助けようと戦前に移民していた沖縄の人々が呼び寄せる形で行われた移民がコロニア・オキナワの始まりでした。ボリビアにオキナワがあることの背景には、ただ新天地に夢をかける以上のものがあったことを改めて思いました。そしてこれらの移民の人々が現在のオキナワ第一移住地に落ちつくまでに、熱病や洪水による移動を余儀なくされ、その後も洪水や干ばつに苦しみつつ開拓を重ねてきたことを資料館は物語っています。後から知ったのですが、島袋さんのお父さんもアメリカ統治下の琉球政府計画移民第17団の一員として、ボリビアへ来られたそうです。もちろん家族を伴って。長くボリビアに住むことはなかったそうですが、島袋さんがラテンアメリカを初め各国を長く旅され、今もボリビアに住み続けている原点はこれらの経験にあるのだと思います。





開拓民も刺された獰猛な蟻と共生する木。
  現在コロニア・オキナワは第3移住地まであり、ボリビアでも有数の穀倉地帯として知られるようになりました。そして今ゆっくりと二世から三世の時代へと移ろうとしています。日本を、沖縄を直接知らない世代です。わずか3000人あまりのオキナワ社会だから婚姻によってますますボリビアの文化が家庭にもちこまれてくるでしょう。日系社会と近隣のボリビア社会の垣根はどんどん低くなっていくのだと思います。今まで以上に、ボリビアの決して安定していない社会情勢や、まだまだ整っているとはいえない教育制度や教育に対する考えに影響を受けるということなのかもしれません。日本の、沖縄の文化を日本語の学習や音楽を通して継承しようとする努力は大切だなと思うのです。オキナワには、沖縄にはもうない「おきなわ」があるという人もいます。日系社会に今の日本で失われた「にほん」があるように。1人の人間が2つの文化をあわせもつということは時に葛藤を呼ぶけれど、よりその人を豊かにするということもあります。日本文化の尊ぶ礼節や誠実さを保ちつつ、よりボリビア社会に密着して生きていくのがこれからのオキナワの人たちなのだろうと思います。


 資料館から戻ると広場はすでに人で埋まっています。挨拶のあと、三線の演奏、空手や忍術?のような武道の実演、ボリビア人学校の生徒によるボリビア各地のダンスの披露が続きます。友人が手伝っているたこ焼きや村の人がおごってくれたヤギの耳の酢漬け(だったかな?)を食べつつ、広場をみにいったり、おしゃべりしたり。そして辺りが暗くなったころ、エイサーが始まりました。始まった途端、釘付けになりました。よく揃っていて、すごい迫力でした。小さい子から青年まで真剣に力を込めて太鼓をたたき、体をひねって飛びあがり、踊っています。躍動感。なんだかとても熱いものを感じました。

 「すごかった、よかった」と大興奮で帰ってきた私たち。実はその間「いつもオキナワの文化として紹介されるのはエイサーばかり、そろそろ見ている人もあきているのではないだろうか」という会話が何人かのオキナワの人たちの間であったよう。本当にすばらしかった。やめるのは簡単だけど、また始めるのは大変。日本語の勉強とたぶん同じ。あの気合の入ったエイサー続けていってほしいなと思いました。少なくとも音楽に関してはとっても保守的なボリビア。いつの時代かのヒット曲がいまでもあらゆるフィエスタやディスコで聞かれます。人気のある曲がかかると歓声が上がることも珍しくありません。長く続けてボリビア中のカーニバルでエイサーが普通に踊られるようになったら素敵だなと思いました。

2010/10/30

オキナワ、そして帰宅




昼礼

 1週間 の旅の締めくくりは、コロニア・オキナワ。
サンファンと並ぶ日系移住地。
名前の通り、戦中・戦後ともに厳しい生活を強いられた沖縄の人々が夢をもって移住し、数々の水害に見舞われながらも、土地を耕し、道を作り、学校を建て、日本の伝統を守りつつもボリビアの風習を取り入れて暮らす街です。今回はここで日本語教師として活動する同期の案内で、オキナワ第一日ボ小学校を訪ねました。

 子供たちは午前中はボリビアの学校へ、午後ここにやってきます。学校に入ると、「こんにちは」と子供たちが次々と声をかけてきました。元気に、珍しげに、恥ずかしげに、それぞれのやり方で。もちろん日本語!
まずは職員室で挨拶をして、そして昼礼へ。私は1限め5年生、2限め見学、3限め4年生に話をすることに。子供に久しぶりに日本語で話をする、とのことでとても緊張しました。英語の授業や一緒にいった同期2人の授業の様子をみて、ちょっと落ち着いた3限めは、まだましだったかな。

子供達の日本語は個人差はあるけれど、きちんとしていて、サッカーが好きというボリビア化?した子たちに加えて、鶏が好き、蛇が好きという子もいて、逞しい。住んでいる町はどんなところ?なぜ英語の先生になったのですか?、ボリビアでは何をしているの?、好きな日本の食べ物は?子供たちからの質問に答えながら、環境の話もちょっとして、英語の歌をみんなで歌って。好きな曲はWaka Wakaといったら、ちょうど発表会に女の子たちが踊ったとのこと、最後に披露してくれました。

日ボ学校の先生達との夕食会

  この日は同じく同期でオキナワ在住の看護師さん宅にお世話になりました。家は診療所の敷地内にあって、たわわに実るマンゴーの木何本も!スール(南風、とはいっても南極からの風)が吹いて涼しくて気持ちよい晩、一緒の部屋に泊まったたかちゃんと夜遅くまで話し込んでしまいました。

 次の日、買い物がてら、村をぶらぶら。お土産をいくつか買ってから、オキナワボリビア歴史資料館を訪ねました。 「待ちに待ったボリビアへ。新天地に楽園を。昨夜南米移民発つ。」「今ぞいく戦後初の移民団。軍民あげて壮途を祝う。頼むぞ、高なる歓送マーチ。」
当時の新聞に書かれた言葉から、ボリビアへ出発する人々の期待と夢、晴れやかで誇らしげな顔が目に浮かぶようです。不安がないはずはないけれど、なんとかなる、なんとかしてやるという気概に満ちていたはず。着いたボリビアは聞かされていたような楽園ではなかったことを、資料館にかけられた年表や数々の写真が物語ります。けれども、オキナワの人々もまた、多くの移民と同様、自分たちの手で自分たちの楽園を作りだしたのだと思います。運動会や仮装大会、青空のもとでの紙芝居、そして日本語教室・・・これらを通して自らの文化を守りながら。二日間で何がみれたわけでもないけれど、笑顔やちょっとした心遣いに、オキナワの人々の穏やかさと余裕を感じました。

 これで総会とその後の日程が終わりです。よく香るマンゴーと新たな出会い、たくさんのアイディアを抱えて、サンタクルス・ヴィルヴィル空港に向かうタクシーに乗りました。