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2012/04/29

バジェのぶどう収穫祭とエントレ・リオスでの静修




あっという間に4月へ突入・・・
なんだかこんな言葉で始めることが多い気がするけれど。
これが本当にそのままの気持ちだから。
歌の歌詞にありました。
「旅立つ日がくるなら、せめてこの時間よ、とまれとはいわないから、ゆっくりすすめ。」
タリハを引き上げる日6月18日へ向けて時間が刻々と過ぎていきます。
友人達、一緒に働く先生達、大家さん・・・いろんな人達との会話に、この日の影がちらちら。




168年の歴史
去っていった3月。奇しくも3月11日はバジェのVendimia、葡萄収穫祭でした。1週間にわたる祭りの最終日。ぶどう農園やワイン醸造所が小さいところも大きいところもこぞってスタンドを並べ、ブドウやワイン、手工芸品を並べます。食べ物の屋台もずらりで大勢の人々がやってきます。前日夕方5時友人Ceciliaと2人バジェへやってきました。Cecilia(セシリア)の家族やもうすでに出来あがってる他の友人たちと合流。私のお目当ては前夜祭に出演予定のLos Kjarkas。村の運動場?Cancha(カンチャ)へぷらぷら入っていくと、何やら演奏しているグループが。あれ、聞き覚えが、と思っていると、Los Kjarkasがリハーサル中でした!終わったころに友達と出口のあたりへ出かけるとちょうどメンバーがいました。私は何を思ったかまことさんをお茶に誘ってしまい(夜中11時からのコンサートを控え、明日はサンタに帰るという人に思わず・・・ワインのせいです。)、それを聞きつけたメンバーの長老格エルメスが自分の電話番号を教えてきたりして、友人たちは大喜びでした。(もちろん、リップサービスで,電話がかかってきたわけではありません!)


そんなこんなで夕食をあちこちで食べ歩きした後、10時半ごろ再度コンサート会場へ入りました。演奏するのは4グループ。3番目がLos Kjarkasで会場へ入って少しすると、彼らのステージが始まりました。ワインをまわし飲みながら歌って、踊って。今さらだけど、タリハではたとえ踊っている最中でもワインやシンガ二のグラスがあちこちでまわっています。1口でも全てでも、飲みたいだけ飲み、もちろん飲み干した場合はつぎたしてから、近くの人と目を合わせて”Te invito"か”Salud”といって1口飲んでからグラスを渡します。渡された人も同じことをします。こうしてグラスが次々回ってくるから、私なんかはひとくち飲んだら十分、すぐ次にまわします。時には口をつけるだけ。また踊っていると回るのも早い早い^^




夜中2時過ぎ、Los Kjarkasの後、Vale4というアルゼンチンのグループが歌って、コンサートは終了しました。この夜は友人Michelito(ミチェリト)とKelly(ケリー)の住む宿舎に泊めてもらいました。翌日起きたのは8時半。庭ではKellyが旅の途中で拾ってから世話している小鳥bebe(赤ちゃんだから、べべ)を日光浴させていて、彼女とコーヒーとパンの簡単な朝食をとりながらおしゃべりをしていると、次々みなが起きだしてきました。思い思いにハンモックや椅子に座って優しい日差しとタリハの田舎らしい光景を楽しみます。とそんな中Ceciliaのお父さんがノートに今の気持ちを書きだしました。詩のような形で。マテ茶とともにノートがみんなにまわされます。みんな結構哲学家で色々深いことを書いてちょっとしたディスカッションが始まったり。私はこの出会いとひと時に感謝して一期一会と書きました。そして、ちょっと迷ったすえ、震災について書きました。小さい祈りと日本へ帰ったら・・・という決意表明?を。そうしたら、みんなで自然に黙祷を捧げていました。うららかな緑の日差しの下、静かな時間でした。

Cecilia

そしてこの翌週、同期の何人かが帰国しました。実のところ3月11日はVendimiaではなく、本当は日系移住地サンファンへ出かけているはずでした。それが近く町ヤパカニで行われている道路封鎖のため行けなかったのです。サンファンで仲間が主催した祭り「和」。これも震災から1年を意識したものでした・・・。震災を経験した日本。同期を見送りながら、帰っていく日本はどう変わっているのだろうと考えました。そして、彼らのプレゼンを聞きながら、自分の仕事を振り返って残り期間頑張ろうとも思ったのです。それは一年前の決意でもあります。遠く離れて寄付をすること、手紙や写真を送るくらいしかできず、情報もだんだんと入らなくなってくる中、できるのは今の自分の仕事を頑張ること、たくさんの人と交流して丁寧に付き合うこと。そして日本に帰った後は、たとえどんな小さな形ででも、なにかをしたいという決意。そして探してみれば、小さな形でできることは本当にたくさんあるのです。

さて、3月の職場。年度当初からざわざわしています。いつ行われたか忘れてしまったほどだいぶ前(12月だった?)に行われた校長になるための筆記試験。結果がでないうちに新学期に突入。カーニバルが終わった頃にようやく点数がでました。そして3月14日、行われたのがcalificación de expediente(関係書類の評価)。これまでの経験や関わったプロジェクトを書類の形で提出、それを元に面接試験が行われます。この結果が23日にでました。そして、26日誰がどの学校の校長になるかが決まったのです。点数の高い校長希望者から順番に行きたい学校をとっていく方式。学期半ばで校長大移動・・・。4月、日本だったらとても区切りがよいのだけど!?と思いながら、この交代劇を見守りました。仕事先の学校の校長が変わらないことを願いつつ。今回私のカウンターパート、Ilsen(イルセン)も校長として出ることになりました。共に仕事をするということはなかったけれど、研修で日本に行ったことがあって、ボリビアに来た時から空港へ迎えに来てくれ、なにかと世話をやいてくれたイルセンがいなくなるのは少し寂しいことです。

そんなわけで、3月最後のイベント、活動先の学校Humberto Portocarrero2の先生達と行くRetiro Espiritual(精神の静修、カトリック教会傘下にあるFe y Alegriaの学校らしい行事)。27日夜出発のこの小旅行に出かけるときには校長はこの学校の教員でもあった若い先生、Jaena(ハエナ)に変わっていました。木曜日に学校に行った時にはこのRetiro Espiritualに来るんだぞと言ってくれていた前校長は結局きませんでした・・・。当然ながら校長交代には悲喜こもごも色々な思いが交錯するのです。新しい学校への移動の準備もあるはず。実はこの後、活動している学校の1つLa Salleで、別の活動先の学校Teresa de Calcutaの校長先生が6年生を受け持っているのを見た時はびっくり。La Salleへ来てほしいと誘ってくれたSonco先生がTeresa de Calcutaの校長になっていました。

右から二人目が新しい校長先生ハエナ

さて、このRetiro Espiritual。2泊2日とはいえ、ボリビア人と宿泊つきの旅行をするのは初めて。ちょっとどきどきです。泊り先はEntre Rios(エントレ・リオス)から少しいったところにある田舎の家らしいと聞いたのみ。タリハから3時間ほど離れた村です。夜7時半。16名の教員と大量の食糧(じゃがいもの大袋とか)を詰め込んで、借り上げたミクロはよたよたと出発しました。エントレ・リオスへの道はガードレールなし、絶壁続きのすごい道、酔い止めを飲んで備えたけど、あまりのよろよろぶりに危険を感じることもありませんでした。結局4時間ほどかけて着いた田舎の家。16人が宿泊するには小さすぎることがわかって急遽、エントレ・リオスの村中にある先生の1人の知り合いの家に宿泊することになりました。この時にはすでに夜中12時を回っていました。このアバウトさは、やっぱりボリビア?そしてなんとかなってしまうのもボリビアらしいかもしれません。

翌日朝早くミクロに乗り込んで田舎の家(用務員さんのおばあさんの家でした)へ行きました。まず初めにしたのが昼食準備。その家ではちょうどピーナッツの収穫が行われていて、少しお手伝い。そして収穫したばかりのピーナッツを使ってSopa de Mani(ピーナッツスープ)とサラダを作りました。ボリビアの人達はほとんどまな板を使いません。みんなトマトやじゃがいもを手で持ちながら上手に切っていきます。田舎の家にはミキサーなどないから今でも昔ながらの方法で石をつかってピーナッツをつぶしていきます。家の外では男性陣がParillada(バーベキュー)の準備。火をおこし、牛肉や鶏肉がどーんと並べられていきます。このバーベキュー、ボリビアに来たころはあまりの肉の量に目を見張ったものだけれど、今はもう慣れたもの。この人数でこの量は少ないのではと心配したくらい。(ちゃんと大2弾がありました。)

そして昼食準備が一段落した頃、この旅のメインであるところの静修の時間がもたれました。宗教担当のNeli(ネリ―)が机の上に聖書を開き、ろうそくをともします。聖書の一ヶ所やネリ―の用意した短い話を読み、それについて感じたことを各々が述べていく、そんな形ですすみました。「70歳まで生きるワシは40歳になると体が衰え、飛べなくなり、食べ物を捕ることができなくなる。このまま死ぬか、150日間の痛みを伴うプロセスを経て新生するか、選ばなければならない。新生することを選んだ場合、飛ぶ必要のない高い山へ行く。そこで嘴を岩に打ち付けておとし、新しい嘴が生えてくるのを待つ。次にその嘴で爪をすべて引き抜き、新しい爪が生えてくるのを待ち、さらに以前の羽を全て抜く。5ヶ月後に羽が全て生えそろうと次の30年を生きぬくことができる。」

La renovacion del Águila
El águila es el ave de mayor longevidad de la especie. Llega a vivir 70 años, pero para llegar a esa edad, deberá tomar una seria decisión.  A los 40 años, sus uñas están apretadas y flexibles, sin conseguir tomar las presas de las cuales se alimenta.  Su pico, largo y puntiagudo se curva, apuntado contra su pecho.  Sus alas están envejecidas y pesadas y sus plumas, gruesas.  Volar se hace tan dificil...  Entonces el águila tiene solamente dos opciones: morir o enfrentar un doloroso proceso de renovación, que dura 150 dias.  Este proceso consiste en volar a lo alto de una montaña y quedarse allí en un nido cercano a un paredón, en donde no tenga necesidad de volar.  Después de encontrar ese lugar, el águila comienza a golpear su pico en la pared, hasta conseguir arrancárselo.  Después de arrancarlo, debe esperar el crecimiento de uno nuevo, con el que desprenderá una a una sus uñas.  Cuando las nuevas uñas comienzan a nacer, empezará a desprender, sus plumas viejas.  Después de cinco meses, sale para el famoso vuelo de renovación y para vivir los siguiente 30 años.  Es tiempo de cambiar!... Comienza tu!

1時間ほどの静修。2泊2日の小旅行の中で占めている時間は決して長くはないけれど、こういう時間を学校の先生たちがもつのはとても大事なことだと思いました。もちろん、全員が参加しているわけではなく、またカトリックという特定の宗教のもとで持たれた時間ではあるけれども、飲んで踊って共有する時間とはまた違う時間です。

そして当然ながら!?出来あがったスープ(おいしかった!!)とサラダ、肉をたくさん食べた後は、踊ります!ボリビアにきて印象的なのはどんな質素な村の祭りでも、個人の家で行われるパーティーでもでっかい音響装置が準備され、音楽が大音量で鳴り響くこと。この日は午後中、そしてエントレ・リオスの宿泊先に戻った後も踊りがつづいたのでした。寝る頃には足が筋肉痛><。さて、宿泊先は普通の家。当然16人もの先生が寝る場所があるはずもなく、男性陣は庭にテントをはり、女性陣は玄関近くの8畳ほどの部屋に寝袋をひいてごろ寝です。この夜は女性陣だけの部屋で、とはいっても踊りにつれだそうと、男性陣やらその友人やらがうろうろ出入りしていたけれど、寝袋に潜り込んで小さなゲームをしました。といっても単純、順番に真ん中においたペットボトルをまわし矛先がむいた人にボトルをまわした人が一個質問をし、当てられた人は正直に答えなければいけないというものです。質問は恋愛ネタが中心。「付き合っている人はいるか」、「恋人のどこが好きか」、「愛人はいるか」。ボリビアはシングルマザーも多いから子供の父親は誰、結婚する気はあるのか、下ネタも好きだから結構きわどい話もでてきて盛り上がりました。言葉遊びも多くて全て理解できたわけではないけど、なんとなく雰囲気です。

最終日はみんなで復活祭前の特別なミサに出かけ、そのあと再び田舎の家へいって昼食の準備。川に泳ぎに行きたい人はいってらっしゃいの言葉に数人で出かけました。水着の用意をしてきていたのは1人だけだったから、初めは足だけのつもりが、1人がこけて水につかり、別の人をひっぱりこんでと、結局服のまま泳いでびしょぬれになりました。カンカンの日差し。群れて泳ぐ小さな魚。水を飲みにくる牛たち。きれいに澄んだ川の水。チャカレラやクエッカで歌われるチャコ地方らしい風景。


こうして3月が過ぎ、何気ないタリハの日々が愛おしく思えて、少しでもゆっくり時間が進むのを願いながら、4月を過ごしています。



2012/02/24

活動20ヶ月目!


2月半ば、学校へ打ち合わせに行き始めました。夏休みが明けて2ヶ月ぶり。学校の先生たちも「どうしてたの!?」と歓迎してくれて、ちょっと嬉しい訪問です。ボリビアの新学期は2月から始まります。毎年この時期にInscripciónといって 生徒と保護者が行きたい学校へ行って登録をする仕組みです。もちろん各学校定員があるからそうコロコロ変わるわけにもいかないし、毎年の登録は大変ではありますが、1年通った学校が子供に合わなければ比較的簡単に別の学校へ変わることができます。この時期まだ休暇から戻ってきてない生徒も多くて、学校はすかすか。25人の生徒中18人しかいないなんてクラスもあります。

U.E Teresa de Calcuta(テレサ・デ・カルクタ校)へは昨年なかなか全体で動けず、一緒に働いた先生はもう嫌になっていないかなーと多少心配しながら行ったのだけど、担当のクリスティーナ先生は新たに協力してくれる先生も見つけ、保護者のなかにもリサイクル業者を営んでいる人がいるし、高等部とも連携したいと色々とプランをもっていていい始まりになりました。実はここの高等部(午前の部)では以前紹介した、生徒と野菜作りを行って素敵なフェリアを開いた先生も教えていて、来年(今年)はコラボしようと話していたのです。先生達同志で話が通じているなら尚更理想的!

U.E La Salle(サジェ校)は先生、生徒向けのワークショップを終えたところで夏休みに入りました。ここは公立ながら、伝統のある学校で保護者、生徒ともに教育に熱心。とても人気があって1年生の保護者のなかには登録をするために徹夜で学校の前に並んだ人もいるほどです。生徒も全員そろっています。ここでまず昨年あまりできなかった生徒を中心にした取り組みをしたいと考えています。提案してみると校長先生も、委員会の先生たちも前向き。もう少し計画を練るためにある日の午前中に担当の先生4人が私のオフィスに集まってきました。まず手始めに5・6年生が分別の仕方と注意点を書いた壁新聞を作り、下級生のクラスをまわって説明し、壁に貼っていく、そして同じく5・6年生の有志で環境委員会を作り、分別の管理と評価も行っていくことになりました。この環境委員会が自主的に動けるようになれたら!そう簡単にはいかないけれど、初めの一歩。うまく軌道にのりますように。
 
そして嬉しい驚きは、昼休憩も近い時間にひょっこりDurvyn(ドゥルビィン)が訪ねてきたこと。ベネズエラ留学の日程が未だにはっきりせず、情報もないということでとりあえず今まで働いていたU.E. Humberto Portocarrero 2(ウンベルト・ポルトカレロ校)に戻ってきたそうです。ウンベルト高校は彼女の協力でリサイクルのシステム作りからコンポスト・紙すきまでやりたかったことがだいたいでき、最後に環境フェリアをし、卒業式にも出席して気持ちよく終わることができた学校です。先生たちの遠足にも参加させてもらって、サマの山の麓でParillada(バーベキュー)をしに行きました。今学期はChaco(チャコ)のほうへ行く企画が出ているそうで、これも楽しみです。みんな来るのを待っているよと嬉しい言葉。実際、数日後に出かけると、去年の担当の先生たちはプロジェクトを続けようとやる気。昨年は初めての試みであまり成果があがったとはいえないから、今年はもっとよくしたい、そのためには評価の仕組みをしっかり作らないといけない、コンポストを使い畑作りを全校生徒でするために学校脇の土地を使えるよう市に要請しよう等々これも色々な案がでて、説得力のある要請書を書くために、カーニバル後私の職場で集まろうということになりました。

コンパドレの日
2月当初は登録、そしてカーニバルで何もできないだろうと覚悟はしていたけれど、ずっとオフィスに詰めているとちょっとくさくさするところもあって こんな風に学校に行けるのは楽しいことです。今年のカーニバルは去年よりずっと早まって18日から21日まで。そのおかげで、その2週間前の木曜日にCompadre(コンパドレ)、翌週にComadre(コンマドレ)、そしてカーニバルの翌週にEntrada Folclórica(エントラーダ・フォルクロリコ)と主だったお祭りが2月に終わります。「おかげで」というのはお祭り期間中ほとんど仕事にならないから。去年はカーニバルがもっと遅くて3月一杯ほとんど何もできなかったのです。葡萄の町Valle de Concepción(バジェ・デ・コンセプシオン)のお祭りは3月最初の1週間。これは少し離れた村で行われるからタリハ市内の学校にあまり影響はありません。
 
職場でタリハ料理サイセをみんなでCompartir!

コンマドレ用のパンを焼く
マリア・リリアとコンマドレに

12月から1月にかけてほぼ2カ月あった夏休み。(まだ書ききれていないけれど)サンタクルス内をピンポン玉のように動いて、自然に根ざした暮らしをしながら滞在者を受け入れる家族やイタリア人が営む芸術に重点をおいたフリースクール、日系移住地の大きな農家などを訪れました。1月末にはイグアスの滝を中心にパラグアイ、アルゼンチン、ブラジルを巡る短いけど盛りだくさんの旅もしました。
 

そんなこんなで1月タリハにいたのは1週間(出かけ過ぎ!?)。この間10月末に行った4日間の教員向けワークショップを再度行いました。40人以上登録があるけど大丈夫かとわざわざUNEFCOの職員が電話をくれたけれど、蓋をあけてみれば前回と同じく25人。ちょうどいい人数で始められました。環境に関するプロジェクトに興味のある校長先生やベテランの先生に混ざって、少しでも資格のほしい若い先生達がやってきます。

ワークショップで大切にしたいのは「何について考えるかではなく、どのように考えるか」。自分なりのテーマです。本やインターネットを見れば基本的なデータは得られる時代。そのデータを基にどのように考えるのかは、こうしさえすればいいという1つの答えなどない環境問題に取り組むには何より大事です。考えることを中心に据えたアクティビティをいくつか体験してもらい、自分たちで学校内の研修や教室で実際に使えるようにしました。紹介するアクティビティは本で見つけたものの他、同じく環境問題に携わる友人に教えてもらったり、彼らが実際に行っている現場を見学させてもらったりしたものです。学校現場ということもあり、授業案もしくはプロジェクト案を作るのに必要な年間計画、月間計画の立て方、学習指導案や教員同士の協力体制の作り方なども伝えてきました。こうして書いていると大層格好よく聞こえることに自分でもびっくりだけど、実は結構グダグダだったりします。特に今回は2回めということもあって逆に気がぬけたところもあって、これは猛省。慣れとは怖い。そして最大の問題点はやっぱり言葉・・・。


加えてもう一度考えなければいけないのはテーマのこと。「どのように考えるか」を教えることは言葉でいったら簡単だけど、壮大なテーマ。生徒に「どのように考えるか」を伝えるためには先生が「どのように考えるか」を考えていなければならず、しいては先生達にその大切さを説く私自身が、ということになるわけで・・・。私にとって、とても厳しい問いかけです。「教育は生徒に知識を植え付けるものではなく、教師と生徒の対話を通した学びに基づくものでなければならない」と言ったのはブラジルの教育学者パウロ・フレイレ。絶対的に正しい知識を持った教師(植民者)とそれを教えられるべき“未開”の生徒(被植民者)という従来の教師―生徒関係を批判し、多文化教育や先住民教育をはじめ教育全般に大きな影響を与えて、繰り返し引用されてきた言葉です。脱植民地主義を掲げるエボ政権の新しい教育法では1つの柱(言葉だけが独り歩きしている感はあるけれど)となっています。理想と現実のはざまで頭から消し去っていた言葉に思わぬところで再会です。教えることと学ぶこと。対極にありそうでいて、実は重なり合っているこの2つ。3月に行う次回のワークショップに向けて頭が許す限り考えをまとめたいと思います。

2012/02/03

ボリビアの家族~La Familia extensa~


年が明けて、あっという間に1月も終わり。
旧正月も過ぎてしまって今さらですが・・・
謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
今年が平和で穏やかな年になりますように。

年末はサマイパタで同期と過ごしました。紅白をみながら、キムチ鍋をつつき、年越しそばをすすり、お酒を注ぎあって。行動力のある人たちが集まっているからあれよあれよという間に用意が整って、私は時に台所を冷やかすだけで、もっぱら食べる方専門。外国で紅白を見るのは初めて。東北への気持ちを込めた歌が多くて、歌う人の特別な思いを強く感じました。ボリビアにいながら日本のお正月らしい雰囲気で新しい年を迎えることができました。カウントダウンは除夜の鐘のかわりに次々あがる花火を眺めながら。

長く続いてきた伝統や習慣はやっぱりいいなと思います。日本にとってお正月が家族が集う大切な日なら、ボリビアではクリスマスがそれにあたります。卒業式が終わって一段落した12月。オルロで水祭りのお手伝いをし(お茶を点ててきました)、ラパスでAPC申請のために大使館にいき、ついでに?仲間とチョリ―タさんのプロレス、その名もLucha Libreを見に行ったり(これが完全なやらせなんだけど、すっごいおもしろい!)、日本やカナダやタリハ(なぜ?だけど4人も集まった)からの友人と会ったりして過ごしましたが、クリスマス前にはタリハに戻りました。ここボリビアで私の家族にあたるのは大家さんオルガとその家族。やっぱり彼らと過ごしたいなと思ったのです。





24日は朝から土曜マーケットへ買い物。巻き寿司をつくります。Sushiはボリビアでも有名。先日サンタクルスで材料も仕入れてきました。寿司でなくともsushiは作れるはず!日本では作ったことないから見かけは悪いけど、味はいけるはず!中身はツナマヨ、しいたけ、ほうれん草、卵とシンプル。お醤油とわさびを用意します。オルガがボリビアのクリスマス料理ピカーナを作っているから、おつまみにしてもらいます。作り終わってほっとする間もなく、仕事のパートナー、イルセンから電話です。今から迎えにいくから、ピカーナを食べにいらっしゃいとのこと。「私のピカーナを食べれるようにちゃんとお腹をあけとくのよ」とオルガにおどされながら出かけました。ピカーナのはしご。

帰ってきたらもう11時過ぎ。オルガの息子ミゲル一家とお姉さんエルヴィラ一家が来ていました。そして12時。贈り物をあける時間。主人公はやっぱりマリア・リリアです。クリスマスツリーの下のプレゼントをとってはお母さんに名前を読んでもらい、みんなに渡していきます。自分のだったら大喜びで、ビリビリ包装紙をやぶいてプレゼントをとりだします。私もいくつか贈り物をもらいました。


翌日クリスマス。再び同じメンバーが朝のお茶をしにやってきました。マリア・リリアのお母さんフリアの作った苺トルタ。おいしい!同期のちーちゃんもおすしを食べにきてくれます。大家さんのピカーナも一緒にぺろり。そうしている間にも、コチャバンバに住む姪一家が訪ねてきます。そして昼食によばれて友人宅に出かけようとすると、今度は市内に住む姪とその子供達(マリア・リリアの従弟)やラパスに住む甥がやってくるのに出会いました。クリスマスはこんな風に親戚一同お互いを訪ねあいます。オルガも午後はバジェにいってくるわと言っていました。タリハから車で30分、ワインで有名なバジェ(Valle de Concepción)にはオルガの実家があって、お母さんと妹一家がいます。近いから週1回は必ず訪れているバジェだけど、やっぱりクリスマスにはどんなに忙しくても行くのです。



年末から訪れていたサンタクルスで仲間の活動先を訪ねたある夜。ボリビアの友人2人を交えてパティオでおしゃべりしながらでたのがsobrino/a(甥/姪)という言葉の意味でした。日本では兄弟の子供を意味するけれど、ボリビアでは従姉妹の子供をも含むとか。ボリビアは日本に比べると子だくさん。還暦を迎えたオルガが8人兄弟なのは頷けても、年下の友人が8人兄弟なのにはびっくり。兄弟姉妹の数が多ければ家族のメンバーが増えるのは当たり前。それに加えて「家族」という単位の枠が広いのです。日本のように祖父母、父母、子供(孫)の一本の線ではなく、横に広がって枝分かれしています。それだけの大人数がクリスマスに1つの場所に一度に集まれないから、大勢の訪問者!という結果になるのです。

カナダにいた頃、同じ留学生でもメキシコ人の友達が家族や親せきと密に連絡を取っている様子に、面倒くさそうと思いつつどこか羨ましい思いをしたことがあります。この友人の家を訪ねたクリスマス休暇、家族や親せきあげて歓迎してくれて嬉しかったのに、入れ替わり立ち替わり訪れる親戚との食事会や家族行事にいっぱいいっぱい。伯父と伯母、父の従弟とその家族、従妹の誰々・・・次々と紹介されて、頭がクラクラ。部屋でぐたっと休んで友達のお母さんに心配されました。その頃はスペイン語も今よりずっとあやしく、よくわからない話を理解しようと聞いているのに疲れてしまったのです^^懐かしい思い出です。

日本でも一つ前の時代のお正月はこんな感じだったのでしょうか。みんなが近いところに住んでお互いを訪問し合って、新年の挨拶をかわす。家族という単位が煩わしかった時期もあったけど(ボリビア人でもそう感じる時はあるみたいで、年の近いオルガの姪カリナとイブの夜ちょうどそんな話もしたけれど)家族と離れ、その家族を何より大切な単位とみなすラテンアメリカに住んでみると、改めて家族の意味について考えさせられます。子供の頃、長い休みの度に鳥取砂丘近くの祖父母の元を訪れ、従姉弟達と過ごした日々を思い出すと、あれほど楽しかった時はない気がするのです。大人になるとなかなかそんな時間はもてなくなってしまったけれど、友達と友情を育んでいくように、家族と新しい関係を築いていけたらいいなと思います。

今年のお正月。駒ケ根からもうすぐ2年、共に過ごして今では「家族みたいだね」というセリフがでるほど、お互いに楽な関係になった同期と、お父さん的存在うえまさん宅で迎えました。軋轢が全くないわけではなく、それぞれが小さくお互いを傷つけたり、むっとしたりすることも当たり前ながらあるけれど、それでも全員集まろう!と誰かが音頭をとったわけでもないのに、サマイパタで集まってしまうのは、家族と似通った絆ができてるのかなと思うのです(最後の極め付けは25日にうちに来た後、スクレに旅立ったのに「サマイパタにきちゃいましたー」とメールをよこしたちーちゃん)。血が家族を結ぶのなら、同期としてボリビアに来たことが私たちを結んでいます。でも、こうしてわあわあ騒ぎつつ自分の場所を確保してゆるやかな時間を過ごせるのは、「血」に甘んじることなく、お互いの関係を結んできたからだと思うのです。国外へ旅行中で来れなかった仲間。でも誰かが持ってきたベニ県の小さなお面をいつの間にかヨータローと呼ぶようになって、集合写真にもちゃんとうつっています。


1月初め帰国前の仲間が言いました。「ボリビアにきて家族の大切さを感じた。」「信頼できる仲間がたくさんできた。」ボリビアに来て増えたものリストにのせるべき一番大切なものを忘れていたみたいです。
 『真の贅沢とはただ一つしかない。それは人間関係の贅沢である。』 
サン・テグジュぺリ 「人間の大地」
                   
世界中の人たちがこの贅沢を味わえますように。


2011/12/13

12月は別れの季節


Felicidades!!

12月に入ってタリハは再び卒業式の季節。日本でいえば3月にあたり、年度の終わりとも重なって別れの季節です。
 
小学校の終業式・卒業式は子供も保護者一緒に運動場のまわりに好きに座るという、先生の日や母の日などの行事と形態のかわらないカジュアルなもの。子供たちはあちこち走り回っています。校長先生や進行役の先生達の話も聞いているのかいないのか。拍手はあるので、たぶん聞いている??私もお礼を兼ねて少し話をさせてもらいました。式は卒業する8年生によるダンス、スピーチ、歌、そして成績優秀な子の表彰には保護者も一緒に出てきて写真屋さんによる記念撮影などなどにぎやかです。これに比べると、高校はずっとフォーマル。日本のようにしーんと静かではないことを除けばそれほど形式は変わりません。連れてこられた子供たちはやっぱり遊んでるけど。

紙すき後、思い思いに作ったカード
12月最初の月曜日はHumberto Portocarrero 2高校の卒業式に招待されました。卒業する4年生は60人。他校に比べても大人数。この高校で一番関わりを持ったのは3年生のクラスだけれど、4年生にも授業をしたことがあって、それ以来人懐っこい生徒たちは校内で見かけると“Prof(先生)!”と気軽に声をかけてきます。11月半ばにこの高校で行った環境フェリア。私は3年生とコンポストやミミズの展示作り、1年生と分別した紙を使って紙すきを行うのに忙しくて4年生とは何もできなかったのだけど、彼らはゴミの分別とリサイクルについての授業を覚えていて、それをもとに分別の大切さを訴えるチラシを作り、学校の周りの家々を訪れて説明、リサイクル業者の紹介をして、ペットボトルを回収するという取り組みをしました。フェリア当日はその様子を撮ったビデオを上映、フェリアの始まる前も近所をまわって回収したとかで、ペットボトルを抱えた生徒が大勢いました。その子たちももう卒業です。

お母さんと入場(Nazaria校にて)
諸事情で少し遅れて到着すると、ちょうど卒業証書授与式の真っ最中でした。席についた早々名前を呼ばれて?のまま中央に出されると、卒業証書を渡せとのこと。5人の生徒におめでとうといって証書を渡し、握手して頬にキスを交わしました。先生達の名前が引き続いて呼ばれ、数人の卒業生に次々と卒業証書を授与していきます。ちょうど順番に間に合ったのです。こういうのもいいなあと思いました。授与式の後は、在校生のスピーチ、卒業生のスピーチ、卒業生から学校へプリンターの寄贈、保護者から担任の先生への記念プレートの贈呈、卒業生の歌と式は続きます。どの高校でも、入場は必ずお母さん、お父さんや兄弟など生徒にとって特別な人と一緒に花道を歩いて入場します。腕を組んでしずしずと。式の最後は、記念撮影。そしてみんな帽子を投げあげます。この瞬間が好き。



別れを惜しんで抱きあう卒業生
 この日、式の後は先生達のパーティーがあるということで、少し顔をだすことにしました。ところが校長先生も乗る車が向かったのは生徒宅。ちょうど運転していた先生は4年生の担任の先生。生徒宅に呼ばれたからちょっとよっていくとのこと。でもちょっとのはずが、男の子のお母さんがなかなか帰してくれません。先生が来てくれたのが嬉しくてたまらない様子。杯を重ねるにつれて担任の先生の顔も赤くなってきます。他の先生達からは何度も電話がはいり、みんな待ってるよ~と気が気じゃない。ようやく家を後にした時には1時間以上たっていました。真っ赤な顔をした先生の運転(ちょっと怖かった)で先生達の1人のお宅である会場へ。1時間半近い遅れとはいってもそこはボリビア、みんな気長に待っています。ビールで乾杯、お昼御飯を食べ終わると、もちろんダンスタイム。ボリビアのフィエスタにはつきもの。若い先生もおじさん先生も全員踊ります。CumbiaSalsa、タリハならではのCuecaChacarera。年度の締めくくりの日でもあり、先生達にとっても嬉しい日です。高校卒業はボリビアでは日本よりずっと大きな意味を持ちます。田舎に住む生徒の1人の家ではなんと牛を1頭つぶしてお祝いしているとか。パーティーの後おしかけようとみんな大笑い。きっとすごい肉の量でしょう。自慢の娘が無事卒業したお父さん、お母さんの喜びが伝わってくるようです。

   別れの季節は私にも巡ってきます。一番仲がよくて一緒に働いた先生であるDurvynが実家のあるスクレに戻ります。おばあさんが亡くなってから、家族のことが心配でまだ迷っているようだけれど、彼女はベネズエラへいく奨学金を手にしていて、5月には向こうの大学に行くことが決まっています。Nazaria Ignacia March高校の卒業式の後、前から食べたいといっていた日本料理(といってもカレーにさやいんげんのお浸し、わかめとじゃがいもの味噌汁ととっても簡単なものだけど)を用意して、小さなお別れ会を開きました。彼女にはほんとにお世話になりました。ありがとう!
 
 週末、インカ道を歩いて以来、久しぶりにハイキングに出かけました。Padcaya(パドカヤ)というタリハ市内から40分ほどのところにある村に行き、そこから2時間ほど離れたところにある小さな滝まで歩きました。雨季に入って雨続きのタリハ。この日も降られたけれどやわらかい雨で気持ちいい。メンバーはほぼ同じ。インカ道を歩いたときにいたフランシスコの代わりにオランダ人のJudit(ユディット)が加わっただけです。環境や教育に携わる人間同士として、タリハにおける外国人として、彼らとは多くの情報交換をしてきました。イタリア人のジョルダナは1月末に帰国、トムとユディットも2月には仕事の拠点をラパスに移す予定です。ジョルダナはずっと前からお茶のお点前を見たいと言っていて、急遽家でお茶を点てる約束をしました。彼女も帰国前にあちこち旅行するし、私も夏休み中にやっておきたいこともあって、2人ともがタリハにいる時間は1月の半ばほんの一時しかないことに気付いたのです。ばらばらになる前にもう一度小さな旅行をしたいねとみんなで話しました。

  そして、11月末に行われた隊員総会。

午前中に行われた総会の後は隊員の活動と日本文化を紹介するフェリアを行いました。4月に続いて第二弾。テーマはArco Iris(虹)、日本とボリビアのかけ橋です。大勢の仲間と訪れてくれたボリビア人とで作り上げた本当に楽しいフェリアになりました。それでも、総会では仲のよかった人たちの多い隊次や3月に帰国する一部の同期の挨拶などもあって、大事な時間が指先からこぼれていくような感じもしたのです。とはいっても、この感覚があるから、総会そのもの、懇親会や打ち上げ、担当した写真展示ブースの準備過程やフェリアでの発表に向けて練習してきた「情熱大陸」が忘れられないものになるのだと思います。そう、情熱大陸、結構ちゃんと弾けました(と思った)。仲間のプロ並みにうまいギターとピアノに助けられて。あとからビデオをみたバイオリンの先生も「助けてくれてるね~」と言ってました。で、これからはもう少し基本をやろうね、とも言われました。ビデオを見ると音が泳いでて、かなり恥ずかしい。でも頑張りました。DELEの勉強そっちのけで練習したかいがあったかな。一緒に音楽をするって楽しいなあと思いました。

 茶道から生まれた言葉、一期一会。一期は一生、一会はただ一度の出会いの意味です。 「茶席で、たとえ何度同じ人々が会するとしても、今日の茶会はただ一度限りの茶会であるから、 亭主も客もともに思いやりをもって取り組むべき」という千利休の教えからきています。お道具、お軸、花、風、光、におい、集う人とその心持ち、一回一回のお茶席に同じものはなく、二度と戻ってはこない時間だからこそ、かけがえのないものになります。そして、それはお茶席に限らず全てにおいていえること。別れの季節にはこの言葉がいつも身にしみる気がします。ちょっと感傷的かもしれないけれど、それでもこんなことを考える余裕があるから、一瞬一瞬の出会いを大事にしようと改めて思えるのだと思うことにしています。友人、仲間、恋人との出会い、その一方の果てに最も身近な家族、もう一方の先にはゆきずりの人があると思います。身近な人々との当たり前のように捉えてしまいがちな時間、一瞬言葉や視線を交わしただけの人々との時間、どれも同じ形では二度と戻ってこない、貴重な一期一会。死があるから生が輝くように、別れがあるから出会いがいとおしいものになるのだと思いたいです。 


 Humberto Portocarrero2の卒業式。卒業証書を受け取りながら1人の生徒が言いました。「あなたに会えてよかったです。」出会った全ての人にこの言葉が贈れたらと思います。雨が降りやまない、ちょっとセンチメンタルなタリハの夜でした。

2011/11/16

ボリビアに来て増えたもの・・・


横で遊んでるチェパとマリア・リリア
DELEのテキストを広げつつも、角のパン屋さんで売っているおいしいEmpanada de Quesoをかじり、コーヒーを入れに立ちあがったと思ったら、甘いものがほしくなってチョコレートを取りに行く・・・。ふと、お腹をみてやばいなーと思いました。ボリビアに来て増えたのが体重、だけでは悲しすぎると思うので、他に増えたものを考えてみました。ちょっとではなく、かなり現実逃避。


 まず、スペイン語の語彙。これは、増えれば増えるほどいいもの(^^)それでも今のところやっぱり英語におんぶにだっこしている感はぬぐえません。かの昔、フランス王室とイギリス王室との密接な婚姻関係から英語の語彙に多くのフランス語の語彙が加わりました。ラテンを起源とするそれらの言葉は同じくラテン語族に属するスペイン語にも通ずるわけで、英語の単語をローマ字読みし、すこし語尾をスペイン語風にすると意外に通じてしまうのです。身振り手振りをつけると鬼に金棒?かといって、むやみに使えるわけではなく、例えば英語のI’m embarrassedをスペイン語で言おうとしてEstoy embarazadaなどとすると「妊娠してます」の意味になって、場合によってはすごく恥ずかしい思いをするから、気をつけないとだめなのです。


 それでも困った時のなんとかで、この英語をスペイン語風にしてみるという技?はよく使っていました。けれども、ここのところDELEの勉強をしていて、なまじそれで通じる(これは必ずしも正しいスペイン語になっているというわけではなく、聞いたボリビア人が意味を推測してくれている場合が多い)ばっかりに自分で語彙を増やそうとする努力を怠ってきたのではないかということに気付きました。なんせわからない単語が多くて問題をやればやるほどもうだめだ感が増してきます。英語からスペイン語への回路は良かれ悪しかれできているけれど、スペイン語から英語への回路が出来ていないというのもあるかもしれません。辞書で意味を調べて、なーんだということもしょっちゅうです。Inmediatoが英語のimmediateだったり、legítimaがlegitimateと同じ意味だと気付かなかったりするとがっくし。しかもそれが解答する際のポイントだったりすると・・・。と書いているだけでちょっとストレス。もう少しこつこつ単語を覚えていかなければと反省しつつ、それでも1年前に比べたら語彙が増えているのは確かで、これはやっぱり嬉しいことです。


 それから、趣味。履歴書にすら趣味を書く欄はあるけれど、私は長いことここに読書、音楽鑑賞と箸にも棒にもひっかからない?なんとも非個性的なことを書いてきました。尤も読書に関して言えば、これは本当に自分にとってはなくてはならないもので、本を読むという仕事があったら絶対それについていたと思います。それでも読書は読書。何も目新しことはありません。ちょっとはスポーツをするところを見せないとだめかも、という気持ちになったときだけ、水泳かテニスをつけたしてきました(水泳はともかく、テニスは・・・)。就職して趣味欄を書く必要がなくなってから、それに茶道が加わり、そしてここへきて、バイオリンが加わったと思います。ちょっと勇気をだして、フォルクローレダンスとも書きたいところです。特に長いスカートをひるがえして踊るチャカレラは音楽ともに大好き。バイオリンで弾けるチャカレラのレパートリーも少し増えました。とは言っても、チャカレラはビブラートとリズムが命。音だけおさえられても本当のチャカレラとはいえません。まだまだ音楽が体に沁み通っていなくて、長き道程です。それでも練習が楽しいのだから、どうどうと趣味と書いてもいいだろうと思います。

  カナダから戻った後、なにか日本文化を身につけたいと通った茶道は習い始めて8年ほど。ボリビアにいる今お稽古にはいけないけれど、教室からの便りを読むにつけ、畳の部屋でお釜のしゅんしゅんいう音に耳をすませ、いい匂いのお抹茶をいただきながら、色々な話を聞いたあの時間を懐かしく思います。幸いなことに日本に帰りたいと思うことはそれほど多くないけれど(帰りたくないというのではなく)、日本に帰ってからのことを考える時、家族や友人との再会を別にすると、第一にしたいと思うのはお茶のお稽古に行くことです。そしてそのころ日本にいながら、一番恋しく思うのは、ボリビアの友人やホームステイ先の家族を除いたら、きっとチャカレラの音楽とダンスだろうと思います。チャカレラに限らず、ボリビアの音楽と踊りは働き先の学校でもほんとによく目にし、耳にしているから、この音楽を聴くだけで、恥ずかしげに、あるいは堂々と踊る子供たち、高校生たちの笑顔が思い浮かぶ気がします。


 そして最後に。先日、仲間にボリビアに来てよかったことは何?と尋ねました。その人は自分のやりたいことが見つかったと言いました。自分がやりたいと思ってやってきたことは少し違っていたこと、もっと人間と関わる仕事をしたいということに気付いたことを、具体的にこれから進みたい方向を交えて話してくれました。彼が同じ質問をしてきたとき、私は少し考えてからオープンになったこと、と答えました。ちょっと抽象的で、これを増えた、減ったと言えるものなのかはわからないけれど、オープンになったということは心の許容量が増えたということだと思います。この会話より少し前、別の友人と話していた時、彼が「今のマークがあの頃のマークだったら」もっとずっと素晴らしい仕事ができただろう、と言いました。情熱を持って現在の仕事に取り組んでいる彼もそんな風に以前の仕事を懐かしむことがあるそうです。今の自分があの頃の自分だったら。私が彼のようにはっきり言い切れるとしたら、「今の私があの頃の私だったら」もっとずっと色々なことを学んでいただろう、ということだと思います。そして、それは心の容量が増えたからだと思うのです。


チョビ。この子に会うといいことありそう。
 そんなことを考えてみると、なんだかとっても幸せな気持ちになりました。人は自分が変わった、と思える瞬間が一番しあわせなのではないかと思います。もちろん、この「変わった」感はとても流動的で、小さくて、臆病で、傲慢で、見栄っ張りで、努力が苦手で、自分に甘くて、人に厳しい、なんとも情けない自分像にがっかりすることは、次の瞬間にでも起こりうることなのだけれど、それでも人は自分が成長した、何かを得たと実感することで、物質的に豊かになったときよりずっと幸福を感じるのではないかと思います。それはきっと初めてハイハイから立ちあがって歩き始めた時(覚えてないけど)や1人でサマーキャンプに出掛けた日、初めて友達同士で夜の街に出かけた時の気持ちと似ているのでしょう。

 人と関わる仕事をしたいと仲間が語ってくれたとき、自分の仕事を思いました。大学生の頃図書館にでも勤めようかなと言った時、母はあなたみたいに本にばかり首をつっこんでいる人が図書館なんかに勤めたら本当の人間嫌いになるわよ、と言いました。逆に本嫌いになったかもしれないよと思うこともあるけれど、この母の忠告を聞いたのかどうか、結局教育学を専攻してたいそう人と関わらなければならない職業につきました。あまたの失敗と挫折の歴史だけれど、この仕事から学んだことは大きくて、やっぱりやっていてよかったなと思うのです。これからの自分がどのようにこの職業と関わりたいのか、そしてどう生きていきたいのか、少しやわらかくなった心で考えたいと思います。

 後残り7ヶ月、何が増えていくだろうといい気持ちを膨らませている横で、DELEの本が呼んでいます。本は本でも、幸せ気分もふっとんでしまう憂鬱な本ですが、今は大事な先生。もうしばらく仲良くしようと思います・・・

テラスより

2011/11/03

UNEFCOでの環境教育セミナー



 11月1日月曜日。Dia de los Muertos、死者の日の前夜祭、Dia de los Santos、諸聖人の日。昨夜、環境セミナーの最終日を終えて気持ちも軽く帰宅すると、家中にいい匂いが漂っていました。Chancho de Olla(豚の煮込み)を料理しているのです。日曜日にはエルヴィラの家でパン作りを手伝いました。こうして用意されたテーブルが上記の写真。豚の煮込みを初め、特別のパンやエンパナーダ、フルーツ、ワイン、チチャ、ビールなどが並べられています。死者を迎えるための準備をしているのです。31日はハロウィンの日でもあります。子供のころ"Trick or Treat" と言いながら近所を回ったのは懐かしい思い出。袋一杯2ヶ月分くらいのお菓子を手に入れたのを覚えています。主にプロテスタントの国々で祝われるハロウィンだけれど、日本と同じで少しずつボリビアにも入ってきていて、仮装パーティーが行われたりしています。セミナーとがぶって行けなかったけど、くりぬきカボチャを用意する本格的?なものだったらしくて、かぼちゃ作りやりたかったな。お祭り、催し物大好きなボリビア。そのうち子供が仮装して"Trick or Treat"(←Jugarrea o regalo ??)といいながら近所を回るようになるのかなと思います。


高校生とのアクティビティ
   25日火曜日から3日間、職場DDE(旧SEDUCA)に隣接する現職教師研修ユニットUNEFCO (UNIDAD ESPECIALIZADA FORMACION DE MAESTRO)で教員向けに環境教育セミナーを行いました。アララチ自然保護区へ生徒たちを10月中につれていきたかったもう一つの理由です。もともとは10月初旬に行うはずだったセミナーがモラレス大統領が教員へのコンピューター配布を決めたことで、この作業にUNEFCOの職員も駆り出され、十分な告知ができずに人が集まらず、今の時期となりました。おかげで、アララチ自然保護区についても、また先生達とやろうと思っていたアクティビティをナザリアの子たちとやって、高校生ともできるよという話もすることができました。

初日まだ誰もいない時間・・・
 今回登録者は25人。20人以上(ハードル高い!)登録者がいないと開講できないよ、と言われていたからまず一段階クリア。セミナーを行うこと自体とても久しぶり。この1年で多少学んできたとはいえ環境問題はあまりに複雑すぎて、きちんと理解しているとはとても言えません;プロジェクトの紹介と実施方法を説明する研修を初めて行った時も緊張したけれど、ちょっと理論的な今回のセミナーは新たな緊張感を伴いました。覚えきれない単語はパワーポイントに整理、言葉が足りなくても理解してもらえるように写真や図形をなるべくたくさん用いました。2時間半の授業中、聞きっぱなしでは参加者も疲れてしまうし、そもそも私のスペイン語力も限界がくるから、アクティビティを用意。そこから出てきた様々な答えをどうまとめるかは天にまかせるしかありません。とはいえ相手は先生達。手助けするのには慣れているはず(^^)困った時は任せてしまえと腹をくくったのでした。一度やってみないことには感覚がつかめないのは、体験学習の場合と同じです。

 セミナーのタイトルは”Implementación de Proyectos Ambientales en las Unidades Educativas” 「学校にける環境プロジェクトの実施」という格好いいもの。だいたいこんなことをやるつもりだけど、スペイン語でどう言えばいいかなと相談したところ友人がつけてくれたタイトルです。UNEFCOの職員がつけたタイトルが”Problemáticos de medio ambiente”「環境問題」。うーん、さすがにこれじゃ何やるかわからないよねと愚痴をいったら考えてくれたので、セミナーが伸びたのを幸い差し替えてもらいました。1日目は環境意識の高まりの歴史と世界的環境問題とその相互関係について、2日目は環境教育の概念の発達と持続可能な発展のための教育との関わり、そしてタリハの環境問題を中心に私たちが環境に与える影響とそれを最小限にとどめる工夫を考えました。3日目は年齢に応じた環境教育の理論、持続性のある年間計画の立て方や様々な具体的アイディアの紹介です。北海道のひびきの村での日々、派遣前の技術補完研修や今までに参加したボランティア活動でやってみたことが生きて、小さな工夫で色々なことができると先生達には好評でした。環境教育の仲間が作った教科書にも多くの例が載っていてこれもとても喜ばれました。一番自信がなく心配だったのが1日目の内容。初日ということもあってずいぶんドキドキしました。自分の専門に近い2日目、そして実践的な3日目は慣れてきてもいてだいぶ気が楽でした。パーフェクトとはいかないまでも、それなりに無事3日間を終えることができたのでした。


グループワーク
 全てのUNEFCOのセミナーは3日間の授業とその成果を発表するSocializaciónと呼ばれる日で成り立っています。この4日間(10時間)の授業、プラス課題に費やす12時間で1コース24時間と定められ、1つのコースを修了するごとに証明書が発行されます。4コースで一括り、1課程となり、課程を1つ終えるとさらに修了証明書がもらえ、この証明書は仕事を得る上でも意味があるものとなります。今回私が行ったのは1コース。この証明書だけで大きな力をもつことはないらしいのですが、それでも資格として提示できるようです。現在の自分の知識で1課程、つまり40時間!もの授業ができるとはとても思えないのだけれど、セミナー第二弾くらいできたらいいなと思いました。

   
グループ発表
 31日、ハロウィンの夜がこのSocializaciónの日でした。この日に向けて、環境に関するテーマを1つ選び、授業またはプロジェクトの企画をするという課題をだしました。課題は1人でやっても、グループでやってもよし、90分の授業の案でも、長期にわたるプロジェクトの案でもよい。以前にやったことがあることでもよいし、来年度にやりたい企画でもよい。例はあげたものの形式は自由としました。Socializaciónの日はたった3日後。一体どんな発表になるのか怖くもあり、楽しみでもありました。そして迎えた月曜日。参加した先生達は素晴らしい発表をしてくれました。大学の授業で企画し学校で実際に子供達とやってみたプロジェクトの紹介をした若い先生もいれば、学校緑化計画を実施した過程と困難を説明してくれたベテランの先生もいました。セミナーで学んだことを元に新しく授業案、年間指導計画を提示してくれた先生達もいます。テーマも水、リサイクル、庭づくり、電池の処理と多岐にわたっていました。


素晴らしいフェリア。右隣りが先生。
 そしてここで先生達があげた困難は、私自身が今までタリハで活動してきてぶつかった問題と同じものでした。1つの校舎を2つ、時に3つの学校が併用しているため、例えば木を植えてもぬかれてしまったり、囲いを壊されてしまったりすること、他の先生達の協力がなかなか得られないこと、学校全体で動けないことなどです。午後の学校ならば、午前と夜の学校と如何に協力するか、他教科(環境教育は主に生物の先生の仕事と思われている)の教員をどのように巻き込むか、ボリビアではとても切実な問題だと感じました。教員の労働時間を公務員と同じ8時間とし(SEDUCAの職員もこれにのっとって働いています)、それに見合った給料をだすことが何より必要だと思うのですが、こればかりはすぐすぐ変わるものでも変えられるものでもありません。今在る状況の中でどう工夫できるかを考えていくしかないなと思います。環境に関するあらゆることに少しでも興味がある先生達が、横の連携を深めていくことが必要だと思います。ちょうどセミナー3日目の朝、ある学校の先生が開催するフェリアに招待されました。高校生達がグループに分かれ、土地を見つけて種から野菜を育て、その過程を記録し、収穫した野菜を調理してフェリアで販売するというもの。全て自分たちの手で行った完成度の高いフェリアでした。個人個人でいい活動をしている先生達がお互いの活動をシェアし、協力しあえたら素敵です。環境教育のために来ている私という存在をもっと早く知っていたらと言う参加者もいて、同じ思いを先生達も抱いていると感じました。


メンバーの頭文字で店の名前も
育てたイチゴを誇らしげに

 たった3日間の授業をするだけなのに、準備にはずいぶん時間を費やしましたが、おかげで自分にとってもいい勉強になりました。受講した先生たちの発表も刺激になり、来年2月から6月までの、ボリビアで過ごす最後の学期で自分ができることを考えるきっかけにもなりました。先生達の評価アンケートも幸いポジティブで、セミナーを続けたいと書いている人もいたのでほっ。大きな反省点はやっぱり語学。準備してきたことを話す分には問題ないのですが、参加者の発表や感想を100%理解できませんでした。提出された資料を後からみてああ、そういう意味だったのかと納得する始末。適切なコメントをだすことはやはり難しかったのです。11月19日にはDELEという、英語で言えばTOEICやTOEFLに当たる、スペイン語の試験を受けます。さぼりがちなスペイン語学習のモチベーションになればと思って申し込んだけれど、なんやかやと口実をつけてあまり勉強していませんでした。後2週間。セミナーも終わったことだし、今日から追い込みに入ろうと思います!

11月2日、死者の日のお墓
通っている学校の男の子に会いました。
高いところのお墓に花を飾る仕事をしていました。

2011/10/31

ミミズコンポストとアララチ自然保護区




 9月~10月はタリハに腰を落ち着けて、学校をまわる日々が続きました。評価、試験、補習が始まる11月に入ると、学校での仕事は難しくなります。12月の学年末と卒業式にむけて先生達は大忙しになるのです。新しい学校でリサイクルのシステムを作る活動を続ける傍ら、以前から働き始めた学校ではコンポスト作りを継続します。寒さであまり変化がなかったコンポストも、冬休みがあけて暖かさを増すにつれて活発に分解が進み始めました。

 コンポスト作りは生物の授業を使って行うので対象は日本でいう中学生から高校生。学校、学年、クラスによって反応は様々でしたが、コンポストに使うミミズを実際に観察しながら生態を学ぶ授業はどの生徒も大喜びでした。この授業に向けた準備のおかげで私もミミズについてちょっと詳しくなりました。雌雄同体であることや皮膚で呼吸すること、心臓は5つのパーツに分かれていること、小さな脳とながーい腸をもっていること、環帯と呼ばれる白い輪の部分で生殖活動を行うこと、だから環帯は大人のミミズの証であることなどなど。コンポストにはカリフォルニアミミズ(日本で使われているシマミミズとたぶん同じ)という生ごみを食べる種類を使います。糞に含まれるミネラルによってコンポストの質があがるのです。





 コンポストを作るのは初めて。ネットとボリビアで手に入れた冊子を見ながらこわごわと始めました。材料もそろわずコンポストの寝床も写真の通り。それでも最初に始めた学校ではこげ茶色のほくほくした土ができ始めました。生徒たちは週に1度の生物の時間に混ぜ返しを行い、新たな生ごみを足し、水を撒きます。夏になり、温度があがると週2度水を撒いて、湿り気を保つようにしました。ミミズはどんどん増え、黒々と大きく太ってきています。黄色がかった透明の卵、小さくて白い赤ちゃんミミズやピンクがかった子供ミミズもたくさんいます。興味を持つ生徒ももたない生徒もいるけれど、変化をみるとやはり嬉しそう。近くにあるたくさんある鳩の糞を入れてやってみたらどうだろうと実験用に小さな寝床を作ったのはやんちゃな男の子たちです。出来あがったコンポストは庭の植木にあげたりしていますが、来年は畑を作って野菜を作ろうと話しています。
 
 そんなある金曜日の夜、Escuela de Convenio(カトリック教会の援助を受けている公立の学校)のダンスのプレゼンテーションがありました。通っている学校の1つ、U.E Teresa de Calcuta(マザー・テレサ学校)の先生達と練習していたMexicana(メヒカーナ)というメキシコの踊りを踊りました。先生たちだけではなく、学校を代表して子供や生徒たちも踊ります。6時に開始の予定がようやく7時半ころに始まるという相変わらずのタリハらしさ。創立記念日、母の日、先生の日・・・生徒たちによるボリビア各地のダンスは見慣れてきてもいたし、あまりにも回数が多すぎる上、練習と称して授業がカットされ、ただでさえ午前又は午後のみと授業時間数の少ないボリビアの学校、首を傾げることもありました。ボリビアの子供達の学習時間の少なさは相当なものです。それでも、初めて公に参加したダンス大会。見るだけとは違った楽しさです。メヒカーナはゆっくりした動きの踊りで難しくはないけれど、さすがに緊張。結局全員そろって練習することがなかったから多少?ずれはあったものの、最後まで踊りきって会場から拍手をもらった時はほっとしたのでした。揃えた衣装もフクシア色の長いドレス。着ているだけで楽しい気分になりました。


 そして10月23日、U.E Nazalia Ignacia March(ナザリア・イグナシア・マーチ校)の最終学年、日本でいう高校3年生のクラスを自然保護区へ連れていきました。アルゼンチンとの国境、Belmejo(ベルメホ)への道の途中にあるReserva Natural de Alarachi(アララチ自然保護区)です。サマの自然保護区の職員の仕事について行かせてもらって下見したり、Alarachiの自然保護区を担当するNGO、PROMETAと打ち合わせを進めて、今年中に一度はどこかの学校でやりたいと思っていたけれど、デモや行事で授業時間を削られなかなか実現しなかった体験学習。雨季がはじまったばかりでまだ緑が少なく乾燥したサマより、標高が低く湿度の高いアララチの森が生物の先生の興味をひいて、今回連れて行くことになりました。

 人間の活動が自然に及ぼす影響を考える事前学習をした週末日曜日、Mercado Campesino(メルカド・カンぺシ―ノ)前に集合。集合時間は8時。全員集まったのは8時半。まずまずの出だしです。21人と少人数で仲の良いクラス、一緒に働く2人の生物の先生が引率です。今回、PROMETAとの書類のやりとりやガイドの手配は私がしたけれど、バスの手配をしてくれたのはクラスの男の子たち。学校のない午前中は仕事をして家族の手助けをするボリビアの生徒には社会性があり、思わぬ大人っぽさを見せてくれます。少々ガタのきたミニバスはとてもゆっくりで、ガイドが待っていてくれるはずの小さな村Mamora(マモラ)に到着したのは予定時間を30分以上過ぎた10時半過ぎ。ガイドにもPROMETAの友人にも電話はつながらず、暇げにたたずむ警官は親切だったけれどガイドは知らないとのことで、ミニバスで少し先にあるという保護区の入り口へいってみることにしました。ところがここにも誰もおらず。なんだか嫌な予感・・・。ここまで来ると電話の電波も入らず、お手上げとなりました。保護区の看板からおそらくここだろうと見当をつけて草木の中に入ってみるも地図もなく、引率3人でさてどうしようかと顔を見合わせました。

 それでも少し歩くと水の流れる音が聞こえてきて、川が近いことがわかりました。確か滝があったはずと、川の上流へ向かって30分ほど歩きました(でも、なかった・・・)。石だらけの川沿いをキャーキャーいいながら歩き、川べりでお昼御飯としました。男の子たちが川で泳ぎたがるので、少々心配だったものの許可。早い流れにのって楽しげに遊んでいます。残った生徒たちと写真をとったり、歌を歌ったりして過ごし、川遊びをする男の子の服を女の子が奪いにいったりして(水着はもってきていない・・・)それなりに楽しんではいるものの、さすがにこれだけで帰るわけにはいきません。せっかくお金を出し合ってバスをチャーターしてきたのに、いくらなんでも悲しすぎます。とはいってもガイドをする知識など私にあろうはずもないし、いくら生物の先生でもそれは無理。少々焦ってきた3人。

 
 一度ミニバスへ戻ろうと生徒たちを行かせた直後、男性が1人斜面を降りてくるのが見えました。もしや!と思ったら、ガイドさんでした!マモラで待っていたけれど、来ないから一度保護区へいってみた、それでもいないから、ここへ戻ってきたらミニバスがあったからずっと探していたんだとのこと。そう、実は川べりへ向かっていた時、人の叫び声を聞いた気がしたのでした。一回きりでとぎれたので、気のせいかと思ったのですが、きっと彼だったのでしょう。アルゼンチン人だという男前のガイドさんが天使に見えたのでした。時間は14時。今からでも行けるかと聞くところ構わないとのこと。保護区は実はもう少し先だとのことでバスに乗り込んできたガイドと共に向かいます。途中3つの真っ暗なトンネルを通ると生徒たちは歓声を上げて大はしゃぎ。ちょっと退屈してきたところだったのでと、ガイドさんに言い訳しつつ、彼に会えた安堵感で私たちの気持ちも高揚。


 
 そして連れて行かれたのは熱帯の森。タリハからベルメホへ向かう道は次第に緑が増して日本の景色に似てきます。茶色い禿山から木々に覆われた緑の山へと変わってくるといつも心が浮き立つ思いがしました。その幹線道路からほんの少し中へ入っただけなのに、保護区内の森へ入った途端の気温の変化は劇的でした。湿度がぐんとあがって暑くなります。最初にいた川べりでは寒かったくらいなのに、散策道を少し歩くと汗びっしょり。咲く花々も赤や黄色の原色で派手です。木を切り、道路を通すことでここの気候はかなり変わったことでしょう。木々にまきつく蔓は丈夫だからのぼってみろというガイドの言葉に男の子たちはターザンごっこ。ぶんたんに似た木の実を食べてみるように差し出すガイド。ゴムの木の幹を削って白い汁を出してみせます。つられて華やかな花を折ってしまった女の子。嬉しそうだったけれど、さすがにこれは注意。本来自然保護区ならばそこにあるものを傷つけてはならないけれど、五感を使って自然を体感するのも大切。迷うところだけれど訪れる人間皆がこんなことをしていたら保護区の意味がありません。ガイドの教育はどうしているのだろうと気になりました。


 たった1時間ちょっと(ミニバスではかなり時間かかったけど)下っただけなのに、タリハとは全く異なった気候。ボリビアの豊かさにまた触れた思いでした。滅多にタリハをでることのない生徒たちがはしゃぐのも当然です。帰りはさすがに疲れて眠りこむ生徒たち。それを見ながらやっぱり連れてきてよかった、ガイドに会えて良かった(!)と2人の先生と大満足したのでした。手順を聞いただけなのと、一度経験するのとでは大違い。次回連れて行く時に必要な事柄も、事前・事後学習に盛り込みたい内容もわかってきました。実際ゴミについてはプロジェクトの威力(?)もあって、生徒たちは袋につめたゴミを自慢げに見せ、バナナの皮1つ残すことなく川辺及び保護区を後にしたのでした。12月に卒業するこの子たちと会う機会はもう数少ないけれど、初めて企画して出かけた彼らとの体験学習をきっと忘れないでしょう。そして彼らにとっても東洋から来た外国人との遠出はまた格別だったようで、国際親善(?)にも貢献したのでした。11月には卒業旅行でラパスに行くと言う彼ら。GripeH1N1(インフルエンザ)がはやりだして、学校単位の旅行が禁止になったともいわれているのでちょっと心配です。無事に行けるといいなと思います。18時にはもどっている予定がタリハに到着したのは20時。保護者に何か言われたら携帯に電話しなさいと引率の先生たちが言っています。途中家の近くでバスを降ろしてもらって、3匹のノミをお伴に、気持ち良い疲れを感じながら帰ったのでした。(1匹はシャワーをしたその翌日発見!どこにいたの??)