2013/11/09

故郷から故郷へ


(これを書いたのは2012年7月です。あれからもう1年半が過ぎました。臆病さを振り捨てて、教師というとてもやりがいのあった仕事をやめ、新しい道を探ることを決めました。新しいとはいっても、教え、学ぶという現場には関わり続けたいと思っています。なぜやめなければならなかったのか、私自身にとっても大きな疑問であり、今は今更ながらの人生最大?のチャレンジです。新しい生活をまたブログで綴っていきます。ボリビアで書きかけて置いたままのいくつかの記事もおいおい書きなおしてアップもしていきたいと思います。
VIVA TARIJAとしての記事はこれを最後にします。ここに行き着いて読んでくださった方々、ありがとうございました。)


21012年6月18日日曜日、午後4時タリハを後にしました。2010年7月14日に初めて空港に降り立って以来、1年と11ヶ月。本当にあっという間でした。最後の2ヶ月は目がまわるような忙しさで、1人で落ち着く時間も、本を読むこともなく過ごしてきました。そして日本に帰ってきて、おおきなカルチャーショックを受けたのも束の間、もとの職場に戻るとボリビアでの日々が夢のように感じられることがあります。

ボリビアの友人や先生たちとは今でもfacebookやskypeを通して話をするし、大家さんからも週に一度はメールがくる。私は確かにタリハに存在し、小さくともなんらかの痕跡を残している。

それでもこのボリビアでの2年間が私にとって何だったのかと考えるとき、不思議な気持ちになります。

結局何もできなかったのではないかという無力感。もっとこうしていたらという後悔。ボランティアとしての自分の仕事に、タリハの人々にとって自分の存在に、どんな意義があったのだろうという疑い。結局私は自分の殻をやぶることができず、独りよがりで終わっていたのではないか・・・

一方で、やれるだけのことはやったという達成感。1人の日本人として、教師として、そして1人の人間として、この2年間でなんらかの影響を与えた人々が確かにいると。繋がりが繋がりを呼んで、新たな人間関係を築き、思わぬところから反響があったりもしたのだから。

相反する2つの感情。評価。どちらも本当なのだろうと思います。

不思議な気持ちになるのは、1人の人間の存在は小さくも、大きくもなれると思うからです。時間の大きな流れのなかでは私の2年間のタリハ滞在はほんの点にすぎず、私のなかでも、タリハで知り合った人々のなかでもしだいに過去のものとなり、記憶は褪せていきます。今この瞬間にも私のいないタリハの時間は流れていて、たった一ヶ月の間に友人の幾人かの身の上は大きく変化しました。タリハを発つ日、友人の一人が言いました。ここを発った瞬間、全てが過去のものになるね、と。それは悲しいほどの真実です。愛した人々や土地との別れはそういうものなのでしょう。
それでも、この過去は私のなかで生き続けます。

星野道夫の本のなかに忘れられないエピソードがあります。アラスカへ忙しい仕事の合間をぬって、星野道夫を訪ねてやってきた編集者が、大海原を潮をふきながら進むクジラの群れを見ながら言いました。せわしない東京に戻って大勢の人々とともに地下鉄に閉じ込められて揺られる、その同じ瞬間に遥か北の大きくて広い海で鯨が悠々と泳いでいることを想うと、それだけで豊かな気持ちになれるだろうと。アラスカに住む友人が言います。このアラスカの広大な平原に何の意味があるのか。人間が住むのにはその一角だけで十分、これだけの土地は必要ない。それでも、心のどこかにこの大きな広がりをもつこと、そこにこの大平原の意味はあるのだと。星野道夫自身も、丸太でつくった自宅で暖炉の火にあたりながら、すぐそばの森のなかで冬眠しているクマを思って、心あたたかになります。

タリハの自然と人々はこれと似た形で私の中に息づいていくのだと思います。
価値観が変わった!そう言えるほど劇的な変化が私の中にあったわけではなく、少なくとも私の目には、そしておそらく他人の目にも、私はたいして変わっていないでしょう。
それでも私の中に確実に新たに加わったもの、それはタリハに流れる「時間」、またはタリハという「空間」としか呼びようのないものなのだと思います。

何かの拍子に私の名前がSEDUCAにおいて名前が過去のボランティアの名とともに同僚たちの口にのぼることがあるでしょう。オルガはマリア・リリアや息子夫婦、エルヴィラやヴォルフカンなどの家族と、pasanacoの仲間たちと日本にいる“娘”について話すでしょう。友人たちの口にかつていた日本人の女の子の名前がのぼることもあるでしょうし、通っていた学校の子供達や先生達も一緒にゴミ拾いをしたり、ペットボトルを集めたり、みみずを持ってきて観察させたり、コンポストや畑を作ったりした日本のセニョリータのことを思い出すことがあるでしょう。



穏やかな気候に惹かれた人々が移り住み、人口の増え続けているタリハの町はゆっくりと、でも確実に変化しています。新しくお目見えしたばかりの黄金色に輝くCasa de Culturaも、Rio Guadarquivirの川ベリに新しく作られたParque Tematicoもいずれは古びた風合いに落ち着いてくるでしょう。結婚や出産、進学などに伴う希望に満ちた変化がある一方、老いや死が知り合った人々を襲うこともあるでしょう。たとえ何年かのちにタリハを訪れることがあったとしても、タリハはもうかつて私が知っていたタリハと全く同じではありません。

それら全てをひっくるめて、私のなかにタリハは、ボリビアは存在し続けます。その場所を想うだけで、心が豊かになり、なごませてくれるような場所が一つ増えたのです。

サンタクルスを発ち、リマ、ロスを経て東京に着く過程でどんどん増えるアジア人率ときめ細かいサービス、そして丁寧な対応。マイアミからボリビアに向かう飛行機の中、眼下でうねるように続くアンデス山脈に南米に来たのだと実感し、新しい文化との出会いに毎日驚いていたのと同じように、もしくはそれ以上に、今帰っていく自国であるところの日本を異質なものとしてとらえている自分がいました。微かな苦々しさを伴うこのカウンターカルチャーショックの方がむしろ生々しいよう。

無数の光を伴って暗い空に伸びる巨大なビルの群れとその間を飛んでいる(ように見える)車の赤いテールランプ。隅から隅まできれいでどこも壊れていない家々。煙もださずに静かに走るバスと時間通りに音もなく滑りこんでくる電車。おしゃべりもせず整然と並んで、無表情に乗り込む人々。満面の笑顔をむけてくる店員とそこまで卑下しなくても思わせるくらいの敬語、恐ろしい数の注意書き。色白でふわふわのきれいでかわいい服をきた女の人たちと、(みんなゲイに見えるよと聞いてはいた)ピシッとスーツで決めた細くて青白い男の人たちが目まぐるしく行き来する通り・・・

そんな景色も1ヶ月もする間に当たり前のものとなりました。タリハの人々とボリビアの日々を心のなかの大切な場所におきながら、日本での日常が進んでいきます。あの日々を心の中にしまっておくだけでなく、意味のある形で他者に伝えられるようになること、出会った様々な人々から受けた影響をこれからの自分の生き方に生かしていくこと、ボリビアの人々にもらったたくさんの愛を返していくこと。やりたいこと、やらなければならないことはたくさんあります。いつの間にか、いい年齢になりました。いつまでも言い訳してもいられない。自分の成長のことだけにかまけていてもいられない。そんな年齢です。自分の頭で考えて、行動する。当たり前のことなのに、いまだに難しいなと感じている自分がいます。


「わたしたちは必要なものはみんな持っている。大切な家族がいる。残念なのは海外旅行に行きにくいことくらいかな。」と笑ったタリハの人々。物や栄誉への執着は当たり前に持ち合わせているけれど、それ以上に大切なものがあることを私よりももっと本質的に知っている、そんな気がしました。

ボリビアでは日本製品と日本人の勤勉さと辛抱強さに対する賛辞をそれこそ雨あられのように聞きました。そして、自分の国がそのように受け止められていることを誇らしく得意に思っていました。それには今も変わりはありません。豊かさの影にある恐ろしいほどの歪みと国としての迷走に目を覆いたくなることもあるけれど、お互いを思いやって暮らそうとする意思をもつ人々や他者や他国のためにつくそうとする人々がたくさんいることも知っているからです。

その一方で、なぜ日本ではと思うことも多いのです。ボリビアにいた頃の一週間分のゴミよりも多そうな1日のゴミ。なぜこんなに何もかもを紙やプラスチックで包んでしまうのだろう。まるで醜いものを全て覆い隠して、飾りたてなければならないみたいに。無数の目に見えないばい菌が私たちの周りに漂っていて、そうでもしなければ、身をまもれないというかのように。

美しいものを作ること、清潔にすること、便利であることを追い求めようとするあまり、うまれてくる大量の「ゴミ」。包むものは紙やプラスチックだけではありません。広告や宣伝。様々なキャッチコピーに使われる心地よく美しい映像や音楽や言葉。

そして、飾りたてられて、覆い隠されているのも、モノだけではないのです。人もなのです。隠され見えなくされている「美しくない」モノと人。「清潔でない」モノと人。「便利でない」モノと人。自分をみえなくしているものは、世界を見えなくしているものは、何なのだろうと問いかけることをしなければならない気がします。

多民族国家ならではの軋轢に苦しむボリビアではあるけれども、世界における環境問題への危機意識の高まりとともに、先住民の昔ながらの知恵や考えを見直す動きがでています。高地の民族への偏見がまだ根強いタリハでもそんな動きを何度も感じました。帰国直前、同僚のマルティナ(Martina)が言いました。「母なる大地(Madre Tierra)なんて大統領が宣伝文句に使うあっち(高地)の言葉だと思って好きになれなかった。けれど最近本当に思うの。自然は私たちの母だって。」
大切に守っていかなければならない、と。

日本とボリビア、共に学ぶことはたくさんで、そして私たち両方にできることは学んで変わることだけです。

長いようで、あっという間だった2年間。
ボリビアに家族ができました。会いたい、話したい友達ができました。
あたたかさと共に、心に思い浮かべることのできるたくさんの人々ができました。
本当に幸せな2年間でした。
ありがとうございました。



2012/04/29

バジェのぶどう収穫祭とエントレ・リオスでの静修




あっという間に4月へ突入・・・
なんだかこんな言葉で始めることが多い気がするけれど。
これが本当にそのままの気持ちだから。
歌の歌詞にありました。
「旅立つ日がくるなら、せめてこの時間よ、とまれとはいわないから、ゆっくりすすめ。」
タリハを引き上げる日6月18日へ向けて時間が刻々と過ぎていきます。
友人達、一緒に働く先生達、大家さん・・・いろんな人達との会話に、この日の影がちらちら。




168年の歴史
去っていった3月。奇しくも3月11日はバジェのVendimia、葡萄収穫祭でした。1週間にわたる祭りの最終日。ぶどう農園やワイン醸造所が小さいところも大きいところもこぞってスタンドを並べ、ブドウやワイン、手工芸品を並べます。食べ物の屋台もずらりで大勢の人々がやってきます。前日夕方5時友人Ceciliaと2人バジェへやってきました。Cecilia(セシリア)の家族やもうすでに出来あがってる他の友人たちと合流。私のお目当ては前夜祭に出演予定のLos Kjarkas。村の運動場?Cancha(カンチャ)へぷらぷら入っていくと、何やら演奏しているグループが。あれ、聞き覚えが、と思っていると、Los Kjarkasがリハーサル中でした!終わったころに友達と出口のあたりへ出かけるとちょうどメンバーがいました。私は何を思ったかまことさんをお茶に誘ってしまい(夜中11時からのコンサートを控え、明日はサンタに帰るという人に思わず・・・ワインのせいです。)、それを聞きつけたメンバーの長老格エルメスが自分の電話番号を教えてきたりして、友人たちは大喜びでした。(もちろん、リップサービスで,電話がかかってきたわけではありません!)


そんなこんなで夕食をあちこちで食べ歩きした後、10時半ごろ再度コンサート会場へ入りました。演奏するのは4グループ。3番目がLos Kjarkasで会場へ入って少しすると、彼らのステージが始まりました。ワインをまわし飲みながら歌って、踊って。今さらだけど、タリハではたとえ踊っている最中でもワインやシンガ二のグラスがあちこちでまわっています。1口でも全てでも、飲みたいだけ飲み、もちろん飲み干した場合はつぎたしてから、近くの人と目を合わせて”Te invito"か”Salud”といって1口飲んでからグラスを渡します。渡された人も同じことをします。こうしてグラスが次々回ってくるから、私なんかはひとくち飲んだら十分、すぐ次にまわします。時には口をつけるだけ。また踊っていると回るのも早い早い^^




夜中2時過ぎ、Los Kjarkasの後、Vale4というアルゼンチンのグループが歌って、コンサートは終了しました。この夜は友人Michelito(ミチェリト)とKelly(ケリー)の住む宿舎に泊めてもらいました。翌日起きたのは8時半。庭ではKellyが旅の途中で拾ってから世話している小鳥bebe(赤ちゃんだから、べべ)を日光浴させていて、彼女とコーヒーとパンの簡単な朝食をとりながらおしゃべりをしていると、次々みなが起きだしてきました。思い思いにハンモックや椅子に座って優しい日差しとタリハの田舎らしい光景を楽しみます。とそんな中Ceciliaのお父さんがノートに今の気持ちを書きだしました。詩のような形で。マテ茶とともにノートがみんなにまわされます。みんな結構哲学家で色々深いことを書いてちょっとしたディスカッションが始まったり。私はこの出会いとひと時に感謝して一期一会と書きました。そして、ちょっと迷ったすえ、震災について書きました。小さい祈りと日本へ帰ったら・・・という決意表明?を。そうしたら、みんなで自然に黙祷を捧げていました。うららかな緑の日差しの下、静かな時間でした。

Cecilia

そしてこの翌週、同期の何人かが帰国しました。実のところ3月11日はVendimiaではなく、本当は日系移住地サンファンへ出かけているはずでした。それが近く町ヤパカニで行われている道路封鎖のため行けなかったのです。サンファンで仲間が主催した祭り「和」。これも震災から1年を意識したものでした・・・。震災を経験した日本。同期を見送りながら、帰っていく日本はどう変わっているのだろうと考えました。そして、彼らのプレゼンを聞きながら、自分の仕事を振り返って残り期間頑張ろうとも思ったのです。それは一年前の決意でもあります。遠く離れて寄付をすること、手紙や写真を送るくらいしかできず、情報もだんだんと入らなくなってくる中、できるのは今の自分の仕事を頑張ること、たくさんの人と交流して丁寧に付き合うこと。そして日本に帰った後は、たとえどんな小さな形ででも、なにかをしたいという決意。そして探してみれば、小さな形でできることは本当にたくさんあるのです。

さて、3月の職場。年度当初からざわざわしています。いつ行われたか忘れてしまったほどだいぶ前(12月だった?)に行われた校長になるための筆記試験。結果がでないうちに新学期に突入。カーニバルが終わった頃にようやく点数がでました。そして3月14日、行われたのがcalificación de expediente(関係書類の評価)。これまでの経験や関わったプロジェクトを書類の形で提出、それを元に面接試験が行われます。この結果が23日にでました。そして、26日誰がどの学校の校長になるかが決まったのです。点数の高い校長希望者から順番に行きたい学校をとっていく方式。学期半ばで校長大移動・・・。4月、日本だったらとても区切りがよいのだけど!?と思いながら、この交代劇を見守りました。仕事先の学校の校長が変わらないことを願いつつ。今回私のカウンターパート、Ilsen(イルセン)も校長として出ることになりました。共に仕事をするということはなかったけれど、研修で日本に行ったことがあって、ボリビアに来た時から空港へ迎えに来てくれ、なにかと世話をやいてくれたイルセンがいなくなるのは少し寂しいことです。

そんなわけで、3月最後のイベント、活動先の学校Humberto Portocarrero2の先生達と行くRetiro Espiritual(精神の静修、カトリック教会傘下にあるFe y Alegriaの学校らしい行事)。27日夜出発のこの小旅行に出かけるときには校長はこの学校の教員でもあった若い先生、Jaena(ハエナ)に変わっていました。木曜日に学校に行った時にはこのRetiro Espiritualに来るんだぞと言ってくれていた前校長は結局きませんでした・・・。当然ながら校長交代には悲喜こもごも色々な思いが交錯するのです。新しい学校への移動の準備もあるはず。実はこの後、活動している学校の1つLa Salleで、別の活動先の学校Teresa de Calcutaの校長先生が6年生を受け持っているのを見た時はびっくり。La Salleへ来てほしいと誘ってくれたSonco先生がTeresa de Calcutaの校長になっていました。

右から二人目が新しい校長先生ハエナ

さて、このRetiro Espiritual。2泊2日とはいえ、ボリビア人と宿泊つきの旅行をするのは初めて。ちょっとどきどきです。泊り先はEntre Rios(エントレ・リオス)から少しいったところにある田舎の家らしいと聞いたのみ。タリハから3時間ほど離れた村です。夜7時半。16名の教員と大量の食糧(じゃがいもの大袋とか)を詰め込んで、借り上げたミクロはよたよたと出発しました。エントレ・リオスへの道はガードレールなし、絶壁続きのすごい道、酔い止めを飲んで備えたけど、あまりのよろよろぶりに危険を感じることもありませんでした。結局4時間ほどかけて着いた田舎の家。16人が宿泊するには小さすぎることがわかって急遽、エントレ・リオスの村中にある先生の1人の知り合いの家に宿泊することになりました。この時にはすでに夜中12時を回っていました。このアバウトさは、やっぱりボリビア?そしてなんとかなってしまうのもボリビアらしいかもしれません。

翌日朝早くミクロに乗り込んで田舎の家(用務員さんのおばあさんの家でした)へ行きました。まず初めにしたのが昼食準備。その家ではちょうどピーナッツの収穫が行われていて、少しお手伝い。そして収穫したばかりのピーナッツを使ってSopa de Mani(ピーナッツスープ)とサラダを作りました。ボリビアの人達はほとんどまな板を使いません。みんなトマトやじゃがいもを手で持ちながら上手に切っていきます。田舎の家にはミキサーなどないから今でも昔ながらの方法で石をつかってピーナッツをつぶしていきます。家の外では男性陣がParillada(バーベキュー)の準備。火をおこし、牛肉や鶏肉がどーんと並べられていきます。このバーベキュー、ボリビアに来たころはあまりの肉の量に目を見張ったものだけれど、今はもう慣れたもの。この人数でこの量は少ないのではと心配したくらい。(ちゃんと大2弾がありました。)

そして昼食準備が一段落した頃、この旅のメインであるところの静修の時間がもたれました。宗教担当のNeli(ネリ―)が机の上に聖書を開き、ろうそくをともします。聖書の一ヶ所やネリ―の用意した短い話を読み、それについて感じたことを各々が述べていく、そんな形ですすみました。「70歳まで生きるワシは40歳になると体が衰え、飛べなくなり、食べ物を捕ることができなくなる。このまま死ぬか、150日間の痛みを伴うプロセスを経て新生するか、選ばなければならない。新生することを選んだ場合、飛ぶ必要のない高い山へ行く。そこで嘴を岩に打ち付けておとし、新しい嘴が生えてくるのを待つ。次にその嘴で爪をすべて引き抜き、新しい爪が生えてくるのを待ち、さらに以前の羽を全て抜く。5ヶ月後に羽が全て生えそろうと次の30年を生きぬくことができる。」

La renovacion del Águila
El águila es el ave de mayor longevidad de la especie. Llega a vivir 70 años, pero para llegar a esa edad, deberá tomar una seria decisión.  A los 40 años, sus uñas están apretadas y flexibles, sin conseguir tomar las presas de las cuales se alimenta.  Su pico, largo y puntiagudo se curva, apuntado contra su pecho.  Sus alas están envejecidas y pesadas y sus plumas, gruesas.  Volar se hace tan dificil...  Entonces el águila tiene solamente dos opciones: morir o enfrentar un doloroso proceso de renovación, que dura 150 dias.  Este proceso consiste en volar a lo alto de una montaña y quedarse allí en un nido cercano a un paredón, en donde no tenga necesidad de volar.  Después de encontrar ese lugar, el águila comienza a golpear su pico en la pared, hasta conseguir arrancárselo.  Después de arrancarlo, debe esperar el crecimiento de uno nuevo, con el que desprenderá una a una sus uñas.  Cuando las nuevas uñas comienzan a nacer, empezará a desprender, sus plumas viejas.  Después de cinco meses, sale para el famoso vuelo de renovación y para vivir los siguiente 30 años.  Es tiempo de cambiar!... Comienza tu!

1時間ほどの静修。2泊2日の小旅行の中で占めている時間は決して長くはないけれど、こういう時間を学校の先生たちがもつのはとても大事なことだと思いました。もちろん、全員が参加しているわけではなく、またカトリックという特定の宗教のもとで持たれた時間ではあるけれども、飲んで踊って共有する時間とはまた違う時間です。

そして当然ながら!?出来あがったスープ(おいしかった!!)とサラダ、肉をたくさん食べた後は、踊ります!ボリビアにきて印象的なのはどんな質素な村の祭りでも、個人の家で行われるパーティーでもでっかい音響装置が準備され、音楽が大音量で鳴り響くこと。この日は午後中、そしてエントレ・リオスの宿泊先に戻った後も踊りがつづいたのでした。寝る頃には足が筋肉痛><。さて、宿泊先は普通の家。当然16人もの先生が寝る場所があるはずもなく、男性陣は庭にテントをはり、女性陣は玄関近くの8畳ほどの部屋に寝袋をひいてごろ寝です。この夜は女性陣だけの部屋で、とはいっても踊りにつれだそうと、男性陣やらその友人やらがうろうろ出入りしていたけれど、寝袋に潜り込んで小さなゲームをしました。といっても単純、順番に真ん中においたペットボトルをまわし矛先がむいた人にボトルをまわした人が一個質問をし、当てられた人は正直に答えなければいけないというものです。質問は恋愛ネタが中心。「付き合っている人はいるか」、「恋人のどこが好きか」、「愛人はいるか」。ボリビアはシングルマザーも多いから子供の父親は誰、結婚する気はあるのか、下ネタも好きだから結構きわどい話もでてきて盛り上がりました。言葉遊びも多くて全て理解できたわけではないけど、なんとなく雰囲気です。

最終日はみんなで復活祭前の特別なミサに出かけ、そのあと再び田舎の家へいって昼食の準備。川に泳ぎに行きたい人はいってらっしゃいの言葉に数人で出かけました。水着の用意をしてきていたのは1人だけだったから、初めは足だけのつもりが、1人がこけて水につかり、別の人をひっぱりこんでと、結局服のまま泳いでびしょぬれになりました。カンカンの日差し。群れて泳ぐ小さな魚。水を飲みにくる牛たち。きれいに澄んだ川の水。チャカレラやクエッカで歌われるチャコ地方らしい風景。


こうして3月が過ぎ、何気ないタリハの日々が愛おしく思えて、少しでもゆっくり時間が進むのを願いながら、4月を過ごしています。



2012/03/30

村のカーニバルと水かけ合戦!



オルロの華麗で壮大、人がたくさんで賑やかなカーニバルから一転、首都スクレから2時間。向かった小さな村モジェブンクは青い空と緑の丘に囲まれたひっそりとした村だった。

9人乗りミクロ、何人乗ってる?
迎えてくれたレイナは15歳の男の子を筆頭に5人の子供のお母さん。それでも私より若い。
ぎゅうぎゅう詰めのミクロに乗って到着した私たちに窯からパンをだして手渡した。
「焼き立てよ。」
炒めた玉ねぎの入った、暖かいパンは土の匂いがした。
素朴な味がしておいしかった。




村の出入り口、丘の一本道を見つめてレイナが言った。
「踊り子たちがついたわ。」
食事の後、子供達はせっせと水風船を作り始めた。カーニバルはまだ続行中だった。あんまり水を入れ過ぎず、小さく作るといいらしい。正確に投げられるし、あたると痛いから。
カーニバルの会場へ行こうと誘われる。
レイナの服を借りて、チョリ―タさんの格好をさせてもらう。
たくさんのヒダヒダがあるひざ丈スカート。
赤毛のアンのような三つ編みを結って。


村の学校の運動場にやぐらが組まれていた。
トウモロコシやソーダのボトル、ビールなどがつりさげられている。
てっぺんにはまるごとのヤギ肉。
水鉄砲をもった子供達がいっぱい。
櫓のまわりで踊る人達へ遠慮なく水風船がぶつけられる。
先ほど着いた踊り子さんたち。
これは職業なのかな。
そして始まった水かけ合戦。
レイナ家の子供と私たちVS村の子供と若者たち
大喜びで水風船を投げては逃げてくるレイナ。逞しいお母さん!
いくらチョリ―タさんの格好をしても、白くてひらべったい顔は目立つ。
油断するとびしゃっとぶつけられる。
どうぞとすすめられたおいしいスープを食べていたら、
ひゃっ!背中に水をいれられた。

よくわからないピンク色のお酒をふるまわれる。
チチャ?アルコール水?
全部飲まなきゃだめ、一気、一気とはやされるけど・・・
下戸の私にはとてもとても。
半分以上を大地の女神パチャママにささげて、なんとか盃をかえす。
標高3300m。移り変わりやすい山あいの天気。
小雨はやがてしとしとした雨に変わってぐんと気温が下がってくる。
体が冷えてきた。
一応戦闘態勢できたけれど、山の子供達には勝てない!
友人ともども1時間ほどで退散。
おかげでヤギの肉は食べ損ねた。

まだまだ続く宴にレイナの旦那さんとお目付け役の長男を残して、
夜、レイナと子供達と夕食づくり。
昼間作った白ご飯を作ってチャーハンにした。
はにかみのとれた子供達が風船を使って工作。
得意げに見せてくるそれを使って遊んだ。
その後、お買い物タイム。
レイナ、お父さん、従姉妹などなど一族の作った織物がベットに並べられた。
京都の寒い冬に床にひこうと深いオレンジに虹色のストライプのはいった大きなポンチョ
天然の染料でだした渋い赤色に細長く幾何学模様のはいったテーブルクロス
物語の織り込まれたタラブコ織は壁掛け用に
派手な縞模様のカバン、ハルカ織の小物入れ・・・
目移りしながら選んだ素敵な手作りの品々。
選ぶ私たちを静かに見守るレイナと子供たち。

翌日、村に着いた時と同じように空はきれいに晴れあがった。
レイナが木の棒やら糸やらを持ち出して何やら準備を始めた。そう、そもそもこの村にきたのは彼女に織物を習うため。この辺りならできると言われた小物の中から選んだつもりだけど、私が選んだベルトの柄は結構むずかしいものだったらしい。レイナは呼んできたお母さんと私そっちのけであれやこれや言いながらやり方を検討中。
その横でまちぼうけ。
通り過ぎるヤギを数え、
トウモロコシ畑で草を刈る男の子達に手を振り返し、
レイナに手ほどきをうけ、娘のリサンドラを先生として着々と織り進める友人を眺めながら。







織物体験中、昨日やってきた踊り子たちが再度やってきた。
村の家々をまわる。托鉢みたいなもの?
宗教と関わりはあるのかな?
レイナに誘われて私たちもそんな家の一つを訪れた。水をかけられ、風船をぶつけられる踊り子たち。前の日と同じ。笑っている人もいるけど、怒る人も嫌がる人もいる。そりゃそうだ。
これはなんなんだろう??

帰ってからスクレ出身の同僚に聞いてみた。
そしたらこのような小さな村の伝統だという。
この時期に若者たちはグループを作って村々を回り、
チャランゴやサンポーニャに合わせて踊る。ほとんどが学生だ。
いわば、カーニバルの景気づけ役。
確かにレイナ達も踊り子たちがやってきたと嬉しそうだった。
招いた村や家が旅の費用をもち、食事をふるまう。
若者が旅をする一つの方法だよと同僚は言った。

村の暮らし。
一言でいえば貧しい。
日干しレンガを積み上げて、漆喰を塗っただけの家。
屋根にはブルーシートがかぶせられ、その上に焼瓦を並べている。
仲間と卵どんを作った台所の床は土だ。
食堂は青空の下。
家族が住まうのは2部屋。大きな古いベットでみんな毛布にくるまって眠る。犬も、蚤もダニも一緒。
子供たちが来ている服には泥がこびりつき、穴があいている。


衛生的にも、教育面でも、プリミティブ。
それなのに、豊かさを感じるのはなんでだろう。
働き者のレイナ。そのお母さんをせっせと手伝う長女リサンドラを筆頭とした子供達。
小さい子もできることは自分でする。手の込んだおもちゃなんてないけど、色々工夫して遊ぶ。
もう一人前の男として扱われているのだろう長男は大人の宴にも参加する。
手の込んだ織物は一族で作る。
売るのも子供達が手伝う。
一所懸命に生きている。



お父さん製作中の大作
実際に織ることはなかったけど、織物を織るのがどれだけ大変な作業かがよくわかった。座ってみてるだけで背中が痛くなったもの。
それを見てしまっては値切ろうとしていた自分が恥ずかしくなる。お金なんかで、あがなっていいのかと思う。負けてもらって嬉しがっている自分。
せめて、正当な労働に正当な報酬を返したい。
では、正当な報酬とはなんだろう?
日本とボリビアでは貨幣の価値が違うから尚更ややこしい。彼らの仕事の価値を、どれだけ尊んでいるかを形にして表したい。その一つの方法として、「お金」を払うことがある。お金ってなんだろう。
それで計れるものはなんだろう。
今でもよくわからない。

日本語を話す私たちの会話にレイナが時々ナイスなタイミングではいりこんでくる。
まるで全て聞きとれているかのように。
彼らの第一母語であるケチュア語は日本語と似ているというから、そのせいだろうか。
でもきっとそれだけじゃない。
声の大きさ、調子、顔の表情。私たちの間に流れる雰囲気。
そんなものから、彼女はくみ取っているのだ。
私たちの疑問、不安、喜びと笑い。
それにきちんと反応してくる。

気持ちのやりとりがある。
ここへ私たちをつれてきてくれ、早朝スクレへ戻った同期とレイナの長きにわたる友情。レイナの子供達と屈託なく水風船作りをし、一緒にビデオを見、髪に編み込みをしてあげて、遊んだ同期たち。
今の社会、お金なくして語れない。
それでも、お金を介した人間関係の中にも確実にそれだけでは計れないものが存在する。
Confianza。
信頼とでも呼ぶべきもの。
損得だけじゃない。
たとえどんな利害関係の中にあったとしても、そんな相互の心のつながりに、以心伝心ぶりに、気づいて、認めて、大事にしたいと思った。


2012/03/20

オルロのカーニバル


「僕はね、自分の分身がほしいと思うことがあるよ。」

日本に5年住んで、数年前にタリハに戻ってきた友人家族の息子ルイス君10歳のかわいい言葉です。「1人はここタリハに住んでいて、もう1人は日本にいるんだ。で、僕はその二つを行ったり来たりする。もう一人増やしてアメリカに住むのもいいな。」最後はアメリカンロック好きのルイスくんらしい言葉。ボリビアでの日々も後3ヶ月となって、軽く帰国ブルーにはいっている今日この頃。1月は行き、2月は逃げ、そして3月は去りつつあり・・・。なかなか追いつけないけれど一瞬一瞬のかけがえのない時間を少しでも言葉にして残していきたいと思います。

まずは逃げて行った2月のメインイベント。やっぱりカーニバル。昨年はタリハで過ごしたこの休暇中、今年は南米三大祭りと言われ、UNESCOの無形文化遺産にも登録されているオルロのカーニバルへ出かけました。オルロに住む仲間のアレンジでコリマッタスというグループに他の仲間とともに混ぜてもらって踊ることになったのです。練習のため前日お昼時にオルロに到着。名物チャルケカン(干して揚げて割いたリャマ肉にチーズ、茹でたじゃがいも、茹で卵とでっかいトウモロコシのようなモテを添えたもの)を食べ、お世話してくれるコリマッタスの伯父さんとともにメルカドへ出かけます。サンダルや帽子、それにつける羽やら組みひもやらの飾りを買いにいくのです。そして夕方ちょこっと練習、大地の女神パチャママに捧げる儀式に参加、夜は遅くまで買ったサンダルにせっせと毛糸をまきつける作業をしました。足が痛まないように。 

 





翌日2月18日、本番。標高3700mのかつての鉱山の町。いつもどんよりと憂い顔だけれど、カーニバルのときは一変。ボリビア中から踊りのチームが集まり、朝早くからありとあらゆるボリビアのフォルクローレを踊りまくります。カーニバルで踊るためには厳しい審査を通り抜けなければならないこともあって、踊りはもちろん衣装にも気合をいれて参加します。コリマッタスは1980年代から参加を始めた総勢200名のグループ(それでも小さいほうだそう)。私たちはこの一員としてだからカーニバルに参加させてもらえるのです。2時ころに踊り始めるはずが相変わらずのボリビア時間、エントラーダ(入口)に入ったのは夕方4時。ここから2時間あまりノンストップ。休んだりなんかしたらそこ踊れ~って言われたりもするから、踊り続けないといけないよと警告されていたからちょっとドキドキ。幸いぎらぎらした太陽がかげって快適に。



いざ入場。踊り始めたら沿道からの応援がすごい。踊りはサンポニャーダといって斜めにとッとっと、反対方向とっとっと、笛の合図でくるくるというたいそうシンプルなもの。ステップの数も多くありません。もちろん、全員が揃って踊るためにはある程度の練習が必要なのですが、そのあたりは日本人ということでご愛嬌。とっとっとーと観客席に近づくと大喜びしてくれるのでとにかく笑顔を振りまきます。ときにはビールをふるまわれ、ときに写真を一緒にとってくれとせがまれながら、徐々に沿道をすすみます。と、「大統領!」と誰かの声。見ると人の少ない観客席にエボ・モラレス大統領がいました。そしてなんと私たちの呼びかけにこたえて、沿道へおりてきました。一時大統領と手をつないで輪になって踊って、ちょっとミーハーな気分を味わいました^^。タリハに戻ってから、テレビに映ってたわよ~と学校の先生達に言われました。この時のものかな?




道はやがて上り坂となり、遥か上に目的地ソカボン教会がみえます。もうひと踏ん張り。教会前で最後のアピールをして、終了です。踊り終わった踊り子はみな教会の中へ。膝をついたままで祭壇まで進み、神父の祝福をうけ、聖母子に無事踊り終えた感謝の気持ちとこれからの息災をお願いして終了です。もっともカーニバル自体は火曜日まで続き、日曜日はほぼ全グループ、月・火曜日も特定のグループは踊りをつづけます。私たち日本人総勢7人はこれであがり。教会を出た後はのんびり夕食をとってから、夜まで続く踊りを見に出かけました。沿道周りに隙間なく並べられた観客席によじのぼってティンクやカポラレ、モレナダ、スリ・イ・シクリなどボリビアのフォークローレの数々を見物。華やかでカッコよくて、そしてボリビアの土着の神とキリスト教の融合を感じて、来てよかったなと思いました。

さて、ボリビアのカーニバルにつきものなのが水かけ。普通に歩いていても、通りすがりの車から、獲物を求める子供たちから、水鉄砲で攻撃されたり、水風船を投げられたりするからなかなか油断できません。オルロで踊った翌日は首都スクレへ向かいました。乗り継ぎで空港だけしか知らないコチャバンバ経由で行きたいと我がままを言ったら、これが大失敗・・・。夕方のバスの時間まで有名な巨大キリスト像に行ったまではよかったのだけど、スクレ行きのバスは一杯で近くの町ポトシへ行かないとダメなことになり、カーニバル中の日曜日の午後、店は全て閉まっている上、酔っ払いの車から泡スプレーをかけられるわ、水風船をぶつけられるわ、 その上雨までザアザア降ってくる・・・。腹は立つし、寒いし><


とはいえ、バスターミナルで名物シルパンチョを食べる頃にはすっかり機嫌はなおって、同期のあきちゃんとあまりの弱り目祟り目に笑いまででてしまったほど。あきちゃんの持っていた、おうちの人が送ってくれたというアンアンの占い特集をみながらバス出発まで楽しい時間を過ごしたのでした。そしてこの後の楽しみはボリビア初体験、噂の3列シート、超豪華なbuscama(寝台バス?)です。私がよく利用するタリハ発のバスになぜかこのブスカマ(カタカナで書くと違うものみたい)はありません。普通のちょっと座席が倒れるだけのバス。一度だけsemicama(セミカマ、ノーマルとブスカマの間)に乗ったことがあるだけと言ったらあきちゃんがぜひブスカマに乗ってほしいと言ってくれたのです。びっくりしたことにコチャからでるバスのほとんどにセミカマやブスカマあり。コチャバンバーポトシ間はせいぜい11時間程度。タリハーラパス、タリハーサンタクルス・・・どれも18時間はかかるのですけど。でも快適すぎてか11時間の旅の間あまり眠れませんでした。未舗装のゴンゴン揺れが響くノーマルのバスでないとダメな体になってしまったのか。20日朝7時到着。ポトシからスクレ行き乗合タクシーに乗り込みました。カーニバル休暇後半戦・・・





2012/02/24

活動20ヶ月目!


2月半ば、学校へ打ち合わせに行き始めました。夏休みが明けて2ヶ月ぶり。学校の先生たちも「どうしてたの!?」と歓迎してくれて、ちょっと嬉しい訪問です。ボリビアの新学期は2月から始まります。毎年この時期にInscripciónといって 生徒と保護者が行きたい学校へ行って登録をする仕組みです。もちろん各学校定員があるからそうコロコロ変わるわけにもいかないし、毎年の登録は大変ではありますが、1年通った学校が子供に合わなければ比較的簡単に別の学校へ変わることができます。この時期まだ休暇から戻ってきてない生徒も多くて、学校はすかすか。25人の生徒中18人しかいないなんてクラスもあります。

U.E Teresa de Calcuta(テレサ・デ・カルクタ校)へは昨年なかなか全体で動けず、一緒に働いた先生はもう嫌になっていないかなーと多少心配しながら行ったのだけど、担当のクリスティーナ先生は新たに協力してくれる先生も見つけ、保護者のなかにもリサイクル業者を営んでいる人がいるし、高等部とも連携したいと色々とプランをもっていていい始まりになりました。実はここの高等部(午前の部)では以前紹介した、生徒と野菜作りを行って素敵なフェリアを開いた先生も教えていて、来年(今年)はコラボしようと話していたのです。先生達同志で話が通じているなら尚更理想的!

U.E La Salle(サジェ校)は先生、生徒向けのワークショップを終えたところで夏休みに入りました。ここは公立ながら、伝統のある学校で保護者、生徒ともに教育に熱心。とても人気があって1年生の保護者のなかには登録をするために徹夜で学校の前に並んだ人もいるほどです。生徒も全員そろっています。ここでまず昨年あまりできなかった生徒を中心にした取り組みをしたいと考えています。提案してみると校長先生も、委員会の先生たちも前向き。もう少し計画を練るためにある日の午前中に担当の先生4人が私のオフィスに集まってきました。まず手始めに5・6年生が分別の仕方と注意点を書いた壁新聞を作り、下級生のクラスをまわって説明し、壁に貼っていく、そして同じく5・6年生の有志で環境委員会を作り、分別の管理と評価も行っていくことになりました。この環境委員会が自主的に動けるようになれたら!そう簡単にはいかないけれど、初めの一歩。うまく軌道にのりますように。
 
そして嬉しい驚きは、昼休憩も近い時間にひょっこりDurvyn(ドゥルビィン)が訪ねてきたこと。ベネズエラ留学の日程が未だにはっきりせず、情報もないということでとりあえず今まで働いていたU.E. Humberto Portocarrero 2(ウンベルト・ポルトカレロ校)に戻ってきたそうです。ウンベルト高校は彼女の協力でリサイクルのシステム作りからコンポスト・紙すきまでやりたかったことがだいたいでき、最後に環境フェリアをし、卒業式にも出席して気持ちよく終わることができた学校です。先生たちの遠足にも参加させてもらって、サマの山の麓でParillada(バーベキュー)をしに行きました。今学期はChaco(チャコ)のほうへ行く企画が出ているそうで、これも楽しみです。みんな来るのを待っているよと嬉しい言葉。実際、数日後に出かけると、去年の担当の先生たちはプロジェクトを続けようとやる気。昨年は初めての試みであまり成果があがったとはいえないから、今年はもっとよくしたい、そのためには評価の仕組みをしっかり作らないといけない、コンポストを使い畑作りを全校生徒でするために学校脇の土地を使えるよう市に要請しよう等々これも色々な案がでて、説得力のある要請書を書くために、カーニバル後私の職場で集まろうということになりました。

コンパドレの日
2月当初は登録、そしてカーニバルで何もできないだろうと覚悟はしていたけれど、ずっとオフィスに詰めているとちょっとくさくさするところもあって こんな風に学校に行けるのは楽しいことです。今年のカーニバルは去年よりずっと早まって18日から21日まで。そのおかげで、その2週間前の木曜日にCompadre(コンパドレ)、翌週にComadre(コンマドレ)、そしてカーニバルの翌週にEntrada Folclórica(エントラーダ・フォルクロリコ)と主だったお祭りが2月に終わります。「おかげで」というのはお祭り期間中ほとんど仕事にならないから。去年はカーニバルがもっと遅くて3月一杯ほとんど何もできなかったのです。葡萄の町Valle de Concepción(バジェ・デ・コンセプシオン)のお祭りは3月最初の1週間。これは少し離れた村で行われるからタリハ市内の学校にあまり影響はありません。
 
職場でタリハ料理サイセをみんなでCompartir!

コンマドレ用のパンを焼く
マリア・リリアとコンマドレに

12月から1月にかけてほぼ2カ月あった夏休み。(まだ書ききれていないけれど)サンタクルス内をピンポン玉のように動いて、自然に根ざした暮らしをしながら滞在者を受け入れる家族やイタリア人が営む芸術に重点をおいたフリースクール、日系移住地の大きな農家などを訪れました。1月末にはイグアスの滝を中心にパラグアイ、アルゼンチン、ブラジルを巡る短いけど盛りだくさんの旅もしました。
 

そんなこんなで1月タリハにいたのは1週間(出かけ過ぎ!?)。この間10月末に行った4日間の教員向けワークショップを再度行いました。40人以上登録があるけど大丈夫かとわざわざUNEFCOの職員が電話をくれたけれど、蓋をあけてみれば前回と同じく25人。ちょうどいい人数で始められました。環境に関するプロジェクトに興味のある校長先生やベテランの先生に混ざって、少しでも資格のほしい若い先生達がやってきます。

ワークショップで大切にしたいのは「何について考えるかではなく、どのように考えるか」。自分なりのテーマです。本やインターネットを見れば基本的なデータは得られる時代。そのデータを基にどのように考えるのかは、こうしさえすればいいという1つの答えなどない環境問題に取り組むには何より大事です。考えることを中心に据えたアクティビティをいくつか体験してもらい、自分たちで学校内の研修や教室で実際に使えるようにしました。紹介するアクティビティは本で見つけたものの他、同じく環境問題に携わる友人に教えてもらったり、彼らが実際に行っている現場を見学させてもらったりしたものです。学校現場ということもあり、授業案もしくはプロジェクト案を作るのに必要な年間計画、月間計画の立て方、学習指導案や教員同士の協力体制の作り方なども伝えてきました。こうして書いていると大層格好よく聞こえることに自分でもびっくりだけど、実は結構グダグダだったりします。特に今回は2回めということもあって逆に気がぬけたところもあって、これは猛省。慣れとは怖い。そして最大の問題点はやっぱり言葉・・・。


加えてもう一度考えなければいけないのはテーマのこと。「どのように考えるか」を教えることは言葉でいったら簡単だけど、壮大なテーマ。生徒に「どのように考えるか」を伝えるためには先生が「どのように考えるか」を考えていなければならず、しいては先生達にその大切さを説く私自身が、ということになるわけで・・・。私にとって、とても厳しい問いかけです。「教育は生徒に知識を植え付けるものではなく、教師と生徒の対話を通した学びに基づくものでなければならない」と言ったのはブラジルの教育学者パウロ・フレイレ。絶対的に正しい知識を持った教師(植民者)とそれを教えられるべき“未開”の生徒(被植民者)という従来の教師―生徒関係を批判し、多文化教育や先住民教育をはじめ教育全般に大きな影響を与えて、繰り返し引用されてきた言葉です。脱植民地主義を掲げるエボ政権の新しい教育法では1つの柱(言葉だけが独り歩きしている感はあるけれど)となっています。理想と現実のはざまで頭から消し去っていた言葉に思わぬところで再会です。教えることと学ぶこと。対極にありそうでいて、実は重なり合っているこの2つ。3月に行う次回のワークショップに向けて頭が許す限り考えをまとめたいと思います。