2011/03/28

アルゼンチンの日々と夏の終わり




 雨が降って、今朝は一気に気温がさがった。半袖では肌寒い。春分(秋分?)の日も過ぎた。これから日が短くなるのだ。パタゴニアはもう秋だった。季節は南からのぼってくる。

 カラファテで2泊した後、バルデス半島(Península Valdés)に向かった。夜に出発するバスがなく、スケジュールとしてはロスの多い移動となった。昼の2時、到着したバルデス半島の玄関口、プエルトマドリン(Puerto Madryn)は新しいリゾート地。町並みは整然として道も広い。着いた日は海岸を1時間ほど歩いて博物館へでかけた。灯台ふうにしつらえた塔のある素朴な博物館ではバルデス半島で見られる様々な動物を体感できるようになっていた。博物館にあるカフェで海を眺めながらサンドイッチを食べていると、北の人だなどと思ったことを忘れてしまう。強い潮の匂い。心地よい風。刻々と色合いを変える空と海。熱心に写真を撮る弟と海岸を歩きながら、せっせと貝殻を拾った。海のないボリビアの人たちへのお土産に。プエルトマドリンはカラファテに比べると物価も安く、何より海のものがおいしい。セビッチェ(魚介類のマリネ)や魚介類をふんだんに使ったスープやパスタをたくさん食べた。くどいけれど、海のないボリビアではまず食べれない。貝を食べたのは何ヶ月ぶりだろう!

 

グワナコ
 バルデス半島自然保護区は世界遺産に登録されている動物の宝庫だ。保護区をめぐるツアーに参加してペンギンやゾウアザラシの繁殖地をまわった。ここでしか見ることができないといわれる、シャチが波にのって陸にいるアザラシを襲う光景は本当に偶然のたまもののよう。椅子に座って本を読みながら長期戦に備える人々をみた。3月。シャチが見られるぎりぎりの時期。偶然はおきなかった。気持ちよさそうに横になるアザラシ。シャチとの攻防戦も見てみたかったけれど、平和な光景もいい。バルデス半島内唯一の人が住んでよい町、プンタ・ピラミデ(Punta Pramide)では5月から12月、子育てをするクジラを見ることができる。これを目当てに大勢の人々が集まるそうだ。博物館で聞いたクジラの歌は穏やかでいつまでも聞いていたいようだった。いつかまた来て、親子でゆっくり泳ぐクジラを見れるだろうか。

 プンタトンボ(Punta Tombo)のペンギンコロニーでは子育てを終えたペンギンの最後のグループが遊んでいる。巣は海からかなりの距離のところにもたくさん。ペンギンがちょこちょこ歩く横でグワナコが草を食んでいたりする。あの歩きでよくここまでこれたものだ。触ることは禁じられているけれど、人を怖がらず愛嬌をふりまくペンギンはすぐそばまでよってくる。今年生まれた子たちにはまだ柔らかい和毛が残っていた。 これが全て大人の毛に生え変わったら、みなブラジルへと旅立つのだろう。








 ペンギン繁殖地の近くにガイマン(Gyman)という町がある。故郷の風景に似ているからと19世紀にウエールズ人が入植して以来、人々は当時の伝統を守って暮らしている。遠く離れるほど故郷を大切にする気持ちがわく。日系移住地オキナワやサンファンのように。ガイマンの町並みもかつてのウエールズ地方の町を彷彿とさせるものがあるにちがいない。趣のある家でアフターヌーンティーをいただいた。この日は弟の誕生日でもあった。子供の頃の思い出話に花が咲いた。弟から息子への思いを聞くと、不思議な気持ちになる。もう一人前の大人なのだと。口にしたら当たり前だろと言われるだろうけれど、こうして昔の話をしていると時がたったのだと、泣きたいような気持になった。


 19日土曜日の朝、プエルトマドリンから1時間、トレレウにある空港からブエノスアイレスへ。ここから弟はベルギーへ、私はサルタ経由でタリハへ戻る。飛行機が2時間遅れで飛んで、ブエノスアイレスに着いた時には12時をまわっていた。弟の飛行機は夜11時近く、私のは8時半出発。7時に市内を出たら十分間に合う。町を散策しようと空港からタクシーに乗った。ブエノスアイレスが初めてだと知ると、タクシーの運転手がはりきって観光案内をしてくれる。目的地は芸術家の集まるボカ地区のカミニ―ト。昼間からタンゴが見れるという。石畳の細い通りには緑、赤、オレンジ、黄色・・・色鮮やかな壁の建物。それに負けず華やかな色遣いの絵や土産物を並べた横に、踊り手がいるカフェがいくつかあって、あらゆる言語で盛大に呼び込みをしている。

 すると聞きなれた音楽が耳に入ってきた。チャカレラ(Chakarera)!タンゴだけではない、ガウチョ(牧童)から生まれたチャカレラもアルゼンチンの伝統的な踊りなのだ。両手を高くかかげ、スカートをひるがえして踊る踊り手。踊りはボリビアで目にするものよりゆっくりで微妙に違うけれど、音楽は同じだ。見ていると、体がムズムズする気がした。ここ2・3ヶ月踊りの教室にはいっていないから、体が動くとは思えないけれど、タンゴよりチャカレラに心を奪われている自分がおかしかった。舞台では再びタンゴが始まった。お兄さんが客をひっぱりあげている。あまり踊れないのよと身振りで伝えながらも、客はしっかりリードに合わせて踊っていた。ブエノスアイレスに来る人はタンゴを習っている人が多いのかもしれない。
 
 食事の後、カミニ―トからバスに乗ってモラセラート地区にある政治の中心地、5月広場に行った。赤い大統領府の建物や博物館のあるカビルドを眺めて寛ぐ。片方の靴をぬいで耳にあて、電話がわりにして歩く人が数名。あれは何かのおまじないだろうか?へんな町だ。ここから、京都でいえば新京極風のフロリダ通りを歩いて、世界一広いという7月9日大通りにあるオべリスコに行った。ブエノスアイレスは想像以上に大都会。統一感はあまりないけど、古い建物はどっしりと由緒ありげな雰囲気。その名の通り空気がさわやかで、劇場や映画館に人があふれている。芸術がさかんな町。大都会が苦手なうえに、それまでの旅行で疲れきっていた弟と私は十分に楽しむことができなかったけれど、エネルギーのあるときに来たらきっとおもしろかったに違いない。

何車線あるのだろう??
オべリスコを眺めつつとりとめのない話をしていると時間がきた。タクシーを捕まえ、弟を国際線が入るエセイサ空港へ送り出すと、一気にさみしくなった。ニューベリー空港へ乗せてもらったタクシーの運転手はウルグアイ出身。若いころはサンタクルス、ポトシ、タリハへも旅行したという。アルゼンチンで乗ったタクシーの運転手はみなおしゃべり好きだ。おかげで少し気持ちをもちなおせた。サルタへの飛行機ではジャーナルを書いて過ごす。

国境の橋
 行きと同じホステル、Siete Duendes(7人の小人)に泊る。12時近かったけれど、お帰りと迎えてくれた。翌朝、朝食をとってバスターミナルへ行った。国境近くの町アグアス・ブランカス(Aguas Blancas) へのバスはなく、近くの町オラン(Olan)へのバスは2時間後がでるという。再びジャーナルを開いて待つ。眠い。バスはゆったりと快適で過ごしやすかった。午後2時オラン着。幸いアグアス・ブランカスへのタクシーが最後の客を待っていたところで、乗り込むとすぐ出発。税関でアルゼンチ出国のスタンプを押してもらうと、再びタクシーに乗り、国境の橋まで連れて行ってもらう。ここでタクシーを降りて、オランから買い物にいくという家族と一緒に橋を渡った。ボリビア側国境の町ベルメホ(Bermejo)。無事帰ってきた・・・?

 バスターミナルへ行くなら一緒に乗ろうと誘われるまま、タクシーにのってターミナルへ。何かが頭にひっかかったけれど・・・。最初のバスが83ペソ、オランからのタクシーが12ペソ、そしてこれが3ペソ。ここからタリハに戻る乗合タクシーが40ボリビアーノス。合計すると来た時に乗ったタリハーサルタ間を結ぶバスDragon Rojo、250ボリビアーノスより少し安いくらいか。たまたまオランで待たずにすんだことがラッキーだったのか、時間的にもそれほど変わらない。行きはボリビア側税関が停電でボリビア人の出国手続きに手間がかかりバスの出発が遅くなったから、むしろ時間的には帰りのほうが早いくらいだ。

 タクシーが一杯になるのを待ちながらそんなことを考えていると、ふと思いいたる。アルゼンチンで税関を通った、けれどあくまでスタンプは1つしか押してもらっていない・・・ボリビアに入国しただろうか?行きに税関で入国カードを渡してしまっている。それはどうなる?あわててパスポートをみた。6月23日ボリビアに来た日付のスタンプ、3月12日出国、同じ日付でアルゼンチン入国、そして今日のアルゼンチン出国のスタンプはあるけれど、ボリビア入国のスタンプがない!やばい、やばい。不法滞在者になる!?あわててタクシーのおじさんに税関で止まってくれるように交渉。タリハへの道筋にあるが幸いだった。税関に駆け込むと、それはいけないなあと税関のおじさんがのんびりと対応。ほう、2年のビザを持ってるのか、すごいなあ。日本か、家族は大丈夫だったか、原発はどうなっているなどと聞いてくる。ビザに感心しておきながら、今日から90日間滞在できるよなどというから、再度ビザをみせる。ああ、そうだった・・・ボリビアでは何をしているんだい?ああ、JICAか、とあっさりスタンプをおしてくれた。やれやれ。急いでタクシーに戻る。時間にあまりこだわらないボリビア人は誰もイライラした様子をみせていない。時間通りに何かをすることはあまりない代わりに、この辺の鷹揚さにボリビアの人たちの余裕を感じる。タクシーで4時間。無事タリハ着。



 大切な人たちが次々とタリハを去ったこと、人を信じる自分の目に疑いを抱いたこと、地震と原発のニュース、旅・・・色々な思いが一気に体にでた。微熱が続き、お腹を壊した。それでも、今ここボリビアで自分ができることに専念することで、少しずつ気持ちが落ち着いてきている。お腹はまだうけつけてくれないけれど、食欲はある。アルゼンチンでの日々は単に楽しかったと屈託なくいえるものではなかった。常にこんなことをしていていいのかという気持ちとのせめぎあい。それでも、これほど人の暖かい一言が身にしみ、生かされていることを実感したことはなかった。自然の美しさと家族の大切さを思った。


1人の歌手の言葉が心をうった。「日本は今までたくさんの国を助けてきた。今は私たちが日本を助ける番だ。」と。日本は日本一国では立ち直れない。人が人1人で回復できないように。様々な言葉が、行いがその回復を助けるように。日本を支えようとする各国のエネルギーがかつて海外でその国のために働いてきた日本人の努力の結果だとすれば、今自分が遠く離れたこの国でやろうとしていることが、どれだけ小さなものであってもいつか巡って日本に帰るのだと信じられる気がする。風や波が地球を巡るように、陽のエネルギーが世界を巡るなら、今を懸命に生きることに意味があると言えるだろう。




2011/03/27

南パタゴニアからバルデス半島を巡る~




 今回のアルゼンチンの旅は弟からきたメールから始まった。3月にアルゼンチンにいく、よければ一緒にまわらないかというもの。ベルギーに住む弟はヨーロッパからなら比較的近い南アメリカに今のうち出かけたいと考えたようだ。この2年間のうちにいつかはいこうと思っていたアルゼンチン。少し時期尚早な気はしたけれど、カーニバルで学校もまだ落ち着かず、家庭をもっている弟と二人きりの旅はこれが最初で最後になるだろうと思って心を決めた。タリハから陸路で9時間あまりかけてアルゼンチン北部の都市サルタへ行き、そこで一泊して翌日ブエノスアイレスへ飛行機で飛び、弟と合流し、約一週間かけてパタゴニアをまわるという計画。大学生から家をでていて、大人になってからそれほど長く話したことはない弟との旅は楽しみなような、ちょっと怖いような気持ちだった。その矢先の地震のニュース。すでに弟はアルゼンチン入りしている。何かしたい、でも何もできない、それでも悠長に旅行などしていていいのだろうか・・・旅の始まりから何かが心につかえていた。


アルゼンチン側税関
 朝4時中央広場(Plaza Principal)集合。初めての国境越え、行きはタリハーサルタ間を結ぶバスDragon Rojo(赤い龍)を予約した。250Bs。バスとはいっても大きめのバンといったところ。7人つめこまれてあまり乗り心地はよくない。国境ベルメホ(Bermejo)まで3時間。ここまでは順調。ところが税関のシステムがダウンしていて、ボリビア人が出国できない。アルゼンチン人を含めた外国人は問題ないが、しばらく待つはめになる。そこは全員で行動しなければならない直行バスのつらいところ。国境の川は橋を歩いても、船でも渡れるが、この日は船がお休み。週末を互いの国で過ごそうと住む人々で税関はごったがえしていた。 結局13時には着くはずが、17時近くなってようやくサルタ到着。

 
地震の神を祀るカテドラル
 サルタはタリハを少し大きくした感じ。町を歩くとタリハはアルゼンチンの影響を強く受けているの言葉にうなずける。似ている。サルタに着くまでの道中の景色もタリハ近辺とほとんど変わらなかった。ただし中心街の賑わいはタリハの比ではない。おしゃれなブティックや電気屋が並ぶ。ちょうどセールの時期らしく、店には”Oferta” “Luquidacion”の札がかかり、大きな袋を提げた老若男女が歩いている。タリハの少し裕福な人々がサルタへ都会気分を味わいにくる気持ちがよくわかる。プラザ(Plaza Centralにある教会に立ち寄った後、カフェでサルテーニャ(多分ここが発祥の地)とオレンジジュースを頼み、道行く人を眺める。

夕方のミサ
 サルタに向かうバスの中、国境を超える税関、ホステル。日本人だと知ると、家族は大丈夫だったかと声をかけられた。大変な事態だけれど、日本はきっと乗り越えられるよと励ましてくれる。夜ホステルで一日の移動とインターネットにかじりついて得た情報で疲れ果てていると、同じ部屋のカナダ人が食事に誘ってくれた。ポーランドやオーストリアの旅行者も一緒に。サルタの、アルゼンチンの夜は長い。シエスタの後店が開き始めるのも5時くらい。ホステルを出た時点ですでに11時近かった。グループでわいわい話をしていると気がまぎれた。赤ワインとともに、やわらかいアルゼンチン牛のParillada(バーベキュー)をみなで分け合って食べた。アイスクリームを食べながらプラザを歩いて帰ると夜中の2時を回っている。翌朝9時の飛行機。6時には起きないといけないから、部屋に帰って飲もうという誘いは遠慮した。

 ホステルは相部屋、ネットができる環境で一泊US$10。パンとコーヒーの簡単な朝食がついている。朝、今日はバンジージャンプに行くというオーストラリア人カップルと一緒に朝食をとった。仕事をやめて南アメリカを旅しはじめて3ヶ月。オーストラリアは経済も好調、仕事に対して働き手が少ないから、帰ってから仕事を見つけるにもそう困らない。とてもラッキーなこと。色々あるけど旅は楽しいと笑っていた。”Have a nice trip" 、互いに言い合って別れた。サルタの空港から無事飛行機がとんで、時間通りにブエノスアイレス着。イグアスからやってくる弟の飛行機が遅れてやきもきさせられたものの、無事会えた時はほっとした。顔がまるくなって少し太ったよう(人のこといえないけれど)。元気そうだった。

 この日南パタゴニア(Patagonia)の玄関カラファテ(Calafate)の町へ飛んだ。町を少し散策後、翌日の予定を決める。すっかり疲れて、夕食はホテルでとった。次の日ぺリト・モレノ氷河(Perito Moreno Gracier)、ウプサラ氷河(Uppsala Gracier)、スぺガッツィー二氷河をまわるツアーに参加した。朝8時、湖岸から出発した船がノルテ水道(Norte)を進んで1時間あまり、様々な形の氷山が現れ出した。光の入り具合によってその青みがかった色を変えて美しい。タイタニックの映画を思い出した。風が冷たく、手袋をしていても指先が冷たい。氷山が多すぎてウプサラ氷河には近づけなかった。やがて船はロス・テンパネス水道(Los Tempanes)へ回って、ぺリト・モレノ氷河へ。小規模ながら氷河の崩落をみることができた。一瞬の出来事。湖に落ちた瞬間、もうもうと白い煙のように氷のかけらが広がる。こうして遠くから眺める氷河はあくまで美しいけれど、そこにあるのは生き物のいない厳しい世界だ

 


 カラファテはカナダの小さな町を思わせるかわいらしい町。物価もカナダなみで、ボリビアの生活水準で暮らす身には何をするにも財布と相談せざるを得なかったけれど、小さな町ながら久しぶりに洗練された都会を見た気がして心が浮き立った。(ちょっとボリビアに失礼^^)北の端と南の端。空気の冷たさ、雲の流れ具合、ポプラ並木と飾らない草花、近くの湖に遊ぶ水鳥、ひどく傾斜した三角の屋根。全てが懐かしい気持ちをよびおこす。コテージ型のホテルには暖炉があって、薪が火にくべられている。暖かい色のソファーにどっしりしたカーテン、丸太の感触。静かに談笑しながらワインをかたむける泊まり客。基本的に私は北(南?)の人だなと思う。南の島と北の湖なら、間違いなく北を選ぶ。自分の本質とあってしまうのだ。


 カラファテからさらに北のウシュアイア(Ushuaia)に行きたくなった。ウシュアイアは火の大地の意味のFuego de Tierraと呼ばれる島にある、アルゼンチン最南端の町。マゼランがその名を冠したマゼラン海峡を航海中、おそらく原住民の焚く火であろう明かりをみて、この名前をつけた。季節はちょうど秋、一番黄葉の美しい時期だという。電車世界の果て号や真横になびく木などロマンを感じさせる土地だ。今回はバルデス半島(Peninsula Valdes)をまわりたいという弟の希望で、カラファテで2泊した後プエルトマドリン(Puerto Madryn)に向かった。少し後ろ髪ひかれる思いもしたけど、そういう土地があってもいいのかも。

 丸一日24時間のバスの旅ということで、ブス・カマ(Bus Cama)、ほぼ180度に倒せる座席を使った。一番後ろの座席で古いエアコンのものすごい音にさらされ、飛行機の中にいるようだったけど、座席は快適でよく眠れた。道はアスファルト舗装されて揺れも少ない。バスから見る景色はウユニ湖からチリ国境へ向かうアンデス山脈の植生に似て、黄色い草がまばらに生える乾いた大地が延々と続く。標高は高くない。時々牧場や工場の敷地を囲む柵が現れるが、建物自体は見えたり、見えなかったり。いずれの場合もかなりの敷地を抱えている。電線が走っているところもあれば、ないところもある。南米に来てほぼ9ヶ月。この景色にも見慣れてきたけれど、ヨーロッパに住む弟には新鮮だったようで、なにもないなあとつぶやいていた。少しずつ気温が上がってきて、北へ、赤道へむかって上っている実感があった。

 旅から戻って一週間。父の命日が近い。ネットを通じて送った花が無事ついたようで、母からメールがきていた。買った店から注文した花の写真も送られてきてた。白い薔薇と紫の花を基調にまとめられている。父が逝って6年。まだ6年、もう6年。寂しさは消えていない。1人で毎日東北の地震や原発のニュースを見る母は精神的につらい様子だったけれど、妹が甥っ子をつれて帰京。これから、お出かけするのと嬉しそうだった。人はたとえ時間がかかっても、たとえ少しずつでも、必ず回復するのだと、何か信頼のようなものを感じて久しぶりに心が和らいだ。

1人でほっておかれることのない国

 じりじりと焼きつけるような日差しが照りつける3月も終わりの土曜日。タリハの人々はこれが最後の暑さになるだろうという。本当に色々なことのあった夏だった。 Compadre、Comadre、そしてカーニバル。飲んで踊って、たくさん笑った日々。







 Compadreの一週間後の木曜日がComadre。この日は女性が主役。Compadreよりずっと華やかだ。果物、野菜、パンやお菓子を詰めて、色とりどりの紙と旗で飾った楽しい籠(Canasta)を女性に送る。籠をもらったら翌年のComadreの日に同じように果物やお菓子を詰めて返す。Comadreの繫がりは一生のもの、お互いをComadre、Cumaなどと呼び合う。素敵な習慣。友人3人とComadreになった。午前中は学校単位で女の子たちがChapaca(タリハ女性)の伝統的な衣装を身につけて、大通りを踊って歩く。午後はプラザがディスコになる。女の子たちが老いもも若きも、大音量の音楽に合わせて踊りそして飲む。男性もちらほらいるけれど圧倒的に女の子。グループで作ったお揃いの衣装を身に付けた女の子たちもたくさん。友達が自分のグループの緑のシャツを贈ってくれた。やげて日が暮れて、今度は大人のグループが大通りを踊る。本格的なタリハのフォルクローレ。これは本当に女性限定。男性は見物することしかできない。

アイマラ族の伝統Sahumerio
 カーニバル初日、5日土曜日は仮装の日。Chapacaのブラウスを着て仮面をかぶってパーティーに連れて行ってもらった。カーニバルはこの日から4日続く。ピークは大通りで各地域の代表団やグループが様々なフォルクローレを踊る日曜の午後だ。教会で祈りをささげた後、出発する。踊りは翌日も続き、夜にはボリビアの音楽グループがプラザでライブを行う。3時間踊ると、次の日は足が筋肉痛になった。そして、噂通りカーニバル中は道を歩けば水や泡をかけられた。”Chinita”と叫ばれてかけられるのには少々、いやかなりむっとするけれど、子供達は屈託がない。正々堂々といたずらができるのだから、楽しいだろう。やり返せないのが残念なところ。締めはプラザで行われた水かけ大会。カーニバル最終日は様々な香草や紙のお金、砂糖で作った家や車を燃やし、その煙で家や車を清める日でもある。北から伝わっていた習慣だという。オルガと共に各部屋をまわった。
女の子たちに水をかけようと待ちかまえる男の子たち

 これでカーニバルは終了と思いきや、タリハでは次の土曜日午後にMercado campesinoからボリビア各地の踊りを踊る行列が繰り出す。ボランティアの仲間たちが数人この踊りに参加するため、そしてタリハのワインを楽しむため、ラパスやサンタクルスからやってきた。その朝、オルガが部屋のドアをどんどんと叩いた。時計を見ると5時半。エルヴィラ(オルガのお姉さん)から電話があった、テレビを見ろという。何事だろうとスイッチをいれる。日本の東北地方を津波が襲ったというニュース。茫然と見つめるものの、実感がわかないまま仕事に出掛けた。夜はやってきた仲間たちと夕食を共にした。前日夜からバスでやってきた彼らにもまだ実情は伝わっていない。夜家に帰って、CNNをつける。次々と家を、ビニールハウスを飲み込む津波。上空から写し出される映像。朝は津波には備えのある日本だから大丈夫と言い聞かせていたものの、あまりの津波の大きさにいくらなんでも全ての人が逃げおおせたわけがないと、愕然とする思い。翌朝は午前4時出発のバスでアルゼンチン町サルタへ発つ。荷物の整理をしつつ、テレビから目が離せなかった。

 太陽の照りつけの激しいベランダ。黄色いカーニバルの花が満開だ。旅から帰って、仕事に戻った。何かがすごく変わった気がする。ボリビアに来る前、日本で読んだ本の中に、「決して1人でほっておかれることのない国」という記述があった。1人になる時間が絶対に必要で、その癖1人が不安でもある自分には煩わしいこともあれば、助けられるころもあるだろうと思った。カーニバルは楽しかった。けれど酔っ払いと喧騒とカオス。終わってほっとしたところもある。その後届いた地震のニュース。日本の人々のために心から苦しく思っている、痛みを分かち合いたい、職場の人たちが次々と声をかけてきた。家に帰ればオルガ(大家さん)がお母さんに電話をしたか、大丈夫だったか、と何度も聞く。そして翌朝4時、気をつけて行っておいでと、アルゼンチンに向かう私を送り出してくれた。加えて旅先でどれだけ多くの人が話しかけてくれたことか。外に出て、人と交わって、言葉を交わして生まれるもの。その尊さを改めて思った。

2011/03/01

El Cumpleaños en Tarija


I feel just the same way!

     February 26, the day of my birthday. For a long time I haven’t really celebrated my birthday.  Just a dinner with a few friends, and my mother would cook something special in the weekend. That was it. Always we had an exam period in the beginning of March, and had been busy preparing for it.  Never had I really been in a mood to celebrate.

     This year I had no idea what my birthday would be like, but kind of knew that it would be a special one. I spent my birthday away from Japan twice in my childhood in the States and 3 times in Canada or Mexico. Every each of them was very unique because of the cultural difference. In the States, it was the day I felt very special about myself and was the highlight of my golden days. In the morning I received a present from my parents, and my mother would bake a small cake for each of my classmates. I got lots of cards and small gifts during a party in the classroom. In the afternoon some of my best friends came over to the house with their parents. We went playing in the snow or skating on the pond behind our house. When the cold got unbearable, we went back to the house where all the parents were drinking and chatting, warmed up ourselves in front of the fireplace, had a cup of hot tea and a birthday cake, and opened presents. The birthday in Canada was the first time I ever hosted a party in my house, and that in Mexico was the only time my friends hold a surprise party for me.

     On the morning of 25th, my colleagues started talking secretly behind me. I knew what was going on since we did the same thing to my counterpart Ilsen 3 months ago and was asked the day before if I would be in the office in the morning. But I just kept pretending not realizing anything. At 10:30, all the colleagues gathered around the table and I was called. The “Saice”, typical dish of Tarija, was prepared on the table. The oldest colleague, Nora who is always making jokes and fooling around, made a small speech for me, and in a minute we were busily moving our mouth. The Saice, a spicy minced meat with pasta and dried potatoes was one of my favorite dishes and was really good. Afterwards everybody came to hug me and wished me for a good year.

     In the afternoon on that day I got a call from Gabriel, a family we got to know a while ago who had lived in Japan for 5 years. He asked if I would be busy on Saturday. He wanted to hold a birthday party for me. I said I had another plan, a little confused and overwhelmed. He said no problem, telling me we could do it on Sunday or the next weekend. And then on our way back home my counterpart Ilsen invited me for lunch on Saturday to celebrate my birthday. Again, confused and overwhelmed, I had to tell I had another appointment. I am still not very much used to Chapaco’s ways of making plans in a very last minute.

     A week ago, when I was visiting my friend Mauricio, he invited me to come to see his friends from France in the weekend. When he said February 26, the word slipped out of my mouth without thinking, and I was telling him it’s my birthday. I felt ashamed afterwards. He was surprised and then happily told me we could have a welcome party for his French friends, farewell party for an American couple, and a birthday party for me altogether. That was a nice idea. The decision was made and I was going to spend my birthday at Mauricio’s. I kind of liked the idea because the Mauricio’s house was where I met David, and got to know Jeni, and could socialize with other travelers all over the world. It was also nice that the party was not all for me, and everybody had a reason to make this day special.


     In the morning of 26, I woke up around 5:30. The sky was pinkish ready to start a new day. I went out into the fresh air to join my first class of yoga in Bolivia with Jeni. It was a wonderful way to start a day. The yoga class lasted 90 minutes, and was refreshing and relaxing. After the class we went to the Mercado central to have a breakfast of pastel and a cup of mate. Then we parted, and I went back home to take a shower. Olga was there waiting for me. She hugged me warmly, and gave me a beautiful pairs of pendant and earrings. We had a coffee and small cookies made of yucca as my second breakfast, which her sister had sent from Beni.

     At 11, Jeni came to pick me up to see the warms which I have been raising for more than 2 months to use in my project.  Olga always teases me by calling them “your daughters”.  I think my daughters are quite happy since they are much bigger and started laying what look like eggs.  We walked to Marucio’s place, talking about our new experience in the day of ComPadre.

     When we got to Mauricio’s, there was nobody except Mauricio. The American couple, Rachel and Nick was gone to buy meat and use the Internet.   We greeted and Mauricio said, "Happy birthday".  We had a cup of coffee, my second for a day, but this time not an instant Nescafe which is commonly used in Bolivia, but a real coffee made with Italian coffee maker which Mauricio brought from Italy. While Jeni was doing her laundry, I read a book. I felt so relaxed and sleepy, and eventually dozed off a bit. French couple, Helene and Nicolas, came but left to find out the party was not ready to start. It happened that friends of Mauricio who supposed to arrive on lunch time was late because of the delay of the plane, so we decided to have a quick lunch, a pasta with a tomato sauce. Rachel and Nick came back, and Mauricio left to pick up his friends and to buy some more meat. While Jeni was clearing the place to do a parillada, a barbecue, I made a salad. And then we went out to buy some bottles of wine. Helene and Nicolas arrived with more wine, and we started drinking and chatting.

     At around 4 o’clock, friends of Mauricio arrived. Mauricio, looking very happy, introduced them to everybody and started to prepare the meat and my favorite chorizo. Both the meat and chorizo were really good.  I ate too much as usual and could barely move. The common language at the table was Spanish, but there were French and English, too. I often got confused which language I was using; English or Spanish. Of course, French was out of question.



    When everybody finished eating, I started to prepare for a tea ceremony which Mauricio had been asking to do for a long time. I told them before the tea they had to eat something sweet, and when I turned around there were a cake of zucchini bathed with chocolate and peanut butter cookies which Rachel and Nick made. Everybody said, "Happy birthday", and I felt a bit shy but very very happy. Then first to Mauricio I made a tea in a simplified version of Ryakubon, a simplest version of the tea ceremony, followed by his friends Cecil and her husband, Lionel. I told them how to drink and what to say before drinking. A French guy Nicolas who told me he has been practicing Jyujyutu (shamefully I was not quite sure what it was exactly), was very much interested in the philosophy behind the tea ceremony, so I told him a brief history and the meaning. Doing and talking about tea ceremony made me miss the meditative moments I had at my teacher’s house in Kyoto practicing the tea ceremony.


     So my birthday turned out to be really nice and special. David called just before I started a tea ceremony when I was waiting for the water to be boiled, and some friends called, too, including my new friend, Durvyn. I liked the warm atmosphere of the place that people talking here and there. The American, Nick, who does not like a big group of people according to Rachel, was coming and going, and I, who can hardly mange a group of more than 5 people and often feel awkward, saw it favorably. People have their ways to enjoy their time even in a public environment, and I am slowly beginning to realize it. I began to accept myself who usually got very reserved in a group, and laern to enjoy and feel at home just being in a group listening to people talking.

     It was quite late when I made a last tea for a friend of Mauricio, Claudia. She asked me how old I have become, and when I told her, she was almost falling off the chair. I was by now quite used to the Bolivian's reactions when they knew my age, and could casually tell that I knew she was surprised and that when I went to school, the students saw me as the same age as them. I always looked younger than my actual age even in Japan and secretly felt happy about it, but here in Bolivia it was just too much.  Not liking to see their surprised reaction I have often lied my age. I know I look young mostly because of my face, which is a heredity (all of my relatives look comparatively young for their age), but sometimes I can not help thinking that it is probably because I have not achieved anything which I should have at my age.  However, I knew deep in my heart it was just a stupid idea.  The most important is my attitude toward life: I love what I'm doing, I have an interest in the world, I'm learning to accept any kind of change, and I have a hope for the future.  Claudia happened to be working in PROMETA, a NGO which I have once visited soon after my arrival to Tarija looking for information and the opportunity to collaborate. We promised to get in contact.


     I got home about 10:00, feeling tired but happy. Olga was waiting for me and told me to have lunch at home tomorrow since Elvira and her husband Wolfgang would come with their daughter Carina who is almost at the same age of me. Miguel came to say "Happy birthday" as well , and told me Maria Lilia was looking for me to give a present and would come tomorrow for the lunch.

     The next morning, I went to the Mercado central again to have breakfast with Jeni, Rachel and Nick. We had two pastels and one Sopaipilla, a deep fried pastel with honey, along with a cup of coffee and mate. Rachel and Nick were leaving to Salta afterwards, and I asked them to let me know how much time and money they needed to get there.  I wanted the information for my trip to Argentina to meet my brother. After the breakfast, I went to café Nougat to use the Internet with my computer. Since the American who used to live upstairs left, I did not have the Internet at home. Some friends sent me birthday messages, and it was nice to read them. Luckily my mother was awake and we could enjoy talking for about an hour. March 1 is her birthday, and we used to celebrate our birthdays together. We talked about how we are, how I spent my birthday, if she got my present, if I got her present (I have to go to the post office to see if it arrived!), how my brother and I are planning our trip to Argentina, what was happening in Egypt and Libya, and in China influenced by them… I went back home satisfied, to be ready for my second birthday party. It was a great weekend; one of the most memorable and relaxing birthday in my life.