2011/08/30

日系移住地オキナワの豊年祭



 ボリビアでの時間が1年をきってから、この国をもっと知りたい、できるだけ多くの場所を訪れたいという思いが大きくなってきました。冬休みにすっかり崩れてしまったプロジェクトも除々に形を取り出しつつある中、学校とのアポの間をぬって国内のあちこちを訪れようと計画しています。

 8月21日は日系移住地オキナワで豊年祭が行われました。年に一度の盛大なお祭り。きっぱりと線が引かれているというわけではないものの、日常ではなかなか共に何かをするという機会がないというボリビア人と日系人が共に祝い、踊って楽しむ機会でもあります。

 前日20日サンタクルス行きのバスに乗り、17時間かけてサンタクルスにいき、さらに2時間かけてオキナワへ向かいます。翌日昼過ぎには飛行機でタリハに戻るという強行軍ですが、16~18時間のバス旅行も今はもう当たり前。それほど苦にもなりません。

 朝10時サンタクルスについてから、Cafe Alexsandarというおいしいコーヒー屋さんに行きました。ここでサンタクルス在住の島袋さんと待ち合わせです。島袋さんとの出会いはおもしろくて、チリのイースター島へ行った帰り、ヴィルヴィル(Vilvil)空港の到着ロビー「日本人の方ですか。市内に行かれるなら送っていきますよ。」と声をかけてもらったのがきっかけです。沖縄からボリビアに移住して長い島袋さんは黒糖とウユニ塩湖の塩やタリハでとれるピンク色の塩を日本に向けて輸出する会社の社長さんで、ちょうど日本からのお客さんとブラジルから戻ってこられたところ、私たちの到着と重なったのです。その日お客さんと一緒にサンタ一の5つ星ホテルでお茶をご馳走になり、その後泊めてもらう予定のお家の方と知り合いだということがわかって、2人のいるカラオケパーティーに連れていってもらいました。久しぶりに思いっきり日本語でカラオケをして、とっても楽しかったです。島袋さんとはその後メールを通じて連絡を取り合い、今回一緒にオキナワに行ってくださることになったのです。

 同期と2人本を広げて待ちます。彼女はオキナワ移住地の本。私はアガサ・クリスティーのEl Misterio del tren azul(青列車の謎)。一度読んだことがあるからスペイン語で読むにはちょうどいいのです。島袋さんとの縁がこれだけ続いたのも、本の存在が大きいと思います。沢山読まれているだけでなく、書いてもおられるからです。死ぬまでには?何か小さな物語を1つくらい書けたらいいなあという夢のある私にはとっても羨ましい方です。そしてしばらくして到着した島袋さんが早々に手渡してくれたのがやっぱり本でした。ザフォンの「風の影」とミステリー「フィッツジェラルドを目指した男」です。新しい本を得てほくほく。間もなくサンタ在住のあきちゃんも到着。3人で島袋さんの車に乗せてもらってオキナワへ向かったのでした。

 オキナワは二度目の訪問。去年の10月に移住地を訪れ、第一日ボ小学校を訪れて授業をさせてもらったのがついこの間のようです。豊年祭にむけて準備は始っていて、テントの中ではすでにさーたーあんだーぎーやお餅、ソーキそばなどが売られたくさん人が並んでいます。各地から訪れてきた仲間と合流した後、売り切れてしまっては大変とお土産にする分を買いました。その後資料館を訪れようと向かう途中、サマイパタでお世話になったうえまさんとも一緒になりました。お孫さんの一家がここに住んでいるのです。元々はアルゼンチンへ移民したこと、その後ペロン大統領の台頭とフォークランド紛争で混乱したアルゼンチンから親戚を頼ってボリビアのもう一つの日系移住地サンファン(San Juan)へ移られたことをしてくれました。

 資料館を訪れるのも2度めだけれど、以前とは少し違う目で見ました。かつて住んでいたモントリオールはフランス語圏にあることに加えて、移民の国カナダの大都市。町を歩けば様々な言語が耳に入り、その国のシェフによる各国料理屋が並んでいます。クラスメートの中にもインド、アフガニスタン、パレスチナや中国から移民してきた人がいました。小さい頃親に連れられてきた人、親が移住してきてからカナダで生まれたという人、大人になってから自分の意志で移住してきた人。戦争に紛争、内戦、歴史の教科書で学んだような出来事が引き金である場合も多くて、クラスで自分の経験を語ってくれた人もいました。

 なのに日本の移民の歴史について考えることはあまりしてこなかったなと思います。戦時中、そして米軍占領下の沖縄の人々の状況は高校時代の修学旅行の事前学習や大江健三郎の「沖縄ノート」、昔好きでよく読んだ灰谷健次郎の本などを通して少しばかり知っていました。同期が連絡所から持ってきてくれて、久しぶりに読んだ「太陽の子」(私の名前から選んでくれたそう)には沖縄から本土に出稼ぎにきた若者が出会う差別や集団自決の強制によって心に深い傷を負った人々が描かれています。オキナワの移民一世の人々が抱えていたものを垣間見る思いでした。こうした同郷の人々を助けようと戦前に移民していた沖縄の人々が呼び寄せる形で行われた移民がコロニア・オキナワの始まりでした。ボリビアにオキナワがあることの背景には、ただ新天地に夢をかける以上のものがあったことを改めて思いました。そしてこれらの移民の人々が現在のオキナワ第一移住地に落ちつくまでに、熱病や洪水による移動を余儀なくされ、その後も洪水や干ばつに苦しみつつ開拓を重ねてきたことを資料館は物語っています。後から知ったのですが、島袋さんのお父さんもアメリカ統治下の琉球政府計画移民第17団の一員として、ボリビアへ来られたそうです。もちろん家族を伴って。長くボリビアに住むことはなかったそうですが、島袋さんがラテンアメリカを初め各国を長く旅され、今もボリビアに住み続けている原点はこれらの経験にあるのだと思います。





開拓民も刺された獰猛な蟻と共生する木。
  現在コロニア・オキナワは第3移住地まであり、ボリビアでも有数の穀倉地帯として知られるようになりました。そして今ゆっくりと二世から三世の時代へと移ろうとしています。日本を、沖縄を直接知らない世代です。わずか3000人あまりのオキナワ社会だから婚姻によってますますボリビアの文化が家庭にもちこまれてくるでしょう。日系社会と近隣のボリビア社会の垣根はどんどん低くなっていくのだと思います。今まで以上に、ボリビアの決して安定していない社会情勢や、まだまだ整っているとはいえない教育制度や教育に対する考えに影響を受けるということなのかもしれません。日本の、沖縄の文化を日本語の学習や音楽を通して継承しようとする努力は大切だなと思うのです。オキナワには、沖縄にはもうない「おきなわ」があるという人もいます。日系社会に今の日本で失われた「にほん」があるように。1人の人間が2つの文化をあわせもつということは時に葛藤を呼ぶけれど、よりその人を豊かにするということもあります。日本文化の尊ぶ礼節や誠実さを保ちつつ、よりボリビア社会に密着して生きていくのがこれからのオキナワの人たちなのだろうと思います。


 資料館から戻ると広場はすでに人で埋まっています。挨拶のあと、三線の演奏、空手や忍術?のような武道の実演、ボリビア人学校の生徒によるボリビア各地のダンスの披露が続きます。友人が手伝っているたこ焼きや村の人がおごってくれたヤギの耳の酢漬け(だったかな?)を食べつつ、広場をみにいったり、おしゃべりしたり。そして辺りが暗くなったころ、エイサーが始まりました。始まった途端、釘付けになりました。よく揃っていて、すごい迫力でした。小さい子から青年まで真剣に力を込めて太鼓をたたき、体をひねって飛びあがり、踊っています。躍動感。なんだかとても熱いものを感じました。

 「すごかった、よかった」と大興奮で帰ってきた私たち。実はその間「いつもオキナワの文化として紹介されるのはエイサーばかり、そろそろ見ている人もあきているのではないだろうか」という会話が何人かのオキナワの人たちの間であったよう。本当にすばらしかった。やめるのは簡単だけど、また始めるのは大変。日本語の勉強とたぶん同じ。あの気合の入ったエイサー続けていってほしいなと思いました。少なくとも音楽に関してはとっても保守的なボリビア。いつの時代かのヒット曲がいまでもあらゆるフィエスタやディスコで聞かれます。人気のある曲がかかると歓声が上がることも珍しくありません。長く続けてボリビア中のカーニバルでエイサーが普通に踊られるようになったら素敵だなと思いました。

2011/08/12

村のお祭りと独立記念日の大統領パレード







 冬休みが終わって久しぶりに訪ねた学校は、来るボリビアの独立記念日に向けて、お祝いの準備に余念がない。コンポストの授業をしに出かけついでに、分別箱をのぞくと中身はゴチャまぜ。休暇を経ると全てが忘れられ、元の木阿弥になってしまうらしい。ある程度予期していたとはいえ、ちょっとがっかり。独立記念日が終わったら仕切りなおしましょうという言葉を信じて待つ。そんなこんなで、オフィスにつめていたある水曜日の朝、気持ちが悪くて目が覚めた。なんだかぞくぞく悪寒がする。ちょうど一週間前に職場で同じことがあって、早退したことがあった。熱が上がって、一晩苦しい思いをしたのだけれど、翌日にはすっと下がった。

この下分厚いスカート3枚
  その前の日曜日、田舎の町サンロレンソ(San Lorenzo)で行われたお祭りに出かけた。同期のちーちゃんが誘ってくれて、シニアの遠藤さんとタリハ組3人、ちーちゃんの元同僚ノルマおばさん率いる踊りのチームに混ぜてもらって、ワカワカ(Wakawaka)という踊りを踊った。タリハのカルナバルでは私は参加できなかった踊り。その時の写真やビデオをみてとても羨ましかった。なんせ衣装がかわいい!楽しそう。そしてこの度、聖人サンティアゴにちなんだ祭り、Fiesta de Santiago(でデビューすることになった。


"Profe!"と声をかけてきた男の子
 チームの大半が大遅刻して現れ、ばたばたと村に着いてみればミサは終わっておらず、行列は昼少し前に教会を出発した。聖人サンティアゴの像を先頭に、各踊りのグループがすすみ(もちろん踊りながら)、最後に飾り立てた車が続く。村の人、タリハや近隣の村からやってきた人が見物したり、ぞろぞろついて歩いたりする。私たちのグループは音響が到着しておらず、来たと思えばワカワカのCDがない!というぐだぐだぶり。前のグループの曲モレナダ(Morenada)に合わせて踊ることに??

 村を出てどこまで行くのだろうと思う頃、何もない原っぱに入っていった。ここが終点??と思っていると、みんな思い思いに休憩。聖人サンティアゴの像の前で踊りの輪ができる。のんびりとくつろいでいた人々がなんとなく動き始めたのは1時間もした頃。そして、強い西日の中街道を延々と踊り続けてすすみ、とある集落に着いた時にはすでに日は傾いていた。集まった人々の前でさらにグループごとに踊ってから、集会所のようなところで暖かい食事を出してもらった。なんだかわらわらと人があつまり、好きに見て踊って食べる。人に見せるためというより、参加した人が楽しむ、村の祭りという感じ。あまりに長く続くので疲れたし、美しいとか感動とかそういうものは感じなかったけど、素朴で飾らないところがよかった。そしてこの日、後の2人が食べなくて、私だけが食べたのは2本のアイスキャンディー。多分、これが原因。水には、特に田舎では注意するようにしていたのだけれど、暑さにそんなことはすっかりとんでしまっていた。

 職場について2時間。悪寒がして、冷や汗が出始めて、早退。家に帰って熱を測ると38度5分。体温計を見たら、一気に病気の気分になった。風邪の症状はない。変だなあと思いながら、ベッドにもぐりこんだ。そして、2時間ほど眠った頃、お腹に強烈な痛みを感じてトイレに駆け込んだ。それからは・・・。熱でふらふらだけど、トイレに行かなければいけない。そしてこの熱が汗をかいてよく寝たらすっきりするだろうと思わせるような熱ではなく、とにかく重い。こうしてまた病院にでかけることに。ボリビアに来て1年、風邪を少々ひこうが一度もいかなかったのに。

   タリハは医療費が無料だ。SUSAD(Seguro universal de salud de Tarija)という更迭された前知事の医療保険政策のおかげ。これは本当に素敵なことだと思う。先日デモの原因にもなっていた、エボ・モラレス大統領の新しい保険制度改革で、SUSADはなくなるともいわれているけれど、今のところ現状のまま。元からの住人はもちろん、タリハに住んで1年以上の人々は無料で病院の診療を受けられる。ただし、薬代は含まれず、特殊な治療になると有料になる。


 そういうわけもあって、近くの大きな公立病院は人でいっぱい。しかも先日生まれたばかりの赤ちゃんが盗まれる事件があってから、病院はぴりぴりしていると聞いた。公立の病院の様子も知ってみたかったけれど、今回はその余裕はなく、次の日の朝、家から角を曲がってすぐの私立病院へ出かけた。閑散として、患者は私1人。すぐに出てきて丁寧に症状を聞いてくれた若い女医さんは感染症でしょうね、という。なんの病原菌かを調べることもできるけど、そうするとまた別のところに行かないとだめらしい。いずれにしても、出す薬は同じ抗生物質とのことだったから、検査はしないことにした。結局4日寝込んで、この薬、きいてないんじゃないと疑い始めたころ、ようやく痛みがひいてましになった。

エボ・モラレス大統領登場
  一連の怪我から、最後は感染症。1年何事もなくきたつけ?が一気にきたよう。体が弱ると気持ちも沈んでしまう。自分が半年やってきたことはなんだったのだろう?本当に必要とされていたのだろうか。独りよがりではなかったか。休暇を経ただけで、プロジェクトが元の木阿弥になってしまうのは、結局何も伝わっていなかったのではないか。私が帰国した後はどうなるのだろう?第一ステップでつまずいていて、どうやって次につなげていけばいいのだろう、などなど負の思考はとめどない。大家さんの小さな一言が気に障ったり、上の階の犬の足音にいらいらしたり。


副大統領(右)と談笑。仲良し?
 8月6日、Día del Patria。ボリビア独立記念日。翌日の日曜日にはエボ・モラレス大統領を始めとした閣僚、軍や先住民のグループがたくさんタリハにやってきて大々的なパレードを行うというから、勇気をだして出かけた。ボリビアはどこにでもトイレがあると言うわけにはいかないから、お腹を壊している時は外出したくなくなる。けれども歩いているうちにどうも大丈夫そうだということがわかる。清潔そうな白い制服をきて整列した海軍兵士(そう、ボリビアには海はないけど海軍がある!)や小型戦車が並んでいる。



マスコミ席
 
 
 
暑いけど
 大通り沿いにスタンドが用意され、すでに大勢の人が席をとっていて、立つ隙間もないほど人でいっぱい。ぶらぶら歩いていると友達と出会った。仕事を通じて出会った学校の先生。大統領が座るひと際大きなテントの真正面、マスコミ席の横で見ようということになる。とはいっても、見えるのは人の頭ばかり。伸びあがっていると、マスコミのおじさんが上がってこいと言ってくれて、特等席で大統領の登場から演説までを見ることができた。生でエボ・モラレス大統領を見るのも二度目。今回は一生分っていうくらい長いこと見た。
語る、語る!
 やがていっぱいになってきたマスコミ席、パレードの途中で降りることになったけれど、その頃には大統領の写真もたくさん撮り、立っているのもしんどくなっていて、よいタイミングだった。道を歩くとパレードを終えた各県の村の人たちが一杯。ポトシの鉱山の労働者たち。ラパス近くユンガスに住むアフリカ系ボリビア人の人たち。アマゾン地帯に住む先住民の人々。のりのりで踊っている先住民のグループはオルロから来た人たち。さらに歩いて行くと、パレードの出番待ちをしている軍隊。顔に塗料を塗った陸軍の兵士、ウエットスーツを着こんだ海軍の兵隊、空軍兵士がボリビアの旗を掲げた飛行機で何度も空を旋回している 。

高地の人々
低地の人々

 パレードを見た後、空腹を感じた。すでに2時近かったし、警戒して何もたべてこなかったからだけど、久しぶりに何かを食べたいと思えた。入ったレストランでSopa de Mani(ピーナッツのスープ)とLengua a la plancha(牛タンとチーズ入りご飯、フライドポテト添え)を頼んだ。お粥ばっかりだった後に突然の重い食事。ゆっくりと食べ始めるも、おいしい!この分ではせっかく減ったであろう体重もすぐ戻るなと思いつつ、ご飯がおいしいことが幸せだった。

 そして迎えた月曜日、職場にて病気のためできなかった小さなお茶会を開いた。タリハに来て一周年を記念して。1人1人にお抹茶を点てる。飲む前に「お点前頂戴します」と言わないといけないと言うと、みんな大騒ぎ。紙に書いて、一所懸命発音していてかわいい。お茶碗を右手でとって左の掌に乗せ、2度時計回りにまわし、右手を添えて口元にもっていく。この動作では特に男性陣が苦労していた。自分で点ててみたい人はいる?と聞くといつも冗談をとばしてみんなを笑わせている評価担当のノラが喜んで茶筅をふった。

 この日から学校へ行きはじめた。ウンベルト・ポルトカレロ高校(Humberto Portocarrero 2)では先生対象のアンケートを集計し、これを元に話し合いをする。集まった先生達は、教員の意識が問題だから、再度全員を集めて仕切りなおそうと言う。それ以上の案は浮かばず、私的には行き詰まった感。何かが変わるだろか。同校2年生クラスと始めたコンポスト。ミミズの観察や生態系の仕組みのおさらいをして、新しい材料を投入。有機ゴミの量が多すぎるのか、嫌な匂いがし始めている。この日は枯れ葉と藁のみを入れた。これでおさまるといいけれど。土の温度があがる気配がないから、発酵がすすむのかも心配なところ。カルメン・メアジャ(Carmen Mealla)校の中高等部でも7年生のクラスとコンポストの寝床作りをはじめた。問題児?がいて、授業中に怒った先生に教室をだされたりもしている、ちょっと難しいクラス。どうなるだろうか。

 悪いことばかりでもない。校長先生が別の学校から聞きつけてやりたいと言ってきたアベリナ・ラニャ小学校(Averina Raña)を見に行くと先生達に数回研修をしただけだったのに、子供達はきちんと分別を始めていた。打ち合わせに出掛けたテレサ・デ・カルカッタ小学校(Teresa de Calcuta)では来週月曜日から始めたいから朝礼で話をしてほしいと頼まれる。両校とも有機ゴミを分別して、コンポストを始める予定。テレサ・デ・カルカッタ校では、メヒカーノ(Mexicano)という踊りの練習にひっぱりこまれた。マザーテレサの名前を戴いているだけあって、教会関係の組織に属しているらしく(あまりよくわかってない)、月末の大きな集まりで披露するよう。どの学校も基本的にあけっぴろげで、少し関わりだすとあなたも私達の一員なのだからとよく言ってくれる。さすがに今回のように踊りのチームに入るのは初めてだけれど。

 病気中悩んだことが解決したわけでは全然ない。それでも、いいところを見つつ、うまく行ってないところをちょっとずつ改善していくしかないのだろうなと思う。どこまで評価を厳しく行うべきかは迷うところ。文化の違いもある。テレサ・デ・カルカッタ小学校で出会った体育の先生はカルメン・メアジャ小学校にも行っている。私の目からみると、全くうまくいっているようには見えない学校。プロジェクトの話になって、「あまりうまくいってないね」とちょっと恥ずかしくなっていると、そんなことはない、だいぶ学校はきれいになっているし、いくつかの学年は掃除が習慣になってきている、と言ってくれた。慰めてくれているのか、よくわからないけれど、テレサ・デ・カルカッタ校での話合いでも前向きな発言をしていて、プロジェクトに意義は感じているよう。私の基準でうまくいっていると思うのは難しくても、やっていることに何か意味はあるのだろうと気をとりなおした。独立記念日が終わって落ち着きを取り戻した学校。体も元気になって、また頑張ろうと思えた。

大統領の出身地オリノカ(Orinoca)村の人々と
  

2011/08/03

ボリビアの歯医者さんとパッチ・アダムス

7月16日、ラパスの日のムリリョ広場(Plaza Murillo
大統領府まで行進するエボ・モラレス大統領


 ラパスへきた第一の目的は歯医者さん。二ヶ月前から定期的にしくしく痛み始めた右下の親知らず。大家さんのオルガの息子は歯医者だからレントゲンをとってもらったところ、斜めにはえていて横の歯をおしている、早めに抜いたほうがいいとのこと。ただでさえ、抜くのが嫌で残りの3つの親知らずをはえるままにし、なんとなく前歯がでてきたような気がしてた頃。一大決心をして抜歯することにした。ラパスには日本で勉強し、働いたこともある、日本語を話す歯医者さんがいるという。歯だけは丈夫でめったに行ったことのない歯医者、何かがあった時のためにも、ラパスで治療を受けようと決めたのだ。


美術館が集まるハエン通り
 ティワナク遺跡から帰った翌日月曜日午後の予約に合わせてソナ・スル(Zona Sur)に出かけた。冬休みの連絡所、同期が大勢集まってわいわい、朝方5時頃まで飲んで、歌って、怪談をしてと学生みたいなことをして過ごした。そんな中親知らずを抜く怖さをたっぷり脅かされたから、どきどき。ラパスで陶磁器を教えている友人に付き合ってもらった。ソナ・スルは中心街よりミクロで約30分、さらに標高が低い、高級住宅が立ち並ぶおしゃれな地域。出かけた病院はきっとお金持ちの人しかいけないと思われるきれいで整った設備を備えた気持ちよいところ。いよいよ抜くんだ、覚悟していたら、今日はレントゲンをとりにどこどこへ行って来てねと言われる。明日の朝血液検査をして(これも別の場所で)、結果が大丈夫なら(きちんと凝血するなら)夕方手術するよと。ボリビアのお医者さんにかかるのは初めてだけれど、友人たちの情報によるとボリビアでは検査のため、その結果を受け取るため、薬をどころか注射を買うため!?と患者は結構あちこち行かされるらしい。痛みに苦しんでいたり、しんどい時には当然のことながらかなりつらい。けれどさすが?ソナ・スルの歯医者さん、地図を見ながらふんふん言っている私をみて心配になったのか、自分の車でレントゲンをとりに連れて行ってくれた。

 そして、翌日血液検査時、同じようにしてくれた上、夕方親知らずを抜いた後は泊り先まで送ってくれたのだった。もちろん、手術が2時間半近くかかって終わった時は9時を回っていた上、この日エルアルト(El Alto)ーオルロ(Oruro)間でデモ封鎖があり、市内にガソリンが入ってこなくなって、タクシーが動いていないという事情もあったのだけど。親知らずの根っこが神経から3mmほどのところまで届いているから、無理やりぬくと後から非常に痛むからということで、少しずつ削っていく方法をとってくれたよう。休憩もあったけれど口をあけているのに疲れたし、何をされてるのか最初のうちはわからず、麻酔をかけているから感覚はないはずなのに、ぐらぐら歯をゆすられる度に神経に振動が届き、ここで抜かれたら泣くかも・・・。すぽーんと抜けますようにと祈りながら時間が過ぎていった。そのうち何回もレントゲンを撮りながら手術が進められるようになって、ようやく何が行われているのかがわかった。レントゲンを見てもピンとこず、いつ抜けるのはだろうと思っていたら、後もう少しだから頑張ろうね、と言われた。よく見れば、白く映る他の歯に比べて問題の親知らずは薄黒い影の様。先のほうだけが白っぽい。極先っぽはあまりに神経に近すぎるから残すけれど、問題ないだろう、これで終わりだよと言われた時はほーとため息をつく思いだった。


医療保険問題で座り込みをする
Choritaさん達
 初めての本格的歯科手術。色々と怖かった。それでも、私はこの国で最高級の治療を受けたのだと思う。今回の治療費だけでボリビアの普通の公務員の給料1カ月分にあたる。徳島大で博士課程までとった歯医者さんは、おかしな日本語でごめんね、といいながらも会話は全て日本語で進め、家とは反対方向に送ってくれる車の中で恐縮していると、外国で困った時の気持ちはよくわかるからと全く気にした風もない。患者に対する穏やかでフレンドリーな態度はこの歯科医院で働く全ての歯科医や看護師に共通している。日本の医療事情とて必ずしもよいと言えないけれど、サンタクルスで看護師をする友人や普通の医療機関で診療を受けた経験のある友人から話を聞くと、サービス精神(実はあまりこの言葉は好きでないけれど)がないこの国で医者が当然のように行う患者に対する心ない行動は基本的なレベルで信じられないようなことが多い。 患者の尊厳を大事にするお医者さんの治療が、それを可能にするシステムが、市井の人々の手に届くまでどれくらい時間がかかるのだろうと思う。そして、素晴らしい歯医者さんの治療を受けることができることに感謝する気持ちと共に、どこか申し訳ないような気がしている自分もいた

  そんなちっぽけな思いを吹き飛ばしてくれたのは、抜糸した夜に出かけた、ロビン・ウィリアムズ主演の映画で知られるアメリカの医師、パッチ・アダムスの講演会だった。講演は2日、1日目は野外で100ボリ(1人に対し1人の学生や子供が無料で講演に参加できる仕組み)、2日目はHotel Radissonで550ボリという入場料。私たちは当然?1日目に出かけた。7時半開始のはずが、いつものごとく時間になっても会場の前にはよくわからない行列がくねくねとできている。友人達が列に並んでくれている間、風邪をひいている友達と歯が痛い私と、2人少し離れた高台に座って、このカオスを眺めた。せめてロープくらいはればいいのにと感想述べながら。さらに、そろそろ入口に近くなったかと思われた頃、青いチケットを持っている人(私達の色)は違うラインらしいと同じ色のチケットを持っているおばさん達がいいだして、みんなで列を抜け出して青チケットの入り口を求めてさまようことになった。2つくらい別の列に聞いても、黄色だ、緑だと違って、ようやく会場をぐるりと回ったところにある列が私達のだとわかった。結局私達が並んでいたのは、無料で講演を聞きに来る人達用の列だったのだ。と、なんやらかんやらあったものの、無事に席に着き、あとは主役の登場を待つばかり。午後9時。

 そして登場したパッチ・アダムス。パジャマのようなピエロのような奇抜な格好。軽快でユーモアたっぷりの話しぶりで1時間。あきさせなかった。英語で話す彼についていたスペイン語への通訳者も絶妙の訳しぶり。パッチ・アダムスの話しぶりにつまったエネルギーを上手にうけて伝えていた。英語とスペイン語の両方を聞いていると今更ながら語順が同じというのは楽だなあと思う。今回の通訳者さんはプロの方なのだろうけれど、たとえプロでも日英の通訳に感じることのある、ある種の緊張がほとんど感じられない。安心して聞いて、笑っていられる。そしてこの通訳者の余裕?を見てとって、パッチ・アダムスも盛り上げどころに利用したりして楽しいトークになった。


 パッチ・アダムスは自分自身が自殺未遂を起こし、精神病院に入っていた時期がある人。そこでの精神病患者との交流から笑いと幸せであることが医療に不可欠だと感じるようになった。その後医学部に入り、医者は権威ある存在でなければならないとする学長と対立しながらも、自らの信じた医療を施すべく診療所をたちあげ、保険の網からもれた人々の治療にあたる。変人扱いしていた周りの学生も徐々に彼に同調し、協力するようになる。そんな時、協力者で恋人でもあった女性が思わぬ死をとげ、責任を感じた彼は無力感にさいなまれるが、仲間に、そして患者に救われ、最後に学生でありながら医療行為を行ったと糾弾する学長に対して持論を述べ、大学の医学会と学生の支持を得て無事卒業していくというのが映画のストーリー。(前日予習でみたから、だいたい正しいと思う。)

 パッチ・アダムスにとって幸せとは内的な平和のことではなく、行動そのものである。幸福はある特定の一瞬にあるのではなく、何かに対する褒美としてあるわけでもなく、今自分が存在するこの場所にある。よく言われる幸福の追求なんてことはあり得ない。人は生まれながらにして幸せなのだから。幸福とは、幸福であろうとする意図、その意図をどう表現するかというパフォーマンス、そしてその結果だ。結果がよくなければ、つまり幸福でなければ、パフォーマンスを見直せばよいのだ。アメリカのような問題を抱えた社会の典型的な症状は孤独と恐怖だ。孤独をいやすのは愛し愛される喜びを与えてくれる友人であり、恐怖を克服するのは所属感を与えてくれる共同体の存在である。ミアキャットの例。仲間が巣穴からでて太陽のもとで楽しんでいる間に、敵がいないか見張る役目のミアキャットが必ずいる・・・。そして創造性と愛。これが友人、共同体・・・人間関係のカギ。

 この人間関係における創造性と愛、友人と共同体の存在。たとえ、貧しくとも、システムが整わずよい治療が受けられなくとも、医者が多くの場合恐らくやむを得ず患者に冷たい仕打ちをしても、ボリビアにあって、パッチ・アダムスがいう病んだ社会であるアメリカや日本に希薄になりつつあるのはこれだと思う。美化するつもりは毛頭ないけれど、ボリビア人が友人を、家族を、時にはわずらわしがりながらも、大切にする姿は心打たれることが多い。職場SEDUCA前、暑い日も寒い日も午後にはやってきて、薄い教育関係のブックレットを並べて売るお母さん。小学校高学年のお姉さんがいつも小さい弟の面倒をみにきているし、高校生のお兄さんは学校帰りに店じまいを手伝いにやってくる。向かいにお菓子のスタンドをだすサンドラおばさんのところにも小学生の息子がしょっちゅう手伝いにきている。大家さんのオルガはたとえ、疲れてベッドに入った後でも、ウィークデイの夜遅くに話をしにくる友達を追い返したりはしない。妊婦さんや足元の弱いお年寄りがバスにのってくれば若者がすっと立って自然に席を譲るし、乗降の手助けをなんの照れもなくやってのける。例をあげだしたらきりがない。幸福であろうという意志とその表現。ボリビアの人々はそれに優れている気がする。それにかけるエネルギーと時間をおしまない。幸福を追求なぞしなくとも、ボリビアの人々は生そのものを楽しんでいる、そんな気がすることもある。

 パッチ・アダムスの話を聞いている時、聴衆のボリビア人の反応はとてもよかった。パッチ・アダムス自身が彼の話す内容通り、行動の人であり、それによって幸せである人だから、説得力もあるのだ。けれども、一方で少し首をかしげてしまった。映画にでてきたお医者さんということと軽妙な語り口が受けているので、もしかしたらボリビアの人々にとっては何を当たり前のことを言っているのだろう・・・という内容だったかもしれないと。私達がいた100ボリ席にいる少数のWesternizeされたインテリボリビア人は別にして。パッチ・アダムスのいう幸福と不幸の尺度はアメリカや日本に当てはめたらとても低いだろうけれど、ボリビアに当てはめたらきっと高い数値がでるに違いないと思う。

 ブータンが一位となったGNH「Gross National Happiness」(幸福度指数)。ボリビアも高い順位にくるのではないだろうか。「健康」、「家計」、「家族」、この3つを重視する日本に対し、ブータンの人々が第一においたのは「人間関係、隣人関係、家族間の交流」だったという。だからこそお金がなくとも、よい医療制度がなくとも、幸福度が高くあり得る。ボリビアを”貧しく、社会制度の整っていない”途上国として、色眼鏡でみている自分がまだいるのかもしれないと戒める思い。ボリビアの医療制度も、お医者さんや看護師の質も、もっとよくならないといけない。そのほかのあらゆることと同様に。ただ、システムが整って行く過程で、今存在する自然な互いをいたわるパフォーマンスが、心から切り離された機械的なものに変わってしまうことがなければいいなと思う。