2011/12/13

12月は別れの季節


Felicidades!!

12月に入ってタリハは再び卒業式の季節。日本でいえば3月にあたり、年度の終わりとも重なって別れの季節です。
 
小学校の終業式・卒業式は子供も保護者一緒に運動場のまわりに好きに座るという、先生の日や母の日などの行事と形態のかわらないカジュアルなもの。子供たちはあちこち走り回っています。校長先生や進行役の先生達の話も聞いているのかいないのか。拍手はあるので、たぶん聞いている??私もお礼を兼ねて少し話をさせてもらいました。式は卒業する8年生によるダンス、スピーチ、歌、そして成績優秀な子の表彰には保護者も一緒に出てきて写真屋さんによる記念撮影などなどにぎやかです。これに比べると、高校はずっとフォーマル。日本のようにしーんと静かではないことを除けばそれほど形式は変わりません。連れてこられた子供たちはやっぱり遊んでるけど。

紙すき後、思い思いに作ったカード
12月最初の月曜日はHumberto Portocarrero 2高校の卒業式に招待されました。卒業する4年生は60人。他校に比べても大人数。この高校で一番関わりを持ったのは3年生のクラスだけれど、4年生にも授業をしたことがあって、それ以来人懐っこい生徒たちは校内で見かけると“Prof(先生)!”と気軽に声をかけてきます。11月半ばにこの高校で行った環境フェリア。私は3年生とコンポストやミミズの展示作り、1年生と分別した紙を使って紙すきを行うのに忙しくて4年生とは何もできなかったのだけど、彼らはゴミの分別とリサイクルについての授業を覚えていて、それをもとに分別の大切さを訴えるチラシを作り、学校の周りの家々を訪れて説明、リサイクル業者の紹介をして、ペットボトルを回収するという取り組みをしました。フェリア当日はその様子を撮ったビデオを上映、フェリアの始まる前も近所をまわって回収したとかで、ペットボトルを抱えた生徒が大勢いました。その子たちももう卒業です。

お母さんと入場(Nazaria校にて)
諸事情で少し遅れて到着すると、ちょうど卒業証書授与式の真っ最中でした。席についた早々名前を呼ばれて?のまま中央に出されると、卒業証書を渡せとのこと。5人の生徒におめでとうといって証書を渡し、握手して頬にキスを交わしました。先生達の名前が引き続いて呼ばれ、数人の卒業生に次々と卒業証書を授与していきます。ちょうど順番に間に合ったのです。こういうのもいいなあと思いました。授与式の後は、在校生のスピーチ、卒業生のスピーチ、卒業生から学校へプリンターの寄贈、保護者から担任の先生への記念プレートの贈呈、卒業生の歌と式は続きます。どの高校でも、入場は必ずお母さん、お父さんや兄弟など生徒にとって特別な人と一緒に花道を歩いて入場します。腕を組んでしずしずと。式の最後は、記念撮影。そしてみんな帽子を投げあげます。この瞬間が好き。



別れを惜しんで抱きあう卒業生
 この日、式の後は先生達のパーティーがあるということで、少し顔をだすことにしました。ところが校長先生も乗る車が向かったのは生徒宅。ちょうど運転していた先生は4年生の担任の先生。生徒宅に呼ばれたからちょっとよっていくとのこと。でもちょっとのはずが、男の子のお母さんがなかなか帰してくれません。先生が来てくれたのが嬉しくてたまらない様子。杯を重ねるにつれて担任の先生の顔も赤くなってきます。他の先生達からは何度も電話がはいり、みんな待ってるよ~と気が気じゃない。ようやく家を後にした時には1時間以上たっていました。真っ赤な顔をした先生の運転(ちょっと怖かった)で先生達の1人のお宅である会場へ。1時間半近い遅れとはいってもそこはボリビア、みんな気長に待っています。ビールで乾杯、お昼御飯を食べ終わると、もちろんダンスタイム。ボリビアのフィエスタにはつきもの。若い先生もおじさん先生も全員踊ります。CumbiaSalsa、タリハならではのCuecaChacarera。年度の締めくくりの日でもあり、先生達にとっても嬉しい日です。高校卒業はボリビアでは日本よりずっと大きな意味を持ちます。田舎に住む生徒の1人の家ではなんと牛を1頭つぶしてお祝いしているとか。パーティーの後おしかけようとみんな大笑い。きっとすごい肉の量でしょう。自慢の娘が無事卒業したお父さん、お母さんの喜びが伝わってくるようです。

   別れの季節は私にも巡ってきます。一番仲がよくて一緒に働いた先生であるDurvynが実家のあるスクレに戻ります。おばあさんが亡くなってから、家族のことが心配でまだ迷っているようだけれど、彼女はベネズエラへいく奨学金を手にしていて、5月には向こうの大学に行くことが決まっています。Nazaria Ignacia March高校の卒業式の後、前から食べたいといっていた日本料理(といってもカレーにさやいんげんのお浸し、わかめとじゃがいもの味噌汁ととっても簡単なものだけど)を用意して、小さなお別れ会を開きました。彼女にはほんとにお世話になりました。ありがとう!
 
 週末、インカ道を歩いて以来、久しぶりにハイキングに出かけました。Padcaya(パドカヤ)というタリハ市内から40分ほどのところにある村に行き、そこから2時間ほど離れたところにある小さな滝まで歩きました。雨季に入って雨続きのタリハ。この日も降られたけれどやわらかい雨で気持ちいい。メンバーはほぼ同じ。インカ道を歩いたときにいたフランシスコの代わりにオランダ人のJudit(ユディット)が加わっただけです。環境や教育に携わる人間同士として、タリハにおける外国人として、彼らとは多くの情報交換をしてきました。イタリア人のジョルダナは1月末に帰国、トムとユディットも2月には仕事の拠点をラパスに移す予定です。ジョルダナはずっと前からお茶のお点前を見たいと言っていて、急遽家でお茶を点てる約束をしました。彼女も帰国前にあちこち旅行するし、私も夏休み中にやっておきたいこともあって、2人ともがタリハにいる時間は1月の半ばほんの一時しかないことに気付いたのです。ばらばらになる前にもう一度小さな旅行をしたいねとみんなで話しました。

  そして、11月末に行われた隊員総会。

午前中に行われた総会の後は隊員の活動と日本文化を紹介するフェリアを行いました。4月に続いて第二弾。テーマはArco Iris(虹)、日本とボリビアのかけ橋です。大勢の仲間と訪れてくれたボリビア人とで作り上げた本当に楽しいフェリアになりました。それでも、総会では仲のよかった人たちの多い隊次や3月に帰国する一部の同期の挨拶などもあって、大事な時間が指先からこぼれていくような感じもしたのです。とはいっても、この感覚があるから、総会そのもの、懇親会や打ち上げ、担当した写真展示ブースの準備過程やフェリアでの発表に向けて練習してきた「情熱大陸」が忘れられないものになるのだと思います。そう、情熱大陸、結構ちゃんと弾けました(と思った)。仲間のプロ並みにうまいギターとピアノに助けられて。あとからビデオをみたバイオリンの先生も「助けてくれてるね~」と言ってました。で、これからはもう少し基本をやろうね、とも言われました。ビデオを見ると音が泳いでて、かなり恥ずかしい。でも頑張りました。DELEの勉強そっちのけで練習したかいがあったかな。一緒に音楽をするって楽しいなあと思いました。

 茶道から生まれた言葉、一期一会。一期は一生、一会はただ一度の出会いの意味です。 「茶席で、たとえ何度同じ人々が会するとしても、今日の茶会はただ一度限りの茶会であるから、 亭主も客もともに思いやりをもって取り組むべき」という千利休の教えからきています。お道具、お軸、花、風、光、におい、集う人とその心持ち、一回一回のお茶席に同じものはなく、二度と戻ってはこない時間だからこそ、かけがえのないものになります。そして、それはお茶席に限らず全てにおいていえること。別れの季節にはこの言葉がいつも身にしみる気がします。ちょっと感傷的かもしれないけれど、それでもこんなことを考える余裕があるから、一瞬一瞬の出会いを大事にしようと改めて思えるのだと思うことにしています。友人、仲間、恋人との出会い、その一方の果てに最も身近な家族、もう一方の先にはゆきずりの人があると思います。身近な人々との当たり前のように捉えてしまいがちな時間、一瞬言葉や視線を交わしただけの人々との時間、どれも同じ形では二度と戻ってこない、貴重な一期一会。死があるから生が輝くように、別れがあるから出会いがいとおしいものになるのだと思いたいです。 


 Humberto Portocarrero2の卒業式。卒業証書を受け取りながら1人の生徒が言いました。「あなたに会えてよかったです。」出会った全ての人にこの言葉が贈れたらと思います。雨が降りやまない、ちょっとセンチメンタルなタリハの夜でした。

2011/12/07

緑の樹海ロボレの旅とDELEの試験





いつの間にか師走です。11月は怒涛のように過ぎていきました。
 
UNEFCOでのセミナーが終わったばかりの11月最初の週末はサンタクルスからバス5時間、世界遺産にも認定されているイエズス会の教会群の1つが残る村サンファン・デ・チキトス(San Juan de Chiquitos)へ、一泊した後夜行列車でさらに5時間、温泉で有名なロボレ(Robore)へと出かけました。TIPNIS問題に関連して1ヶ月以上続いた移動禁止令が解け、喜び勇んで出かけたロボレへの旅は大きな期待を込めたその予想もはるかに超えた素敵なものになりました。何より一緒行った仲間のおかげで、笑いの絶えない旅に(^^)

サンファン・デ・チキトスのプラザで、ひと際目をひく外側は石作り、中は木造の教会は土着の文化を守りつつ、布教活動と共に衛生教育や基礎教育を行って人々の生活の質を高めたイエズス会の僧侶の働きを思わせる静かなたたずまい。老齢ながらかくしゃくとした神父様が時間外にも関わらず礼拝堂をあけてくれました。翌日出かけたロボレの温泉はぶくぶくお湯の湧き出る砂の穴にはまったり、大きな池のようになった暖かい水の中を魚と泳いだり、泥バックをしたりと楽しいもの。ここまでは想像していた範囲。


予想を超えていたのは、絶対に行ってみなさいと地元の人々にすすめられた、ボリビアのエアーズロックとも言われるチュチョスの赤い岩や、その麓に建つ名もなき地元の人々の彫った木の彫刻絵で飾られた簡素な教会、そしてサンティアゴ村(Santiago de chiquits)の山から望む遥かブラジルまで広がる緑の樹海でした。ゆっくり動く雲の影の下はさらに深い緑。もくもくの入道雲は雨を伴って少しずつこちらへ近づいてきます。緑が真っ青な空に映えて、乾いた土と侵食された大地、まばらに生える草木を見慣れた目には眩しいほどで、山の先端から見下ろすと、両腕を広げて緑の海へ飛び降りたい気持ちになりました。ナウシカだ、ラピュタだと騒ぎながら、飛んだり寝転んだり。そしてロボレからサンタクルスへの帰り。ふかふかと快適な夜行列車の車窓からは、煌々と輝く月明かりのもと、チュチョスの岩山とどこまでも続く樹海を眺めることができ、なかなか眠ることができませんでした。




その2週間後にやってきたのがDELEの試験。ふらふらと誘惑に負けることも多かったけれど、仕事が終わって家へ帰った後はDELEの勉強に時間に費やしてきました。試験2日前、17日にラパス入り。携帯電話をタリハに忘れてきて、何かと携帯がないから・・・と周りに迷惑をかけました。なんやかんやと世話をやいてくれた仲間たちに感謝です。早めにラパスに来たのは、日本人にスペイン語を教えなれた先生にDELEに向けた特別授業を受けれると教えてもらったから。そして、この授業が本当に素晴らしかったのです。DELEの練習問題のテキストで解いた問題の中で、わからないものや、答えに納得がいかないものを片っ端から先生にぶつけ、複雑な文の構造の分析や知らない熟語や文法事項を教えてもらう方式。加えてオーラルテストに備えて4コマ漫画の描写やライティングパートの題に応じて書いてきた作文をみてもらいました。たった2日とはいえ、木曜日午後に約3時間、金曜日の朝に1時間、昼に2時間半、また夕方に2時間という集中講座ぶり。そしてその合間は喫茶店で予習・復習を行いました。先生の熱心さと一緒に勉強する仲間の存在で、100%真剣に取り組むことができました。2日間しかないという切羽詰まった状況だからこそもてた時間なのかもしれないけれど、試験当日にはこの集中した時間が終わってしまうのを寂しく思いました。


DELEとはDiplomas de Español como Lengua Extranjeraの略称。C2レベルをトップにA1まで6つのレベルに分かれています。今回受験したのは中級レベルにあたるB2。試験代は900ボリと結構します。試験はリーディング、ライティング、リスニングとグラマーに加えて、個別に時間が設定されたオーラルの5つのパートから成り立っています。ラパスのB2受験者は15人ほど、ドイツ人やフランス人が多くいました。テキストよりリーディングがずっと簡単だったこと、少々時間配分に失敗したけれどライティングもソコソコ書けて、ほっ。休憩時間の後少し気を抜いて臨んだリスニングで・・・。練習問題では他のパートよりはとれそう!?とそれほど心配していなかったのに、まったく集中できなくて、自信が持てる解答が1つもない間に終わってしまいました。その動揺を引きずって、グラマー。難易度はテキストと同じだったけれど、確信のもてない問題がたくさんで、早くに終わって席を立つ受験者が多い中最後まで粘りました。終了の合図の時にはほーっとため息がでる思い。お昼ご飯は受験した仲間たちと会場近くにある日本料理屋「けんちゃん」でお寿司を食べて景気づけして、午後2時40分からのオーラルに備えました。オーラルは練習の甲斐あって、面接官との会話もなめらか、ちょっと笑ってもらうこともできて、細かい間違いを除けば無事終えることができました。先生によると、各パートにつき80%の正答率を求められるというから、なかなかの難関。勝負は(大きく出ても)五分五分といったところ。それでも全力をだして取り組んだもの。結果が楽しみです。


 

 試験翌日、日曜日。仲間のいる標高4000m近い村Curahuara de carangas(クラワラ・デ・カランガス)へ出かけました。El Alto(エル・アルト)からOruro(オルロ)往きミクロに乗って1時間半。途中の村Patacamaya(パタカマヤ)でミクロを乗り換え、そのミクロが一杯になるのを待つこと30分。さらに1時間半かけてクラワラにたどり着きました。日帰りのちょっと強行軍だったけれど、そこで出会ったのはアルパカとリャマとビク―ニャの赤ちゃん。よっぽど運がよくないと見られるものではありません。一人前につばを飛ばして威嚇しようとする2頭のビク―ニャ赤ちゃんのお姉さん格。でも全然つばはとんでこなくて。アルパカとリャマの赤ちゃんはとても臆病。なかなか触らせてくれなかったけど、ふわふわしてとてもかわいいのです。ボリビアではここにしかいないというリャマに似たグワナコも見せてもらいました。凶暴だというこの2頭のグワナコの世話は隊員達にまかされていて、彼らとの攻防戦は(いろんな)涙なしでは聞けない話です。囲いを壊して野菜畑に乗り込み、収穫間近の野菜食べられてしまった、蹴飛ばされて1メートルほど飛ばされた(現場見せてもらいました)などなど。モルモットに似たクイは食用。クラワラのビジネスにできないか考えているそう。一度食べてみた仲間。大きさからもやむをえず、姿焼。後で気持ち悪くなったとか。かわいがっている動物を食べる・・・まだ経験したことのないことです。それも本当はおかしなことなのだけれど。
 

クラワラの見どころの1つは藁ぶき屋根の、塩でできたような白い不思議な教会。スペインからやってきた宣教師によってキリスト教に改宗した、地元のインディヘナの人々によって描かれた絵が残っていました。ほとんど光の差し込まない小さな窓のおかげで、自然の塗料を使っているにもかかわらず、300年たった今でも色鮮やかに保存されています。宗教画はあまり好きでない、というよりよほど有名な物でない限りわからないのですが、ここの絵は聖書にしたがって教えられたことを素直に信じ、それをそのまま写し取って絵にしたような素朴なものでとても魅かれました。最後の晩餐の絵では本来なら皿には魚がのっているはずが、クイになってたりするのをみるとなんだか嬉しくなります。勝手な想像だけれど、頑固だけれど穏やかな人々の気質が伝わってくるようです。人口5000人の本当に何もない静かなこの村で、野菜作りを頑張ってきた仲間は、ぐんと迫ってくるような空を見上げ、週末にはプラザで寝ころんで本を読むととても気持ちいいのだと言いました。日本ではきっと持つことのできない時間だろうと。

翌日、午後5時半、長距離バスでラパスを発ちました。相変わらずのデモと道路封鎖でラパスからエル・アルトまでに1時間以上かかり、さらにオルロとポトシの県境で起こっている衝突のために夜中に長時間バスが止められ、タリハに着いたのは午後1時半。20時間かかったのでした。それでもさほど疲れを感じることもなく、午後からの仕事に出かけました。慣れとはすごいなと思います。このデモと道路封鎖は月末に行われた安全対策会議で提示された資料によると年間1000件を超えるとかで、ボリビアでは1日に3つ別々の場所でこれらが行われていることになります。暇というかなんというか・・・と文句も言いたくなるけれど、差別され虐げられてきた先住民をエンパワーメントへ導いた手段でもあります。タリハへ戻って次週に行われる総会への準備を進めるうちに耳にしたのは、一度は撤回したTIPNISの道路建設を大統領が再開したとのニュースでした。道路建設に反対し1ヶ月以上かけて歩いてラパスにたどり着いたTIPNISの人々とその支持者を事実上の首都であるラパスの住民が町をあげて迎え、ねぎらい、政府との交渉をサポートしたことを思うと、このままですむとは思えません。去年大荒れに荒れたガソリンの大幅値上げ。政府は今年度末も値上げを行うと宣言しており、このTIPNISの動きと相まって、今年の年末もボリビア中が大きく揺れる気がします。豊かな自然と静かな村、その一方で大きく動く時代の流れのようなものがあって、ボリビアの静と動を感じています。

2011/11/16

ボリビアに来て増えたもの・・・


横で遊んでるチェパとマリア・リリア
DELEのテキストを広げつつも、角のパン屋さんで売っているおいしいEmpanada de Quesoをかじり、コーヒーを入れに立ちあがったと思ったら、甘いものがほしくなってチョコレートを取りに行く・・・。ふと、お腹をみてやばいなーと思いました。ボリビアに来て増えたのが体重、だけでは悲しすぎると思うので、他に増えたものを考えてみました。ちょっとではなく、かなり現実逃避。


 まず、スペイン語の語彙。これは、増えれば増えるほどいいもの(^^)それでも今のところやっぱり英語におんぶにだっこしている感はぬぐえません。かの昔、フランス王室とイギリス王室との密接な婚姻関係から英語の語彙に多くのフランス語の語彙が加わりました。ラテンを起源とするそれらの言葉は同じくラテン語族に属するスペイン語にも通ずるわけで、英語の単語をローマ字読みし、すこし語尾をスペイン語風にすると意外に通じてしまうのです。身振り手振りをつけると鬼に金棒?かといって、むやみに使えるわけではなく、例えば英語のI’m embarrassedをスペイン語で言おうとしてEstoy embarazadaなどとすると「妊娠してます」の意味になって、場合によってはすごく恥ずかしい思いをするから、気をつけないとだめなのです。


 それでも困った時のなんとかで、この英語をスペイン語風にしてみるという技?はよく使っていました。けれども、ここのところDELEの勉強をしていて、なまじそれで通じる(これは必ずしも正しいスペイン語になっているというわけではなく、聞いたボリビア人が意味を推測してくれている場合が多い)ばっかりに自分で語彙を増やそうとする努力を怠ってきたのではないかということに気付きました。なんせわからない単語が多くて問題をやればやるほどもうだめだ感が増してきます。英語からスペイン語への回路は良かれ悪しかれできているけれど、スペイン語から英語への回路が出来ていないというのもあるかもしれません。辞書で意味を調べて、なーんだということもしょっちゅうです。Inmediatoが英語のimmediateだったり、legítimaがlegitimateと同じ意味だと気付かなかったりするとがっくし。しかもそれが解答する際のポイントだったりすると・・・。と書いているだけでちょっとストレス。もう少しこつこつ単語を覚えていかなければと反省しつつ、それでも1年前に比べたら語彙が増えているのは確かで、これはやっぱり嬉しいことです。


 それから、趣味。履歴書にすら趣味を書く欄はあるけれど、私は長いことここに読書、音楽鑑賞と箸にも棒にもひっかからない?なんとも非個性的なことを書いてきました。尤も読書に関して言えば、これは本当に自分にとってはなくてはならないもので、本を読むという仕事があったら絶対それについていたと思います。それでも読書は読書。何も目新しことはありません。ちょっとはスポーツをするところを見せないとだめかも、という気持ちになったときだけ、水泳かテニスをつけたしてきました(水泳はともかく、テニスは・・・)。就職して趣味欄を書く必要がなくなってから、それに茶道が加わり、そしてここへきて、バイオリンが加わったと思います。ちょっと勇気をだして、フォルクローレダンスとも書きたいところです。特に長いスカートをひるがえして踊るチャカレラは音楽ともに大好き。バイオリンで弾けるチャカレラのレパートリーも少し増えました。とは言っても、チャカレラはビブラートとリズムが命。音だけおさえられても本当のチャカレラとはいえません。まだまだ音楽が体に沁み通っていなくて、長き道程です。それでも練習が楽しいのだから、どうどうと趣味と書いてもいいだろうと思います。

  カナダから戻った後、なにか日本文化を身につけたいと通った茶道は習い始めて8年ほど。ボリビアにいる今お稽古にはいけないけれど、教室からの便りを読むにつけ、畳の部屋でお釜のしゅんしゅんいう音に耳をすませ、いい匂いのお抹茶をいただきながら、色々な話を聞いたあの時間を懐かしく思います。幸いなことに日本に帰りたいと思うことはそれほど多くないけれど(帰りたくないというのではなく)、日本に帰ってからのことを考える時、家族や友人との再会を別にすると、第一にしたいと思うのはお茶のお稽古に行くことです。そしてそのころ日本にいながら、一番恋しく思うのは、ボリビアの友人やホームステイ先の家族を除いたら、きっとチャカレラの音楽とダンスだろうと思います。チャカレラに限らず、ボリビアの音楽と踊りは働き先の学校でもほんとによく目にし、耳にしているから、この音楽を聴くだけで、恥ずかしげに、あるいは堂々と踊る子供たち、高校生たちの笑顔が思い浮かぶ気がします。


 そして最後に。先日、仲間にボリビアに来てよかったことは何?と尋ねました。その人は自分のやりたいことが見つかったと言いました。自分がやりたいと思ってやってきたことは少し違っていたこと、もっと人間と関わる仕事をしたいということに気付いたことを、具体的にこれから進みたい方向を交えて話してくれました。彼が同じ質問をしてきたとき、私は少し考えてからオープンになったこと、と答えました。ちょっと抽象的で、これを増えた、減ったと言えるものなのかはわからないけれど、オープンになったということは心の許容量が増えたということだと思います。この会話より少し前、別の友人と話していた時、彼が「今のマークがあの頃のマークだったら」もっとずっと素晴らしい仕事ができただろう、と言いました。情熱を持って現在の仕事に取り組んでいる彼もそんな風に以前の仕事を懐かしむことがあるそうです。今の自分があの頃の自分だったら。私が彼のようにはっきり言い切れるとしたら、「今の私があの頃の私だったら」もっとずっと色々なことを学んでいただろう、ということだと思います。そして、それは心の容量が増えたからだと思うのです。


チョビ。この子に会うといいことありそう。
 そんなことを考えてみると、なんだかとっても幸せな気持ちになりました。人は自分が変わった、と思える瞬間が一番しあわせなのではないかと思います。もちろん、この「変わった」感はとても流動的で、小さくて、臆病で、傲慢で、見栄っ張りで、努力が苦手で、自分に甘くて、人に厳しい、なんとも情けない自分像にがっかりすることは、次の瞬間にでも起こりうることなのだけれど、それでも人は自分が成長した、何かを得たと実感することで、物質的に豊かになったときよりずっと幸福を感じるのではないかと思います。それはきっと初めてハイハイから立ちあがって歩き始めた時(覚えてないけど)や1人でサマーキャンプに出掛けた日、初めて友達同士で夜の街に出かけた時の気持ちと似ているのでしょう。

 人と関わる仕事をしたいと仲間が語ってくれたとき、自分の仕事を思いました。大学生の頃図書館にでも勤めようかなと言った時、母はあなたみたいに本にばかり首をつっこんでいる人が図書館なんかに勤めたら本当の人間嫌いになるわよ、と言いました。逆に本嫌いになったかもしれないよと思うこともあるけれど、この母の忠告を聞いたのかどうか、結局教育学を専攻してたいそう人と関わらなければならない職業につきました。あまたの失敗と挫折の歴史だけれど、この仕事から学んだことは大きくて、やっぱりやっていてよかったなと思うのです。これからの自分がどのようにこの職業と関わりたいのか、そしてどう生きていきたいのか、少しやわらかくなった心で考えたいと思います。

 後残り7ヶ月、何が増えていくだろうといい気持ちを膨らませている横で、DELEの本が呼んでいます。本は本でも、幸せ気分もふっとんでしまう憂鬱な本ですが、今は大事な先生。もうしばらく仲良くしようと思います・・・

テラスより

2011/11/03

UNEFCOでの環境教育セミナー



 11月1日月曜日。Dia de los Muertos、死者の日の前夜祭、Dia de los Santos、諸聖人の日。昨夜、環境セミナーの最終日を終えて気持ちも軽く帰宅すると、家中にいい匂いが漂っていました。Chancho de Olla(豚の煮込み)を料理しているのです。日曜日にはエルヴィラの家でパン作りを手伝いました。こうして用意されたテーブルが上記の写真。豚の煮込みを初め、特別のパンやエンパナーダ、フルーツ、ワイン、チチャ、ビールなどが並べられています。死者を迎えるための準備をしているのです。31日はハロウィンの日でもあります。子供のころ"Trick or Treat" と言いながら近所を回ったのは懐かしい思い出。袋一杯2ヶ月分くらいのお菓子を手に入れたのを覚えています。主にプロテスタントの国々で祝われるハロウィンだけれど、日本と同じで少しずつボリビアにも入ってきていて、仮装パーティーが行われたりしています。セミナーとがぶって行けなかったけど、くりぬきカボチャを用意する本格的?なものだったらしくて、かぼちゃ作りやりたかったな。お祭り、催し物大好きなボリビア。そのうち子供が仮装して"Trick or Treat"(←Jugarrea o regalo ??)といいながら近所を回るようになるのかなと思います。


高校生とのアクティビティ
   25日火曜日から3日間、職場DDE(旧SEDUCA)に隣接する現職教師研修ユニットUNEFCO (UNIDAD ESPECIALIZADA FORMACION DE MAESTRO)で教員向けに環境教育セミナーを行いました。アララチ自然保護区へ生徒たちを10月中につれていきたかったもう一つの理由です。もともとは10月初旬に行うはずだったセミナーがモラレス大統領が教員へのコンピューター配布を決めたことで、この作業にUNEFCOの職員も駆り出され、十分な告知ができずに人が集まらず、今の時期となりました。おかげで、アララチ自然保護区についても、また先生達とやろうと思っていたアクティビティをナザリアの子たちとやって、高校生ともできるよという話もすることができました。

初日まだ誰もいない時間・・・
 今回登録者は25人。20人以上(ハードル高い!)登録者がいないと開講できないよ、と言われていたからまず一段階クリア。セミナーを行うこと自体とても久しぶり。この1年で多少学んできたとはいえ環境問題はあまりに複雑すぎて、きちんと理解しているとはとても言えません;プロジェクトの紹介と実施方法を説明する研修を初めて行った時も緊張したけれど、ちょっと理論的な今回のセミナーは新たな緊張感を伴いました。覚えきれない単語はパワーポイントに整理、言葉が足りなくても理解してもらえるように写真や図形をなるべくたくさん用いました。2時間半の授業中、聞きっぱなしでは参加者も疲れてしまうし、そもそも私のスペイン語力も限界がくるから、アクティビティを用意。そこから出てきた様々な答えをどうまとめるかは天にまかせるしかありません。とはいえ相手は先生達。手助けするのには慣れているはず(^^)困った時は任せてしまえと腹をくくったのでした。一度やってみないことには感覚がつかめないのは、体験学習の場合と同じです。

 セミナーのタイトルは”Implementación de Proyectos Ambientales en las Unidades Educativas” 「学校にける環境プロジェクトの実施」という格好いいもの。だいたいこんなことをやるつもりだけど、スペイン語でどう言えばいいかなと相談したところ友人がつけてくれたタイトルです。UNEFCOの職員がつけたタイトルが”Problemáticos de medio ambiente”「環境問題」。うーん、さすがにこれじゃ何やるかわからないよねと愚痴をいったら考えてくれたので、セミナーが伸びたのを幸い差し替えてもらいました。1日目は環境意識の高まりの歴史と世界的環境問題とその相互関係について、2日目は環境教育の概念の発達と持続可能な発展のための教育との関わり、そしてタリハの環境問題を中心に私たちが環境に与える影響とそれを最小限にとどめる工夫を考えました。3日目は年齢に応じた環境教育の理論、持続性のある年間計画の立て方や様々な具体的アイディアの紹介です。北海道のひびきの村での日々、派遣前の技術補完研修や今までに参加したボランティア活動でやってみたことが生きて、小さな工夫で色々なことができると先生達には好評でした。環境教育の仲間が作った教科書にも多くの例が載っていてこれもとても喜ばれました。一番自信がなく心配だったのが1日目の内容。初日ということもあってずいぶんドキドキしました。自分の専門に近い2日目、そして実践的な3日目は慣れてきてもいてだいぶ気が楽でした。パーフェクトとはいかないまでも、それなりに無事3日間を終えることができたのでした。


グループワーク
 全てのUNEFCOのセミナーは3日間の授業とその成果を発表するSocializaciónと呼ばれる日で成り立っています。この4日間(10時間)の授業、プラス課題に費やす12時間で1コース24時間と定められ、1つのコースを修了するごとに証明書が発行されます。4コースで一括り、1課程となり、課程を1つ終えるとさらに修了証明書がもらえ、この証明書は仕事を得る上でも意味があるものとなります。今回私が行ったのは1コース。この証明書だけで大きな力をもつことはないらしいのですが、それでも資格として提示できるようです。現在の自分の知識で1課程、つまり40時間!もの授業ができるとはとても思えないのだけれど、セミナー第二弾くらいできたらいいなと思いました。

   
グループ発表
 31日、ハロウィンの夜がこのSocializaciónの日でした。この日に向けて、環境に関するテーマを1つ選び、授業またはプロジェクトの企画をするという課題をだしました。課題は1人でやっても、グループでやってもよし、90分の授業の案でも、長期にわたるプロジェクトの案でもよい。以前にやったことがあることでもよいし、来年度にやりたい企画でもよい。例はあげたものの形式は自由としました。Socializaciónの日はたった3日後。一体どんな発表になるのか怖くもあり、楽しみでもありました。そして迎えた月曜日。参加した先生達は素晴らしい発表をしてくれました。大学の授業で企画し学校で実際に子供達とやってみたプロジェクトの紹介をした若い先生もいれば、学校緑化計画を実施した過程と困難を説明してくれたベテランの先生もいました。セミナーで学んだことを元に新しく授業案、年間指導計画を提示してくれた先生達もいます。テーマも水、リサイクル、庭づくり、電池の処理と多岐にわたっていました。


素晴らしいフェリア。右隣りが先生。
 そしてここで先生達があげた困難は、私自身が今までタリハで活動してきてぶつかった問題と同じものでした。1つの校舎を2つ、時に3つの学校が併用しているため、例えば木を植えてもぬかれてしまったり、囲いを壊されてしまったりすること、他の先生達の協力がなかなか得られないこと、学校全体で動けないことなどです。午後の学校ならば、午前と夜の学校と如何に協力するか、他教科(環境教育は主に生物の先生の仕事と思われている)の教員をどのように巻き込むか、ボリビアではとても切実な問題だと感じました。教員の労働時間を公務員と同じ8時間とし(SEDUCAの職員もこれにのっとって働いています)、それに見合った給料をだすことが何より必要だと思うのですが、こればかりはすぐすぐ変わるものでも変えられるものでもありません。今在る状況の中でどう工夫できるかを考えていくしかないなと思います。環境に関するあらゆることに少しでも興味がある先生達が、横の連携を深めていくことが必要だと思います。ちょうどセミナー3日目の朝、ある学校の先生が開催するフェリアに招待されました。高校生達がグループに分かれ、土地を見つけて種から野菜を育て、その過程を記録し、収穫した野菜を調理してフェリアで販売するというもの。全て自分たちの手で行った完成度の高いフェリアでした。個人個人でいい活動をしている先生達がお互いの活動をシェアし、協力しあえたら素敵です。環境教育のために来ている私という存在をもっと早く知っていたらと言う参加者もいて、同じ思いを先生達も抱いていると感じました。


メンバーの頭文字で店の名前も
育てたイチゴを誇らしげに

 たった3日間の授業をするだけなのに、準備にはずいぶん時間を費やしましたが、おかげで自分にとってもいい勉強になりました。受講した先生たちの発表も刺激になり、来年2月から6月までの、ボリビアで過ごす最後の学期で自分ができることを考えるきっかけにもなりました。先生達の評価アンケートも幸いポジティブで、セミナーを続けたいと書いている人もいたのでほっ。大きな反省点はやっぱり語学。準備してきたことを話す分には問題ないのですが、参加者の発表や感想を100%理解できませんでした。提出された資料を後からみてああ、そういう意味だったのかと納得する始末。適切なコメントをだすことはやはり難しかったのです。11月19日にはDELEという、英語で言えばTOEICやTOEFLに当たる、スペイン語の試験を受けます。さぼりがちなスペイン語学習のモチベーションになればと思って申し込んだけれど、なんやかやと口実をつけてあまり勉強していませんでした。後2週間。セミナーも終わったことだし、今日から追い込みに入ろうと思います!

11月2日、死者の日のお墓
通っている学校の男の子に会いました。
高いところのお墓に花を飾る仕事をしていました。

2011/10/31

ミミズコンポストとアララチ自然保護区




 9月~10月はタリハに腰を落ち着けて、学校をまわる日々が続きました。評価、試験、補習が始まる11月に入ると、学校での仕事は難しくなります。12月の学年末と卒業式にむけて先生達は大忙しになるのです。新しい学校でリサイクルのシステムを作る活動を続ける傍ら、以前から働き始めた学校ではコンポスト作りを継続します。寒さであまり変化がなかったコンポストも、冬休みがあけて暖かさを増すにつれて活発に分解が進み始めました。

 コンポスト作りは生物の授業を使って行うので対象は日本でいう中学生から高校生。学校、学年、クラスによって反応は様々でしたが、コンポストに使うミミズを実際に観察しながら生態を学ぶ授業はどの生徒も大喜びでした。この授業に向けた準備のおかげで私もミミズについてちょっと詳しくなりました。雌雄同体であることや皮膚で呼吸すること、心臓は5つのパーツに分かれていること、小さな脳とながーい腸をもっていること、環帯と呼ばれる白い輪の部分で生殖活動を行うこと、だから環帯は大人のミミズの証であることなどなど。コンポストにはカリフォルニアミミズ(日本で使われているシマミミズとたぶん同じ)という生ごみを食べる種類を使います。糞に含まれるミネラルによってコンポストの質があがるのです。





 コンポストを作るのは初めて。ネットとボリビアで手に入れた冊子を見ながらこわごわと始めました。材料もそろわずコンポストの寝床も写真の通り。それでも最初に始めた学校ではこげ茶色のほくほくした土ができ始めました。生徒たちは週に1度の生物の時間に混ぜ返しを行い、新たな生ごみを足し、水を撒きます。夏になり、温度があがると週2度水を撒いて、湿り気を保つようにしました。ミミズはどんどん増え、黒々と大きく太ってきています。黄色がかった透明の卵、小さくて白い赤ちゃんミミズやピンクがかった子供ミミズもたくさんいます。興味を持つ生徒ももたない生徒もいるけれど、変化をみるとやはり嬉しそう。近くにあるたくさんある鳩の糞を入れてやってみたらどうだろうと実験用に小さな寝床を作ったのはやんちゃな男の子たちです。出来あがったコンポストは庭の植木にあげたりしていますが、来年は畑を作って野菜を作ろうと話しています。
 
 そんなある金曜日の夜、Escuela de Convenio(カトリック教会の援助を受けている公立の学校)のダンスのプレゼンテーションがありました。通っている学校の1つ、U.E Teresa de Calcuta(マザー・テレサ学校)の先生達と練習していたMexicana(メヒカーナ)というメキシコの踊りを踊りました。先生たちだけではなく、学校を代表して子供や生徒たちも踊ります。6時に開始の予定がようやく7時半ころに始まるという相変わらずのタリハらしさ。創立記念日、母の日、先生の日・・・生徒たちによるボリビア各地のダンスは見慣れてきてもいたし、あまりにも回数が多すぎる上、練習と称して授業がカットされ、ただでさえ午前又は午後のみと授業時間数の少ないボリビアの学校、首を傾げることもありました。ボリビアの子供達の学習時間の少なさは相当なものです。それでも、初めて公に参加したダンス大会。見るだけとは違った楽しさです。メヒカーナはゆっくりした動きの踊りで難しくはないけれど、さすがに緊張。結局全員そろって練習することがなかったから多少?ずれはあったものの、最後まで踊りきって会場から拍手をもらった時はほっとしたのでした。揃えた衣装もフクシア色の長いドレス。着ているだけで楽しい気分になりました。


 そして10月23日、U.E Nazalia Ignacia March(ナザリア・イグナシア・マーチ校)の最終学年、日本でいう高校3年生のクラスを自然保護区へ連れていきました。アルゼンチンとの国境、Belmejo(ベルメホ)への道の途中にあるReserva Natural de Alarachi(アララチ自然保護区)です。サマの自然保護区の職員の仕事について行かせてもらって下見したり、Alarachiの自然保護区を担当するNGO、PROMETAと打ち合わせを進めて、今年中に一度はどこかの学校でやりたいと思っていたけれど、デモや行事で授業時間を削られなかなか実現しなかった体験学習。雨季がはじまったばかりでまだ緑が少なく乾燥したサマより、標高が低く湿度の高いアララチの森が生物の先生の興味をひいて、今回連れて行くことになりました。

 人間の活動が自然に及ぼす影響を考える事前学習をした週末日曜日、Mercado Campesino(メルカド・カンぺシ―ノ)前に集合。集合時間は8時。全員集まったのは8時半。まずまずの出だしです。21人と少人数で仲の良いクラス、一緒に働く2人の生物の先生が引率です。今回、PROMETAとの書類のやりとりやガイドの手配は私がしたけれど、バスの手配をしてくれたのはクラスの男の子たち。学校のない午前中は仕事をして家族の手助けをするボリビアの生徒には社会性があり、思わぬ大人っぽさを見せてくれます。少々ガタのきたミニバスはとてもゆっくりで、ガイドが待っていてくれるはずの小さな村Mamora(マモラ)に到着したのは予定時間を30分以上過ぎた10時半過ぎ。ガイドにもPROMETAの友人にも電話はつながらず、暇げにたたずむ警官は親切だったけれどガイドは知らないとのことで、ミニバスで少し先にあるという保護区の入り口へいってみることにしました。ところがここにも誰もおらず。なんだか嫌な予感・・・。ここまで来ると電話の電波も入らず、お手上げとなりました。保護区の看板からおそらくここだろうと見当をつけて草木の中に入ってみるも地図もなく、引率3人でさてどうしようかと顔を見合わせました。

 それでも少し歩くと水の流れる音が聞こえてきて、川が近いことがわかりました。確か滝があったはずと、川の上流へ向かって30分ほど歩きました(でも、なかった・・・)。石だらけの川沿いをキャーキャーいいながら歩き、川べりでお昼御飯としました。男の子たちが川で泳ぎたがるので、少々心配だったものの許可。早い流れにのって楽しげに遊んでいます。残った生徒たちと写真をとったり、歌を歌ったりして過ごし、川遊びをする男の子の服を女の子が奪いにいったりして(水着はもってきていない・・・)それなりに楽しんではいるものの、さすがにこれだけで帰るわけにはいきません。せっかくお金を出し合ってバスをチャーターしてきたのに、いくらなんでも悲しすぎます。とはいってもガイドをする知識など私にあろうはずもないし、いくら生物の先生でもそれは無理。少々焦ってきた3人。

 
 一度ミニバスへ戻ろうと生徒たちを行かせた直後、男性が1人斜面を降りてくるのが見えました。もしや!と思ったら、ガイドさんでした!マモラで待っていたけれど、来ないから一度保護区へいってみた、それでもいないから、ここへ戻ってきたらミニバスがあったからずっと探していたんだとのこと。そう、実は川べりへ向かっていた時、人の叫び声を聞いた気がしたのでした。一回きりでとぎれたので、気のせいかと思ったのですが、きっと彼だったのでしょう。アルゼンチン人だという男前のガイドさんが天使に見えたのでした。時間は14時。今からでも行けるかと聞くところ構わないとのこと。保護区は実はもう少し先だとのことでバスに乗り込んできたガイドと共に向かいます。途中3つの真っ暗なトンネルを通ると生徒たちは歓声を上げて大はしゃぎ。ちょっと退屈してきたところだったのでと、ガイドさんに言い訳しつつ、彼に会えた安堵感で私たちの気持ちも高揚。


 
 そして連れて行かれたのは熱帯の森。タリハからベルメホへ向かう道は次第に緑が増して日本の景色に似てきます。茶色い禿山から木々に覆われた緑の山へと変わってくるといつも心が浮き立つ思いがしました。その幹線道路からほんの少し中へ入っただけなのに、保護区内の森へ入った途端の気温の変化は劇的でした。湿度がぐんとあがって暑くなります。最初にいた川べりでは寒かったくらいなのに、散策道を少し歩くと汗びっしょり。咲く花々も赤や黄色の原色で派手です。木を切り、道路を通すことでここの気候はかなり変わったことでしょう。木々にまきつく蔓は丈夫だからのぼってみろというガイドの言葉に男の子たちはターザンごっこ。ぶんたんに似た木の実を食べてみるように差し出すガイド。ゴムの木の幹を削って白い汁を出してみせます。つられて華やかな花を折ってしまった女の子。嬉しそうだったけれど、さすがにこれは注意。本来自然保護区ならばそこにあるものを傷つけてはならないけれど、五感を使って自然を体感するのも大切。迷うところだけれど訪れる人間皆がこんなことをしていたら保護区の意味がありません。ガイドの教育はどうしているのだろうと気になりました。


 たった1時間ちょっと(ミニバスではかなり時間かかったけど)下っただけなのに、タリハとは全く異なった気候。ボリビアの豊かさにまた触れた思いでした。滅多にタリハをでることのない生徒たちがはしゃぐのも当然です。帰りはさすがに疲れて眠りこむ生徒たち。それを見ながらやっぱり連れてきてよかった、ガイドに会えて良かった(!)と2人の先生と大満足したのでした。手順を聞いただけなのと、一度経験するのとでは大違い。次回連れて行く時に必要な事柄も、事前・事後学習に盛り込みたい内容もわかってきました。実際ゴミについてはプロジェクトの威力(?)もあって、生徒たちは袋につめたゴミを自慢げに見せ、バナナの皮1つ残すことなく川辺及び保護区を後にしたのでした。12月に卒業するこの子たちと会う機会はもう数少ないけれど、初めて企画して出かけた彼らとの体験学習をきっと忘れないでしょう。そして彼らにとっても東洋から来た外国人との遠出はまた格別だったようで、国際親善(?)にも貢献したのでした。11月には卒業旅行でラパスに行くと言う彼ら。GripeH1N1(インフルエンザ)がはやりだして、学校単位の旅行が禁止になったともいわれているのでちょっと心配です。無事に行けるといいなと思います。18時にはもどっている予定がタリハに到着したのは20時。保護者に何か言われたら携帯に電話しなさいと引率の先生たちが言っています。途中家の近くでバスを降ろしてもらって、3匹のノミをお伴に、気持ち良い疲れを感じながら帰ったのでした。(1匹はシャワーをしたその翌日発見!どこにいたの??)



2011/10/11

TIPNIS ~先住民による大規模なデモ~

 9月26日月曜日、電話による連絡網で28日から行われる予定だった健康診断、安全対策会議、総会が延期、もしくは中止になる旨が通達されました。総会ではサンタクルス市民に向けたフェリアを開催予定で、そのための準備を長くしてきたこと、仲間と会う機会を楽しみにしていたこと、と二重にがっかりだったのですが、タリハにいるとそれほど実感はないものの事態は深刻です。

 政府がベニ(サン・イグナシオ・モホス)とコチャバンバ(ビジャ・トゥナリ)間に通そうとしている道路がイシボロ・セクレ先住民族テリトリー自然保護区、TIPNIS(Territorio Indígena y Parque Nacional Isiboro Secure)を横断することに反対し、先住民グループがデモ行進をし始めたのが8月。TIPNISの人々が自分たちの生活を守ろうと立ちあがったのを他の先住民たちが応援し、さらにそれをサポートとする学生、市民団体、NGOが加わって大規模なものになりつつありました。9月25日、この先住民の行進がTIPINISからラパスへ向かう途中にあるヤクモ(Yacumo)という町に到着した時、警官隊が介入し、催涙ガスなどを使用して死者、けが人、そして大勢の逮捕者がでました。行進には家族連れも多く、子供が亡くなったという話も伝わっています。ヤクモの町は行進に反対しており、この介入は先住民のグループとヤクモの人々との争いを避けるためだったと言われていますが、これにより多くの人々の同情が先住民グループに集まり、26日全国的なデモが行われたのです。総会開催予定地のサンタクルスのプラザでも大勢の人々が集まったとのことで、中央から離れ常に穏やかなタリハでも学校が休校、先生達も大勢デモに参加しました。

 この事態を受けての一連の会合の延期または中止の連絡です。実際26日の昼間、テレビを見ていると騒然とした現場の様子が伝わり、本当に事態が悪くなってボランティア全員引き揚げ・・・という状況にもでもなったらどうしようという思いがちらりと頭を横切ったくらいだったので、その後まわってきた電話の内容に、がっかりはしたもののある程度覚悟はできていました。そしてその夜。大家さんオルガと一緒に見ていたニュースで、モラレス大統領が道路建設の中止を宣言しました・・・・この宣言がまた唐突。全国規模のデモに根負けしてのその場しのぎという事情が丸わかりで、年末年始にかけてのガソリン値上げ問題Gasolinasoを彷彿とさせ、モラレス大統領の評価は(私の中で)地に落ちたのでした・・・。

 このTIPNISの話はデモ行進が始まった頃に前後してよく話題に上っていたし、友人の中にはこのデモ行進に参加するためにベニまで出かけた人もいます。オルガともよくニュースの話をしていました。それでもはっきりしなかったのが、TIPNISの人々の生活を保障し、道路の建設がもたらす利点を伝え、自然をなるべく損なうことなく道路を通す道はなかったのかということです。事態がここまで大きくなる前になぜきちんと話をしなかったのだろうと不思議でした。道路が通される予定地には50家族ほど、それほど多くの先住民が住んでいるわけではないと同僚は言います。それでも時間がたつにつれ、少しずつこのTIPNISにまつわる問題の複雑さがみえてきました。

 大統領の言い分は、このTIPINISを縦断する道路が通されればアマゾンというジャングルに閉ざされているベニ県とパンド県の経済的発展を助けることになるということです。友人たちがベニのサン・イグナシオ・モホスを訪れた時、雨が降って道路が泥の川となりバスが動かなくなって、泥まみれになりながら次の村まで歩いたとのことでした。さらに奥のパンド県へ行くのはもっと難しいのです。アクセスがよくなれば生活の基本である教育や医療の手もより届きやすくなります。道路の建設が実現できればベニ県にあまりあるおいしい牛肉(トリニダ在住の仲間談)をはじめとした特産物を簡単に都市部に輸送できるという利点もあります。自然破壊ということを考えれば、道路が通されない方がいいけれど、これはこうした道路によってもたらされる生活の便利さを享受している町の人間が一概にどうこう言えないことだと感じます。

 先住民の人々の心配は道路の建設に伴う人の移動です。ボリビア高地で行われているコカの栽培は土地の劣化に伴い、生産量が減少しているという話もあり、道路ができることでTIPNIS内にコカ栽培者が入植し、コカを生産し始めるのではないかと心配しているのです。コカの栽培を行うのは主にアイマラの人々であり、その合法性を認めているのはアイマラ出身の大統領です。これにより大統領は国際的な非難をあびてもいます。入植者がTPINISに入って来始めた頃、入植者側代表者としてTIPINIS側の代表者と交渉をしたのは大統領にある前のエボ・モラレスだったそうで、入植者側(多分コカ栽培を行うアイマラの人々側)であるモラレスが今大統領であるという権力にものを言わせて、自分の代表する民族の利益のために働いているととられても仕方ないといえます。そして実際にそういう部分はあるのだと思います。そうなると大統領が言うベニとパンド県、TIPNISの人々の発展のためという歌い文句がうさんくさく聞こえてきます。TIPNISの先住民は土地を奪われる可能性もあるのです。加えて、今回の工事を落札したのはブラジルの会社。TIPNIS内には石油があり、その採掘と輸送、そしてボリビアの安価な品物と労働力をブラジルにいれるために道路をつくりたがっているという話もあります。石油関係の人間のためどころか、麻薬密売人のための道だという人もいます。

 同僚はTIPNISの先住民たちは僻地での自分たちの生活をかえたくない、なぜなら僻地であるからこそ各国のNGOが入ってくるけれど、道路が通ってしまえば生活が変わってしまい、援助が届かなくなることを恐れているのだと言います。援助が途切れることを恐れているかはともかく、私たちの目からみて「文明化」されていないにしろ、彼らが慣れ親しんできた昔ながらの自分たちの暮らしを変えず守りたい気持ちは何より強いものでしょう。そしてNGO等によって行われた調査によると、この道路の建設が世界で最も豊かなものの1つと言われるTIPNISの多様な生物種に与えるダメージは相当大きいとのことです。

 一方モラレス大統領はこの先住民の行進は反米を大っぴらにしている現政権を転覆させようとするアメリカやアメリカの息のかかったNGOが扇動しているのだと主張しています。必ずしもTIPINISの先住民の願いを体現したものではないと。ボリビアに来る前、アメリカがいかにラテンアメリカ諸国の政治経済に介入してきたか、アメリカの多国籍企業がどれだけ搾取を続けてきたかという本を数冊読んできた私には、これも実際のところありえるのかもしれないと思ったりもします。けれどもこれがTIPNISの人々の主張を無視する理由にはなりません。

 ボリビアにはアイマラ・ケチュアなど多数派の先住民、TIPNISの人々をはじめとする少数の先住民、先住民の枠でくくられないボリビア人・・・それぞれの間で色々な考えの違いがあり、そこが多民族を抱えるボリビアの難しさなのだと改めて感じます。同じような問題がタリハでおこったら、タリハの人々の反応も全然違ったものになるはずです。周辺国やその他の国、NGOや企業、それぞれの利益団体にそれぞれの思惑があります。それでも少数の先住民のために多くの人々が立ちあがり、関心をもっていることはいいことだなと感じます。

 大統領はボリビア多民族国家と国名を改め、ボリビアの数多い先住民の権利を尊重するそぶりを見せながら、結局自分の出身民族であるアイマラ族のことしか考えていないのだという批判をタリハでよく耳にします。外向きの言葉だけいいから諸外国はそれに騙されていると。先日オルガのお姉さんエルヴィラとドイツ人の旦那さんのヴォルフカンと話していた時、エボ・モラレスが自然保護区、もしくは先住民テリトリーに関する法律を変える法案を議会にかけていると言っていました。国連で母なる大地(Madre Tierra)の権利について演説してきたばかりの大統領がこの行動。矛盾する言動が多くて、大統領への信頼が失われていくのがわかります。

 10月11日現在も先住民の行進は続き、まもなくラパスに到達しようとしています。この行進を止めるため、軍が出動する可能性は十分あり、そうなったとき惨劇は避けられないとオルガは心配しています。今までの思いつきだけのような行動から多少まぬけな?印象があるけれど(オルガいわくエボ・モラレスは高校も卒業しておらず無学なのだとか)、エボ・モラレス大統領のMAS党は議会の大半を占め、軍部との折り合いも良好。この法案を通すことはたいして難しいことではなく、これを契機に彼がより独裁者としての要素を強めていくことも考えられます。「先住民出身初の大統領」という言葉に込められた希望をエボ・モラレスが裏切らないでくれるといいなと思います。

  TIPNISの先住民を後おしするために行われた26日のデモ。教員組合はじめその他の組合も参加して大きなものになりました。反モラレス大統領の動きが大きくなったともいえます。突然の道路建設停止宣言はこれをおさえるためと思われます。この後10月6・7日にもデモが行われるとか、行われないとかいう噂があり、多くの学校が休校になっていました。これがなんのためのデモかは、実際あまりにもデモがしょっちゅうありすぎてボリビア人達も興味を失っているのか、同僚もニュース見なかったからわからないわ、と言うほどで、はっきりしないまま。TIPNIS関係ではないらしいのですが。

 折しも、この日職場SEDUCA(教育事務所)は大勢の先生達でごった返し、友達からSEDUCAで(に対して?)デモがあるの、と聞かれたくらい。実はエボ・モラレス大統領が教員1人1人にコンピューターを配布することを決め、これを手に入れるために必要な書類を求めて先生達がやってきているのです。例のごとく、コンピューター配布の日程とその方法が突然発表されたため、先生達が大挙してSEDUCAに押し掛けることになりました。9日、日曜日には大統領がタリハ入りして、セレモニーを行いました。全てのコンピューターには大統領の写真がはってあるとか。

 7日木曜日からSEDUCAの入り口前には長い列ができ、建物の中に入ればごったがえす先生達の間をすりぬけて自分の部屋へ行かなければいけないありさまです。一緒に働いている先生達にたくさん出会いました。そのうちの1人はここまで自己宣伝をする大統領は初めてだわ、とため息をつきつつ書類を得るための列に並んでいました。この行為も教員の視線をTIPNISからそらすためだとしたら、大統領(もしくは側近?)は結構知能犯かもと、思ってしまいます。配布を決めたのはかなり前、配布の日程は突然、でしたから。コンピューターはあくまで貸与であって、贈り物ではない、というところに一抹の希望をもちたいところです。自分の生活・仕事を見てもどれだけコンピューターに頼っているかがわかるので、この貸与は使う先生しだいで意味あるものになると思います。

 前回インカ道で出会ったボリビア人の話をしたところ、オルガが言うに、タリハの田舎の村の生活がよくなったのは前年反エボ・モラレス派として更迭された前知事マリオ・コシオ(Mario・Cossio)の政策によるものが大半で、大統領の政策ではない、エボ・モラレスは上手に自分がやったことのような顔をしているだけだということです。これに騙されて多くの農民たちはモラレス大統領を未だに支持しているのだといいます。これもあり得るのかなと思えるのです。この1年と少し、ボリビアを見てきて、政治の腐敗と汚職というものは確かに存在するのだなと感じます。日本の政治がクリーンであるとは決していえないけれど、日本にはない種類の政治の私物化が確実に存在します。

 以上、書き記したことは色々な噂、大家さんや同僚や友人の話、新聞、テレビやラジオ、インターネットから寄せ集めたもの。何が真実なのかは私にはわからないのが正直なところですが、裸足で行進する人達もいるという先住民のグループが無事ラパスに着くこと、軍の標的になるようなことだけはないことを願って事態を見守りたいと思います。

2011/09/28

El Camino de Inca ~インカ道を歩く~




たった1つだけ、珍しいサボテン
 9月24・25日。イギリス人の友人がインカ道を歩くからいこうと誘ってくれました。Mercado Campesinoのさらに先、Parada de Norteに朝7時集合。総勢5人。イギリス人のトム、イタリアのジョルダナ、フランス人のフランシスコ、ボリビア人のアルド、そして私と偶然にもばらばらの国籍だけれど全員タリハ在住。外国人が多いとはいえないタリハ。逆にいえば、トレッキングをしたがるのは外国人くらいだということです。交通網の発達していないボリビアにおいて、歩くことは日常の移動の手段でもあります。緑と水と山の空気を楽しむためのウォーキングの概念はあまりないようです。タリハの自然を知るための最もお金のかからない娯楽。ずっとここを歩きたかった理由は「インカ道(El camino del Inca)」という浪漫のある名前に魅かれたこともあるけれど、学校の課外学習に組み込めないかと考えたからでもあります。今回の行程は一泊。ここまで長いものは無理でも、一部なりと出来ないか探りたいところ。

見慣れない顔!?
 まずは小さな乗合バスでサマの山を越えた最初の町イスカヤチ(Iscayachi)へ。少し休憩した後、新たな客を乗せ同じバスがインカ道の入り口タクサラ(Tajsara)へ連れて行ってくれました(45ボリ)。ラグナ・グランデ(Laguna Grande)、通称タクサラ湖(Laguna de Takjsara)はフラミンゴがみれることで知られているけれど、まだ飛来していません。乾季で小さくなった湖を横に歩き始めます。やがてサマ自然保護区(Reserva de Sama)の入り口を示す看板。このタクサラには女性の織物グループがあって、サン・ロケ教会前では草木染めのポンチョやマフラーを初めかわいい小物をたくさん売っています。歩きはじめは平坦。途中でリャマの大群発見。もちろん野生ではありません。オルロに住み、農業に携わる仲間からタリハのリャマは優秀だと聞いています。エリートリャマの集まるリャマコンテストでも注目をひいていたとか。気候と食べ物のせいだろうといいます。トムが言うに、タリハのリャマの飼育は草を根こそぎ食べてしまう羊に変わる家畜として、NGOが導入したのが始まりだそう。リャマは草の葉の部分のみを食べるし、その毛は良質。いいアイディアだと思います。それはともかく、愛嬌あるリャマはかわいくて、ジョルダナと沢山写真をとりました。

牛を追う人
 やがて道は登り坂。始めた地点で2500m辺り。3000mを超えてくる地点になると息切れがして、苦しくなります。ようやく「ここからは下りだよ」という場所でお昼休憩。フランシスコの持ってきたツナに、イタリアに帰っていたばかりというジョージアナの持ってきたおいしいパルメザンチーズ。私は梨と母が送ってくれた飴を提供。二つのvalle(谷)を結ぶこの地点で多くの旅人が休憩をしたとのことで、石塚ができていました。涼しい風の吹く山あいでとる食事は最高。ここからEl Camino de Inca、インカ道の始まりです。丹念に並べられた大きな石。すり減ってなめらかになった表面が年月を感じさせます。この道があのマチュピチュ遺跡から続いてきたのです。けれども目の前にはそんな感傷もふきとばす、悲しい風景も広がっています。美しい山の稜線を引き裂くように走る道路。たった一本の車がすれ違うこともできない道は雑に機械を使って作られたため、山の水の流れを変えてしまい、ひどい土壌侵食と土砂崩れを引き起こしています。そうまでして作った道なのに、私たちが歩いていた数時間の間、走っている車をみることは一台もなかったのです。山に住む人で車を持っている人は少ないという事情もありますが、実際のところあの崩れ具合では車が走ることは早々にできなくなるのではないでしょうか。サマのレンジャー達と働くトムはこうした事情に詳しく、色々と説明してくれます。



 ひたすら下る道は上りとは違ったつらさがあり、2時間も歩いた頃にはすっかり足が笑っていました。やがて今日泊まる予定の小さい集落が見えてきました。山小屋があいていれば、そこに、あいていなければ近くの民家に泊めてもらうとの話でした。もう少し、と思いながら前を見ると、ずっと先を歩いていた3人が大地の切れ目で立ち止まっています。さらに遠くの集落を指さすアルド、信じられない、冗談だろという風に大きく手をひろげて片手を頭にやるフランシスコ。それを見て、横を歩くジョルダナも「信じたくないわ」といいます。追いついた私たちにフランシスコは「もし、誰も人がいなければあっちの集落まで歩かないとだめだって言うんだよ。」とどう見ても2・3時間はかかりそうな先にある集落を指さしました。日はもう落ちつつあります。まさかね、と思いつつ、集落にたどり着くと、山小屋は予想通り閉鎖。タリハ仲間が以前インカ道を歩いた際、壊れていた屋根は今はなおされているようです。雨がふってひどい目にあったとか。アルドは山小屋に行くことなく、まっすぐ小さな店に導きます。そしてここに泊まることになったのです。いたずら好きのアルドにまんまと担がれたのでした。

 日が落ちてから急激に冷え込んできました。ベットの用意をしてくれるこの家のお母さんは8人の子持ち。その子供達の大半は結婚してブエノスアイレスに住んでいるそうで、年末にはみな帰ってくるとのことです。どこから来たのかという話のあと、話は地震のことに。地面が揺れるのだというと、信じられない様子。カフェ色に染まっているとはいえ、お母さんの顔だちはとても日本人的。アジアからベーリング海峡を経て、北アメリカから南アメリカへ南下してきた人々がいたことを実感します。粗末な小屋ながらろうそくをともし、寒くないようにと毛布をたくさん用意してくれた部屋は居心地よくあたたかでした。夕食を待つ間、お母さんの用意してくれたパスタの煮込み(Guiso de Fideo)を食べながら、そしてお茶とクッキーでくつろぎ、ウイスキーの瓶を回しながら、言葉や習慣、料理を話題に話が咲いたのでした。星は降るように瞬いているけれど、風がひどく吹く大荒れの夜でした。翌日はうってかわってやわらかい朝の光が土で作った家と石垣に囲まれた小さな畑を照らす穏やかで美しい日。山からひいた水は冷たく、揚げたてのブニュエロとコーヒーの朝ご飯がとてもおいしかった。9時、泊まらせてくれた家のお母さんとお父さんに挨拶をして出発(夕飯、朝ご飯込で35ボリ!)。さらに下り、石だらけの川を横切ります。地下水が湧き出て小さな流れをつくり、やがて川になっていく様子がわかります。水量が増え、泳いだら気持ちよさそうな薄い緑いろの澄んだ水たまりがあちこちで見られます。今度は水着を持ってこようと言いあいました。川を離れて再度山を登るつめると目指す村がずっと下に見えました。さらにインカ道をたどり、ごろごろ転がる石の間に足をとられ、とられしつつ歩くこと5時間あまり、ようやく山の麓に到着しました。振り返ると遥かにそびえる山。あそこから降りてきたとは信じられない思いでした。


石がごろごろ、ここからさらに登り、
左下木々が見える場所まで下る。


 宿のすぐ近くで出会って一緒に下山した2人組イサベルとロセンド(この二日の行程で唯一出会ったハイカー)。新しく旅行会社を始めるのでインカ道のガイドができるように歩いているのだと言います。ロセンドはお祖父さんが日本人とのこと。名字は「シムラ」だそう。戦前アルゼンチンからタリハに来てここに住み着いたそうです。漢字を少し書けるそう。イサベルはPlan Internacionalで働いていたことがある女の子。村をたくさん回っていたそうで、エボ政権
到着!タクシーある!?
は色々と言われているけれど、村の発展に力をいれる彼の政策は効果をあげていると話してくれました。ラパス県に限らず?と聞くと、タリハでもどこでもと。その代わり中産階級以上に対する政策がおざなりだから、彼らからひどく批判されている、全てに万遍なくとはいかないものね、と言います。実際、今回のハイキングで目にした山あいの集落の家々にはソーラーパネルがつけられ、学校は広々と新しく、家々の壁は輝くように白く塗られてシャーガス病の防止を意識し、生活の向上が覗われます。変化がいつからどのように起こり、どこまでがエボ大統領の政策と関わっているのかはわかりませんが、貧富の差をなくすために社会主義政策を推し進めるエボ・モラレス大統領を支持する人々の多くが貧困層である理由がよくわかります。

 エボ・モラレス大統領の株がちょっと上がったその翌日。再度がた下がりするようなことが起こったのでした・・・