2012/02/24

活動20ヶ月目!


2月半ば、学校へ打ち合わせに行き始めました。夏休みが明けて2ヶ月ぶり。学校の先生たちも「どうしてたの!?」と歓迎してくれて、ちょっと嬉しい訪問です。ボリビアの新学期は2月から始まります。毎年この時期にInscripciónといって 生徒と保護者が行きたい学校へ行って登録をする仕組みです。もちろん各学校定員があるからそうコロコロ変わるわけにもいかないし、毎年の登録は大変ではありますが、1年通った学校が子供に合わなければ比較的簡単に別の学校へ変わることができます。この時期まだ休暇から戻ってきてない生徒も多くて、学校はすかすか。25人の生徒中18人しかいないなんてクラスもあります。

U.E Teresa de Calcuta(テレサ・デ・カルクタ校)へは昨年なかなか全体で動けず、一緒に働いた先生はもう嫌になっていないかなーと多少心配しながら行ったのだけど、担当のクリスティーナ先生は新たに協力してくれる先生も見つけ、保護者のなかにもリサイクル業者を営んでいる人がいるし、高等部とも連携したいと色々とプランをもっていていい始まりになりました。実はここの高等部(午前の部)では以前紹介した、生徒と野菜作りを行って素敵なフェリアを開いた先生も教えていて、来年(今年)はコラボしようと話していたのです。先生達同志で話が通じているなら尚更理想的!

U.E La Salle(サジェ校)は先生、生徒向けのワークショップを終えたところで夏休みに入りました。ここは公立ながら、伝統のある学校で保護者、生徒ともに教育に熱心。とても人気があって1年生の保護者のなかには登録をするために徹夜で学校の前に並んだ人もいるほどです。生徒も全員そろっています。ここでまず昨年あまりできなかった生徒を中心にした取り組みをしたいと考えています。提案してみると校長先生も、委員会の先生たちも前向き。もう少し計画を練るためにある日の午前中に担当の先生4人が私のオフィスに集まってきました。まず手始めに5・6年生が分別の仕方と注意点を書いた壁新聞を作り、下級生のクラスをまわって説明し、壁に貼っていく、そして同じく5・6年生の有志で環境委員会を作り、分別の管理と評価も行っていくことになりました。この環境委員会が自主的に動けるようになれたら!そう簡単にはいかないけれど、初めの一歩。うまく軌道にのりますように。
 
そして嬉しい驚きは、昼休憩も近い時間にひょっこりDurvyn(ドゥルビィン)が訪ねてきたこと。ベネズエラ留学の日程が未だにはっきりせず、情報もないということでとりあえず今まで働いていたU.E. Humberto Portocarrero 2(ウンベルト・ポルトカレロ校)に戻ってきたそうです。ウンベルト高校は彼女の協力でリサイクルのシステム作りからコンポスト・紙すきまでやりたかったことがだいたいでき、最後に環境フェリアをし、卒業式にも出席して気持ちよく終わることができた学校です。先生たちの遠足にも参加させてもらって、サマの山の麓でParillada(バーベキュー)をしに行きました。今学期はChaco(チャコ)のほうへ行く企画が出ているそうで、これも楽しみです。みんな来るのを待っているよと嬉しい言葉。実際、数日後に出かけると、去年の担当の先生たちはプロジェクトを続けようとやる気。昨年は初めての試みであまり成果があがったとはいえないから、今年はもっとよくしたい、そのためには評価の仕組みをしっかり作らないといけない、コンポストを使い畑作りを全校生徒でするために学校脇の土地を使えるよう市に要請しよう等々これも色々な案がでて、説得力のある要請書を書くために、カーニバル後私の職場で集まろうということになりました。

コンパドレの日
2月当初は登録、そしてカーニバルで何もできないだろうと覚悟はしていたけれど、ずっとオフィスに詰めているとちょっとくさくさするところもあって こんな風に学校に行けるのは楽しいことです。今年のカーニバルは去年よりずっと早まって18日から21日まで。そのおかげで、その2週間前の木曜日にCompadre(コンパドレ)、翌週にComadre(コンマドレ)、そしてカーニバルの翌週にEntrada Folclórica(エントラーダ・フォルクロリコ)と主だったお祭りが2月に終わります。「おかげで」というのはお祭り期間中ほとんど仕事にならないから。去年はカーニバルがもっと遅くて3月一杯ほとんど何もできなかったのです。葡萄の町Valle de Concepción(バジェ・デ・コンセプシオン)のお祭りは3月最初の1週間。これは少し離れた村で行われるからタリハ市内の学校にあまり影響はありません。
 
職場でタリハ料理サイセをみんなでCompartir!

コンマドレ用のパンを焼く
マリア・リリアとコンマドレに

12月から1月にかけてほぼ2カ月あった夏休み。(まだ書ききれていないけれど)サンタクルス内をピンポン玉のように動いて、自然に根ざした暮らしをしながら滞在者を受け入れる家族やイタリア人が営む芸術に重点をおいたフリースクール、日系移住地の大きな農家などを訪れました。1月末にはイグアスの滝を中心にパラグアイ、アルゼンチン、ブラジルを巡る短いけど盛りだくさんの旅もしました。
 

そんなこんなで1月タリハにいたのは1週間(出かけ過ぎ!?)。この間10月末に行った4日間の教員向けワークショップを再度行いました。40人以上登録があるけど大丈夫かとわざわざUNEFCOの職員が電話をくれたけれど、蓋をあけてみれば前回と同じく25人。ちょうどいい人数で始められました。環境に関するプロジェクトに興味のある校長先生やベテランの先生に混ざって、少しでも資格のほしい若い先生達がやってきます。

ワークショップで大切にしたいのは「何について考えるかではなく、どのように考えるか」。自分なりのテーマです。本やインターネットを見れば基本的なデータは得られる時代。そのデータを基にどのように考えるのかは、こうしさえすればいいという1つの答えなどない環境問題に取り組むには何より大事です。考えることを中心に据えたアクティビティをいくつか体験してもらい、自分たちで学校内の研修や教室で実際に使えるようにしました。紹介するアクティビティは本で見つけたものの他、同じく環境問題に携わる友人に教えてもらったり、彼らが実際に行っている現場を見学させてもらったりしたものです。学校現場ということもあり、授業案もしくはプロジェクト案を作るのに必要な年間計画、月間計画の立て方、学習指導案や教員同士の協力体制の作り方なども伝えてきました。こうして書いていると大層格好よく聞こえることに自分でもびっくりだけど、実は結構グダグダだったりします。特に今回は2回めということもあって逆に気がぬけたところもあって、これは猛省。慣れとは怖い。そして最大の問題点はやっぱり言葉・・・。


加えてもう一度考えなければいけないのはテーマのこと。「どのように考えるか」を教えることは言葉でいったら簡単だけど、壮大なテーマ。生徒に「どのように考えるか」を伝えるためには先生が「どのように考えるか」を考えていなければならず、しいては先生達にその大切さを説く私自身が、ということになるわけで・・・。私にとって、とても厳しい問いかけです。「教育は生徒に知識を植え付けるものではなく、教師と生徒の対話を通した学びに基づくものでなければならない」と言ったのはブラジルの教育学者パウロ・フレイレ。絶対的に正しい知識を持った教師(植民者)とそれを教えられるべき“未開”の生徒(被植民者)という従来の教師―生徒関係を批判し、多文化教育や先住民教育をはじめ教育全般に大きな影響を与えて、繰り返し引用されてきた言葉です。脱植民地主義を掲げるエボ政権の新しい教育法では1つの柱(言葉だけが独り歩きしている感はあるけれど)となっています。理想と現実のはざまで頭から消し去っていた言葉に思わぬところで再会です。教えることと学ぶこと。対極にありそうでいて、実は重なり合っているこの2つ。3月に行う次回のワークショップに向けて頭が許す限り考えをまとめたいと思います。

2012/02/10

バジェ・グランデ~チェ・ゲバラの面影を訪ねて~



夜11時半。
窓をあけると、
ざっざっ、ざあー。
ざっざっ、さあー。
通りの石畳を掃く規則正しい音。

1月2日、サマイパタからバジェ・グランデ(Valle Grande) へ出かけました。サンタクルスを出てサマイパタに11時~12時の間に通りかかるはずのバスを待ちます。何があったのか、12時をまわってやってきたバスは人でいっぱい。通路にも椅子を持ち込んだ人々が座っています。荷物の配達もかねているバスはしょっ中止まって、バジェについたのは午後4時前。最初は通路に座り込んでお弁当を食べたりしたけど、途中から外の景色が見たくて親子連れの座席のひじ掛けに腰かけさせてもらいました。この親子、母親と20代くらいの娘さんなのですが、娘が母親の胸に顔をよせ、母親は娘の髪に頭をもたせかけて、聖母子像のように眠っていました。日本では見かけない光景だなあと思いながら見ていました。バジェ・グランデはタリハと変わらない標高。緑が美しくて目が癒されます。

帰りの乗合タクシー(60ボリ)を予約。年末年始で移動する人々が多くどの会社も一杯でした。それからプラザに向かいます。静かな村。緩やかな坂が連なって、先が見えないところにちょっと趣があります。プラザの前のホテルをとって、観光案内所にいき、夕方17:00からのツアーを申し込みました。30ボリで病院(Hospital Señor de Malta)、チェが埋葬されていた場所、ゲリラ戦士の墓をタクシーで回ってくれます。

クリスマスの日に食事に出かけた友人Mariana(マリアナ)のお父さんがここの出身で、チェの遺体が運ばれた病院のLavanderia(洗濯場)で死体が公開された時、村人たちに混ざって見に行ったそうです。「すごく重要な人物の遺体が着くと聞いておばあさんと行った。9歳だった。」バジェ・グランデのカーニバルは有名だそうで、2月に行けばいいのになあと残念がりながら、色々な写真や本を見せてくれました。

チェ・ゲバラ、本名エルネスト・ゲバラはや映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」やソダーバーグ監督による2部作でも描かれているアルゼンチン生まれの革命家です。裕福な家に生まれますが、医学生の時に友人と二人バイクでラテンアメリカをまわる旅をし、そこで多くの貧しい人々の生活や暖かさに触れて、彼らを抑圧、搾取、不正から解放したいと社会主義思想に目覚めていきます。医学部を卒業してから社会主義革命の進行するグアテマラへ行きますが、アメリカのCIAや多国籍企業の後ろ盾をうけた軍部政権による逮捕、処刑が始まったため、メキシコへ向かいます。ここでフィデル・カストロと出会い、彼に協力してキューバ革命を成功させました。キューバ時代は経済相として日本にも来たことがあるとか。アメリカによる植民地支配を厳しく批判するだけでなく、社会主義国の後ろ盾となりつつ支配しようとするソ連にもその矛先をむけ、アメリカに対抗するためにソ連に頼らざるをえないキューバに居づらくなります。より自分を必要としてくれるところへとアフリカのコンゴを経て、ボリビアへ潜入しました・・・というのがお父さんとそして同じタリハのシニア隊員から借りた本から得た知識。

ゲバラはここボリビアでは人々の、特に共に闘おうと考えていた農民の支持を得ることができませんでした。ゲバラがボリビアにいることを察知したアメリカの精鋭部隊がボリビア人部隊を訓練し、包囲網を狭めてくる中、いくつかの部隊に分かれてジャングルで戦うゲバラの部隊は互いに連絡を取り合うこともできず追い詰められていきます。なぜゲバラがボリビアで支持を得ることができなかったのか。マリアナのお父さんは1952年のビクトル・パス・エステンソロ(タリハ出身)による社会主義的政策の一環、農地改革でボリビアの先住民に農地が分け与えられた後で、モチベーションが高くなかったといいます。政府の報復を恐れたのです。先住民の割合の高いボリビアでアルゼンチン人のゲバラはあくまでGauchoでありよそものの白人にすぎなかったのかもしれません。ツアーのお兄さんに聞いてみたら「ゲバラが何者か誰もしらなかったんだ」との答え。テレビだってない時代、単純だけどこれもありえそう。




セニョールデマルタ病院は現在も普通に病院として機能していてこの日も、翌日の朝もう一度出かけた時も、順番を待つ患者さんを見かけました。死体洗濯場、解剖室は見学者向けに公開されています。洗濯場は訪れた大勢の人たちのメッセージで埋まっていました。ハンカチで鼻を押さえながら遺体の周りを巡る村人、誇らしげに遺体と共におさまっている兵士たちなどここで撮られた写真を多く目にしてきたので、私にとって一番ゲバラを感じられる場所でした。死体解剖室は洗濯場よりさらに小高い場所にあって、ここは現在も使われているそう。血の跡がたくさん残っていて、ゲバラの手が切り落とされる様子など想像してしまいました。この手は確認のためにキューバに送られています。


 
前列左端がチェ・ゲバラの墓

ゲバラの遺体が埋葬されていた場所は長く隠されていて、死ぬ間際のボリビア軍人の告白によって遺骨が発掘されたのはつい最近1997年のことです。遺骨はキューバに送られ、家族やカストロ大統領はじめキューバの人々に盛大に迎えられました。今はサンタクララの霊廟に眠っています。発掘現場に記念館が建てられ、多くの写真が飾られていました。強い信念を持ちながらも、優しい人好きのする人柄があらわれている写真ばかりです。最後にFosa de Guerilleros、12人のゲリラ戦士が眠る墓に行きました。共同墓地に葬られていたのが、ここに集められたのです。女性ゲリラ、タニアさんが所属していた部隊。たった1人の女性ということもあり、憐れんだ村の女性によって遺体は初め村の墓地に埋められたそう。同じ部隊にはマイムラさんという日系の方もいたと後から知りました。


夕暮れのやわらかい光の中でみるゲバラの最後の地は美しくてなんだか心がしんとするようでした。と、浸っていたらタクシーの運転手が思いっきり水たまりに突っ込んで茶色い泥水がどばっと窓から飛び込んできてぶち壊されたりもしましたが。「窓があいてるとは思わなかったんだ~。ハハハ―。」ですって。ちょっとくらい謝れ~!!

これだけの世界に知られ、伝説的な英雄となっているチェ・ゲバラ。ゲバラを処刑した地であるボリビアだけど、社会主義政策を進め、キューバやベネズエラと親交を深めるエボ・モラレス大統領のもと、彼の名はボリビア人の間でも知られつつあります。それでもバジェ・グランデは商売っ気一つなく(日本なら絶対ゲバラグッズが山ほど売られているはず)、何か記念にと思っていたからちょっと拍子抜けしたけれど、これはこれでいいなあと思いました。プラザに戻ってからマーケットの方へぶらぶら。少し人の姿は増えていたけれど、あくまでのんびりとしたしずかーな村でした。

翌日出かけたゲバラ博物館のあるCasa Municipal。小さいながらゲバラの略歴や活動がたくさんの写真とともにわかりやすく展示されています。その中にゲバラが両親や子供達に残した手紙の抜粋がありました。

...One day we were asked who should be notified in case of our death and the reality of this possibility hit us all.  Later we understood how true this was.  In a revolution, you triumph or you die (if it is a true revolution). 

...I believed armed combat is the only solution for people who fight for their freedom and I am consequent with my beliefs.  Many will say I am an adventurer, and I am, only a different sort and I act according to what I believe to be true... 

...Remember that the Revolution is what is most important and each of us alone, is worth nothing.  Above all, always be capable of deeply feeling any injustice committed against anyone in any part of the world.  That is most beautiful quality of a revolutionary...

本でも読んだことがある別れの手紙。心打たれるけれど、ボリビアの貧しく虐げられているはずの民衆にゲバラの思いが届かなかった以上に、「革命」や「武器をもって立ちあがる」という言葉は私にはしっくりしませんでした。しっくりこないというもどかしさには理解できるものならしたいという思いがあります。昨年エジプトで始まりその後中東へ広がった市民の蜂起。革命に流血つきものだと言うけれど、血を流さずにすむものならば彼らだって流したくなんかなかったはずだと思うのです。それでもぎりぎりまで追い詰められた人々がとった手段はやっぱり革命であり、武器を手にすることでした。政治や経済は苦手だという私にそれはきちんと読んだことがないからにすぎないよと友人が言いました。理解したいと思いながらそうしようとしないのは、知ってしまった後の無力感やそれでも革命や闘いや抵抗という勇気ある選択をすることができるとは思えない自分からの逃げかもしれません。

ゲバラの最後の日記には自分の死が近いことを予想している記述があります。共に闘うはずだったボリビアの農民の裏切りにあい、CIAとボリビア軍の包囲網に追い詰められ、次々仲間を失い、喘息に苦しみつつ、ジャングルの中を移動するゲバラは何を考えていたのだろうか想像してみます。無力感や失敗だったという思いはあったのかなと。「私と行動を共にした一番いい銃弾、決して色あせない子供の頃の記憶、心に残る人生の断片、これらを革命にささげる。人をつなぐ力は何より強力なのだ。」映画で語られたゲバラの言葉です。不正義への激しい怒りと同志たちとの堅い絆。理想とする社会を実現させたいという断固とした信念。虐げられた人々への愛。端正な容姿とカリスマ性。色々な要素がゲバラという人間を動かし、あのような人生を送らせました。ゲリラ、革命家、闘士。強い名詞を伴って呼ばれるゲバラだけど、そんな彼を根底で支えていたのは幸せな記憶と人を信じる気持ちだと知ると少しほっとする思いがします。多くの人々が彼に惹きつけられる訳がわかる気がしました。

今ヨーロッパを中心に少しずつ広がっている反資本主義の動き。資本主義社会の顔だったアメリカの多国籍企業による搾取を植民地主義と強く批判し、社会主義思想に傾倒しながら、社会主義大国ソ連や中国の途上国に対する態度もまた資本主義的だと厳しく言い切ったゲバラ。彼が理想とした社会は、今何かがおかしいと感じ始めている人々が模索している新しい社会の在り方と同じ線上にあるのかもしれません。そして実はこれは環境問題とも切っても切り離せない問題です。最近読み始めた本に注意深くもはっきり述べられているように「私たちがモノ(STUFF)を作り、使い、そして投げ捨てているそのやり方をきちんと見つめれば、資本主義と呼ばれているある特定の経済体制の本質的機能が引き起こすかなり深刻な問題にぶつかります。はっきり言えば、資本主義は、これが現在のように機能していくならば、持続的ではないのです。(The story of stuff)」ハリ―・ポッター風にいうならば「the Economic-System-That-Must-Not-Be-Named (名前を言ってはいけない経済体制)」。ボリビアでささやかに環境教育に関わりながら感じる違和感の正体。亀よりもナマケモノよりもゆっくりのスピードで(1年半もあったのに!)環境にまつわる問題について学びながら、ぶつかるのはやっぱり政治と経済。一度は逃げたけれど、やっぱりきちんと向き合わなければいけないようです。そうすれば、ゲバラについてももう少し理解できるようになるのかもしれないと思いました。その時は今回は行けなかったイゲラ村に行きたいなと思います。

Casa Munincipal

2012/02/03

ボリビアの家族~La Familia extensa~


年が明けて、あっという間に1月も終わり。
旧正月も過ぎてしまって今さらですが・・・
謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
今年が平和で穏やかな年になりますように。

年末はサマイパタで同期と過ごしました。紅白をみながら、キムチ鍋をつつき、年越しそばをすすり、お酒を注ぎあって。行動力のある人たちが集まっているからあれよあれよという間に用意が整って、私は時に台所を冷やかすだけで、もっぱら食べる方専門。外国で紅白を見るのは初めて。東北への気持ちを込めた歌が多くて、歌う人の特別な思いを強く感じました。ボリビアにいながら日本のお正月らしい雰囲気で新しい年を迎えることができました。カウントダウンは除夜の鐘のかわりに次々あがる花火を眺めながら。

長く続いてきた伝統や習慣はやっぱりいいなと思います。日本にとってお正月が家族が集う大切な日なら、ボリビアではクリスマスがそれにあたります。卒業式が終わって一段落した12月。オルロで水祭りのお手伝いをし(お茶を点ててきました)、ラパスでAPC申請のために大使館にいき、ついでに?仲間とチョリ―タさんのプロレス、その名もLucha Libreを見に行ったり(これが完全なやらせなんだけど、すっごいおもしろい!)、日本やカナダやタリハ(なぜ?だけど4人も集まった)からの友人と会ったりして過ごしましたが、クリスマス前にはタリハに戻りました。ここボリビアで私の家族にあたるのは大家さんオルガとその家族。やっぱり彼らと過ごしたいなと思ったのです。





24日は朝から土曜マーケットへ買い物。巻き寿司をつくります。Sushiはボリビアでも有名。先日サンタクルスで材料も仕入れてきました。寿司でなくともsushiは作れるはず!日本では作ったことないから見かけは悪いけど、味はいけるはず!中身はツナマヨ、しいたけ、ほうれん草、卵とシンプル。お醤油とわさびを用意します。オルガがボリビアのクリスマス料理ピカーナを作っているから、おつまみにしてもらいます。作り終わってほっとする間もなく、仕事のパートナー、イルセンから電話です。今から迎えにいくから、ピカーナを食べにいらっしゃいとのこと。「私のピカーナを食べれるようにちゃんとお腹をあけとくのよ」とオルガにおどされながら出かけました。ピカーナのはしご。

帰ってきたらもう11時過ぎ。オルガの息子ミゲル一家とお姉さんエルヴィラ一家が来ていました。そして12時。贈り物をあける時間。主人公はやっぱりマリア・リリアです。クリスマスツリーの下のプレゼントをとってはお母さんに名前を読んでもらい、みんなに渡していきます。自分のだったら大喜びで、ビリビリ包装紙をやぶいてプレゼントをとりだします。私もいくつか贈り物をもらいました。


翌日クリスマス。再び同じメンバーが朝のお茶をしにやってきました。マリア・リリアのお母さんフリアの作った苺トルタ。おいしい!同期のちーちゃんもおすしを食べにきてくれます。大家さんのピカーナも一緒にぺろり。そうしている間にも、コチャバンバに住む姪一家が訪ねてきます。そして昼食によばれて友人宅に出かけようとすると、今度は市内に住む姪とその子供達(マリア・リリアの従弟)やラパスに住む甥がやってくるのに出会いました。クリスマスはこんな風に親戚一同お互いを訪ねあいます。オルガも午後はバジェにいってくるわと言っていました。タリハから車で30分、ワインで有名なバジェ(Valle de Concepción)にはオルガの実家があって、お母さんと妹一家がいます。近いから週1回は必ず訪れているバジェだけど、やっぱりクリスマスにはどんなに忙しくても行くのです。



年末から訪れていたサンタクルスで仲間の活動先を訪ねたある夜。ボリビアの友人2人を交えてパティオでおしゃべりしながらでたのがsobrino/a(甥/姪)という言葉の意味でした。日本では兄弟の子供を意味するけれど、ボリビアでは従姉妹の子供をも含むとか。ボリビアは日本に比べると子だくさん。還暦を迎えたオルガが8人兄弟なのは頷けても、年下の友人が8人兄弟なのにはびっくり。兄弟姉妹の数が多ければ家族のメンバーが増えるのは当たり前。それに加えて「家族」という単位の枠が広いのです。日本のように祖父母、父母、子供(孫)の一本の線ではなく、横に広がって枝分かれしています。それだけの大人数がクリスマスに1つの場所に一度に集まれないから、大勢の訪問者!という結果になるのです。

カナダにいた頃、同じ留学生でもメキシコ人の友達が家族や親せきと密に連絡を取っている様子に、面倒くさそうと思いつつどこか羨ましい思いをしたことがあります。この友人の家を訪ねたクリスマス休暇、家族や親せきあげて歓迎してくれて嬉しかったのに、入れ替わり立ち替わり訪れる親戚との食事会や家族行事にいっぱいいっぱい。伯父と伯母、父の従弟とその家族、従妹の誰々・・・次々と紹介されて、頭がクラクラ。部屋でぐたっと休んで友達のお母さんに心配されました。その頃はスペイン語も今よりずっとあやしく、よくわからない話を理解しようと聞いているのに疲れてしまったのです^^懐かしい思い出です。

日本でも一つ前の時代のお正月はこんな感じだったのでしょうか。みんなが近いところに住んでお互いを訪問し合って、新年の挨拶をかわす。家族という単位が煩わしかった時期もあったけど(ボリビア人でもそう感じる時はあるみたいで、年の近いオルガの姪カリナとイブの夜ちょうどそんな話もしたけれど)家族と離れ、その家族を何より大切な単位とみなすラテンアメリカに住んでみると、改めて家族の意味について考えさせられます。子供の頃、長い休みの度に鳥取砂丘近くの祖父母の元を訪れ、従姉弟達と過ごした日々を思い出すと、あれほど楽しかった時はない気がするのです。大人になるとなかなかそんな時間はもてなくなってしまったけれど、友達と友情を育んでいくように、家族と新しい関係を築いていけたらいいなと思います。

今年のお正月。駒ケ根からもうすぐ2年、共に過ごして今では「家族みたいだね」というセリフがでるほど、お互いに楽な関係になった同期と、お父さん的存在うえまさん宅で迎えました。軋轢が全くないわけではなく、それぞれが小さくお互いを傷つけたり、むっとしたりすることも当たり前ながらあるけれど、それでも全員集まろう!と誰かが音頭をとったわけでもないのに、サマイパタで集まってしまうのは、家族と似通った絆ができてるのかなと思うのです(最後の極め付けは25日にうちに来た後、スクレに旅立ったのに「サマイパタにきちゃいましたー」とメールをよこしたちーちゃん)。血が家族を結ぶのなら、同期としてボリビアに来たことが私たちを結んでいます。でも、こうしてわあわあ騒ぎつつ自分の場所を確保してゆるやかな時間を過ごせるのは、「血」に甘んじることなく、お互いの関係を結んできたからだと思うのです。国外へ旅行中で来れなかった仲間。でも誰かが持ってきたベニ県の小さなお面をいつの間にかヨータローと呼ぶようになって、集合写真にもちゃんとうつっています。


1月初め帰国前の仲間が言いました。「ボリビアにきて家族の大切さを感じた。」「信頼できる仲間がたくさんできた。」ボリビアに来て増えたものリストにのせるべき一番大切なものを忘れていたみたいです。
 『真の贅沢とはただ一つしかない。それは人間関係の贅沢である。』 
サン・テグジュぺリ 「人間の大地」
                   
世界中の人たちがこの贅沢を味わえますように。