2011/03/28

アルゼンチンの日々と夏の終わり




 雨が降って、今朝は一気に気温がさがった。半袖では肌寒い。春分(秋分?)の日も過ぎた。これから日が短くなるのだ。パタゴニアはもう秋だった。季節は南からのぼってくる。

 カラファテで2泊した後、バルデス半島(Península Valdés)に向かった。夜に出発するバスがなく、スケジュールとしてはロスの多い移動となった。昼の2時、到着したバルデス半島の玄関口、プエルトマドリン(Puerto Madryn)は新しいリゾート地。町並みは整然として道も広い。着いた日は海岸を1時間ほど歩いて博物館へでかけた。灯台ふうにしつらえた塔のある素朴な博物館ではバルデス半島で見られる様々な動物を体感できるようになっていた。博物館にあるカフェで海を眺めながらサンドイッチを食べていると、北の人だなどと思ったことを忘れてしまう。強い潮の匂い。心地よい風。刻々と色合いを変える空と海。熱心に写真を撮る弟と海岸を歩きながら、せっせと貝殻を拾った。海のないボリビアの人たちへのお土産に。プエルトマドリンはカラファテに比べると物価も安く、何より海のものがおいしい。セビッチェ(魚介類のマリネ)や魚介類をふんだんに使ったスープやパスタをたくさん食べた。くどいけれど、海のないボリビアではまず食べれない。貝を食べたのは何ヶ月ぶりだろう!

 

グワナコ
 バルデス半島自然保護区は世界遺産に登録されている動物の宝庫だ。保護区をめぐるツアーに参加してペンギンやゾウアザラシの繁殖地をまわった。ここでしか見ることができないといわれる、シャチが波にのって陸にいるアザラシを襲う光景は本当に偶然のたまもののよう。椅子に座って本を読みながら長期戦に備える人々をみた。3月。シャチが見られるぎりぎりの時期。偶然はおきなかった。気持ちよさそうに横になるアザラシ。シャチとの攻防戦も見てみたかったけれど、平和な光景もいい。バルデス半島内唯一の人が住んでよい町、プンタ・ピラミデ(Punta Pramide)では5月から12月、子育てをするクジラを見ることができる。これを目当てに大勢の人々が集まるそうだ。博物館で聞いたクジラの歌は穏やかでいつまでも聞いていたいようだった。いつかまた来て、親子でゆっくり泳ぐクジラを見れるだろうか。

 プンタトンボ(Punta Tombo)のペンギンコロニーでは子育てを終えたペンギンの最後のグループが遊んでいる。巣は海からかなりの距離のところにもたくさん。ペンギンがちょこちょこ歩く横でグワナコが草を食んでいたりする。あの歩きでよくここまでこれたものだ。触ることは禁じられているけれど、人を怖がらず愛嬌をふりまくペンギンはすぐそばまでよってくる。今年生まれた子たちにはまだ柔らかい和毛が残っていた。 これが全て大人の毛に生え変わったら、みなブラジルへと旅立つのだろう。








 ペンギン繁殖地の近くにガイマン(Gyman)という町がある。故郷の風景に似ているからと19世紀にウエールズ人が入植して以来、人々は当時の伝統を守って暮らしている。遠く離れるほど故郷を大切にする気持ちがわく。日系移住地オキナワやサンファンのように。ガイマンの町並みもかつてのウエールズ地方の町を彷彿とさせるものがあるにちがいない。趣のある家でアフターヌーンティーをいただいた。この日は弟の誕生日でもあった。子供の頃の思い出話に花が咲いた。弟から息子への思いを聞くと、不思議な気持ちになる。もう一人前の大人なのだと。口にしたら当たり前だろと言われるだろうけれど、こうして昔の話をしていると時がたったのだと、泣きたいような気持になった。


 19日土曜日の朝、プエルトマドリンから1時間、トレレウにある空港からブエノスアイレスへ。ここから弟はベルギーへ、私はサルタ経由でタリハへ戻る。飛行機が2時間遅れで飛んで、ブエノスアイレスに着いた時には12時をまわっていた。弟の飛行機は夜11時近く、私のは8時半出発。7時に市内を出たら十分間に合う。町を散策しようと空港からタクシーに乗った。ブエノスアイレスが初めてだと知ると、タクシーの運転手がはりきって観光案内をしてくれる。目的地は芸術家の集まるボカ地区のカミニ―ト。昼間からタンゴが見れるという。石畳の細い通りには緑、赤、オレンジ、黄色・・・色鮮やかな壁の建物。それに負けず華やかな色遣いの絵や土産物を並べた横に、踊り手がいるカフェがいくつかあって、あらゆる言語で盛大に呼び込みをしている。

 すると聞きなれた音楽が耳に入ってきた。チャカレラ(Chakarera)!タンゴだけではない、ガウチョ(牧童)から生まれたチャカレラもアルゼンチンの伝統的な踊りなのだ。両手を高くかかげ、スカートをひるがえして踊る踊り手。踊りはボリビアで目にするものよりゆっくりで微妙に違うけれど、音楽は同じだ。見ていると、体がムズムズする気がした。ここ2・3ヶ月踊りの教室にはいっていないから、体が動くとは思えないけれど、タンゴよりチャカレラに心を奪われている自分がおかしかった。舞台では再びタンゴが始まった。お兄さんが客をひっぱりあげている。あまり踊れないのよと身振りで伝えながらも、客はしっかりリードに合わせて踊っていた。ブエノスアイレスに来る人はタンゴを習っている人が多いのかもしれない。
 
 食事の後、カミニ―トからバスに乗ってモラセラート地区にある政治の中心地、5月広場に行った。赤い大統領府の建物や博物館のあるカビルドを眺めて寛ぐ。片方の靴をぬいで耳にあて、電話がわりにして歩く人が数名。あれは何かのおまじないだろうか?へんな町だ。ここから、京都でいえば新京極風のフロリダ通りを歩いて、世界一広いという7月9日大通りにあるオべリスコに行った。ブエノスアイレスは想像以上に大都会。統一感はあまりないけど、古い建物はどっしりと由緒ありげな雰囲気。その名の通り空気がさわやかで、劇場や映画館に人があふれている。芸術がさかんな町。大都会が苦手なうえに、それまでの旅行で疲れきっていた弟と私は十分に楽しむことができなかったけれど、エネルギーのあるときに来たらきっとおもしろかったに違いない。

何車線あるのだろう??
オべリスコを眺めつつとりとめのない話をしていると時間がきた。タクシーを捕まえ、弟を国際線が入るエセイサ空港へ送り出すと、一気にさみしくなった。ニューベリー空港へ乗せてもらったタクシーの運転手はウルグアイ出身。若いころはサンタクルス、ポトシ、タリハへも旅行したという。アルゼンチンで乗ったタクシーの運転手はみなおしゃべり好きだ。おかげで少し気持ちをもちなおせた。サルタへの飛行機ではジャーナルを書いて過ごす。

国境の橋
 行きと同じホステル、Siete Duendes(7人の小人)に泊る。12時近かったけれど、お帰りと迎えてくれた。翌朝、朝食をとってバスターミナルへ行った。国境近くの町アグアス・ブランカス(Aguas Blancas) へのバスはなく、近くの町オラン(Olan)へのバスは2時間後がでるという。再びジャーナルを開いて待つ。眠い。バスはゆったりと快適で過ごしやすかった。午後2時オラン着。幸いアグアス・ブランカスへのタクシーが最後の客を待っていたところで、乗り込むとすぐ出発。税関でアルゼンチ出国のスタンプを押してもらうと、再びタクシーに乗り、国境の橋まで連れて行ってもらう。ここでタクシーを降りて、オランから買い物にいくという家族と一緒に橋を渡った。ボリビア側国境の町ベルメホ(Bermejo)。無事帰ってきた・・・?

 バスターミナルへ行くなら一緒に乗ろうと誘われるまま、タクシーにのってターミナルへ。何かが頭にひっかかったけれど・・・。最初のバスが83ペソ、オランからのタクシーが12ペソ、そしてこれが3ペソ。ここからタリハに戻る乗合タクシーが40ボリビアーノス。合計すると来た時に乗ったタリハーサルタ間を結ぶバスDragon Rojo、250ボリビアーノスより少し安いくらいか。たまたまオランで待たずにすんだことがラッキーだったのか、時間的にもそれほど変わらない。行きはボリビア側税関が停電でボリビア人の出国手続きに手間がかかりバスの出発が遅くなったから、むしろ時間的には帰りのほうが早いくらいだ。

 タクシーが一杯になるのを待ちながらそんなことを考えていると、ふと思いいたる。アルゼンチンで税関を通った、けれどあくまでスタンプは1つしか押してもらっていない・・・ボリビアに入国しただろうか?行きに税関で入国カードを渡してしまっている。それはどうなる?あわててパスポートをみた。6月23日ボリビアに来た日付のスタンプ、3月12日出国、同じ日付でアルゼンチン入国、そして今日のアルゼンチン出国のスタンプはあるけれど、ボリビア入国のスタンプがない!やばい、やばい。不法滞在者になる!?あわててタクシーのおじさんに税関で止まってくれるように交渉。タリハへの道筋にあるが幸いだった。税関に駆け込むと、それはいけないなあと税関のおじさんがのんびりと対応。ほう、2年のビザを持ってるのか、すごいなあ。日本か、家族は大丈夫だったか、原発はどうなっているなどと聞いてくる。ビザに感心しておきながら、今日から90日間滞在できるよなどというから、再度ビザをみせる。ああ、そうだった・・・ボリビアでは何をしているんだい?ああ、JICAか、とあっさりスタンプをおしてくれた。やれやれ。急いでタクシーに戻る。時間にあまりこだわらないボリビア人は誰もイライラした様子をみせていない。時間通りに何かをすることはあまりない代わりに、この辺の鷹揚さにボリビアの人たちの余裕を感じる。タクシーで4時間。無事タリハ着。



 大切な人たちが次々とタリハを去ったこと、人を信じる自分の目に疑いを抱いたこと、地震と原発のニュース、旅・・・色々な思いが一気に体にでた。微熱が続き、お腹を壊した。それでも、今ここボリビアで自分ができることに専念することで、少しずつ気持ちが落ち着いてきている。お腹はまだうけつけてくれないけれど、食欲はある。アルゼンチンでの日々は単に楽しかったと屈託なくいえるものではなかった。常にこんなことをしていていいのかという気持ちとのせめぎあい。それでも、これほど人の暖かい一言が身にしみ、生かされていることを実感したことはなかった。自然の美しさと家族の大切さを思った。


1人の歌手の言葉が心をうった。「日本は今までたくさんの国を助けてきた。今は私たちが日本を助ける番だ。」と。日本は日本一国では立ち直れない。人が人1人で回復できないように。様々な言葉が、行いがその回復を助けるように。日本を支えようとする各国のエネルギーがかつて海外でその国のために働いてきた日本人の努力の結果だとすれば、今自分が遠く離れたこの国でやろうとしていることが、どれだけ小さなものであってもいつか巡って日本に帰るのだと信じられる気がする。風や波が地球を巡るように、陽のエネルギーが世界を巡るなら、今を懸命に生きることに意味があると言えるだろう。