2011/03/27

1人でほっておかれることのない国

 じりじりと焼きつけるような日差しが照りつける3月も終わりの土曜日。タリハの人々はこれが最後の暑さになるだろうという。本当に色々なことのあった夏だった。 Compadre、Comadre、そしてカーニバル。飲んで踊って、たくさん笑った日々。







 Compadreの一週間後の木曜日がComadre。この日は女性が主役。Compadreよりずっと華やかだ。果物、野菜、パンやお菓子を詰めて、色とりどりの紙と旗で飾った楽しい籠(Canasta)を女性に送る。籠をもらったら翌年のComadreの日に同じように果物やお菓子を詰めて返す。Comadreの繫がりは一生のもの、お互いをComadre、Cumaなどと呼び合う。素敵な習慣。友人3人とComadreになった。午前中は学校単位で女の子たちがChapaca(タリハ女性)の伝統的な衣装を身につけて、大通りを踊って歩く。午後はプラザがディスコになる。女の子たちが老いもも若きも、大音量の音楽に合わせて踊りそして飲む。男性もちらほらいるけれど圧倒的に女の子。グループで作ったお揃いの衣装を身に付けた女の子たちもたくさん。友達が自分のグループの緑のシャツを贈ってくれた。やげて日が暮れて、今度は大人のグループが大通りを踊る。本格的なタリハのフォルクローレ。これは本当に女性限定。男性は見物することしかできない。

アイマラ族の伝統Sahumerio
 カーニバル初日、5日土曜日は仮装の日。Chapacaのブラウスを着て仮面をかぶってパーティーに連れて行ってもらった。カーニバルはこの日から4日続く。ピークは大通りで各地域の代表団やグループが様々なフォルクローレを踊る日曜の午後だ。教会で祈りをささげた後、出発する。踊りは翌日も続き、夜にはボリビアの音楽グループがプラザでライブを行う。3時間踊ると、次の日は足が筋肉痛になった。そして、噂通りカーニバル中は道を歩けば水や泡をかけられた。”Chinita”と叫ばれてかけられるのには少々、いやかなりむっとするけれど、子供達は屈託がない。正々堂々といたずらができるのだから、楽しいだろう。やり返せないのが残念なところ。締めはプラザで行われた水かけ大会。カーニバル最終日は様々な香草や紙のお金、砂糖で作った家や車を燃やし、その煙で家や車を清める日でもある。北から伝わっていた習慣だという。オルガと共に各部屋をまわった。
女の子たちに水をかけようと待ちかまえる男の子たち

 これでカーニバルは終了と思いきや、タリハでは次の土曜日午後にMercado campesinoからボリビア各地の踊りを踊る行列が繰り出す。ボランティアの仲間たちが数人この踊りに参加するため、そしてタリハのワインを楽しむため、ラパスやサンタクルスからやってきた。その朝、オルガが部屋のドアをどんどんと叩いた。時計を見ると5時半。エルヴィラ(オルガのお姉さん)から電話があった、テレビを見ろという。何事だろうとスイッチをいれる。日本の東北地方を津波が襲ったというニュース。茫然と見つめるものの、実感がわかないまま仕事に出掛けた。夜はやってきた仲間たちと夕食を共にした。前日夜からバスでやってきた彼らにもまだ実情は伝わっていない。夜家に帰って、CNNをつける。次々と家を、ビニールハウスを飲み込む津波。上空から写し出される映像。朝は津波には備えのある日本だから大丈夫と言い聞かせていたものの、あまりの津波の大きさにいくらなんでも全ての人が逃げおおせたわけがないと、愕然とする思い。翌朝は午前4時出発のバスでアルゼンチン町サルタへ発つ。荷物の整理をしつつ、テレビから目が離せなかった。

 太陽の照りつけの激しいベランダ。黄色いカーニバルの花が満開だ。旅から帰って、仕事に戻った。何かがすごく変わった気がする。ボリビアに来る前、日本で読んだ本の中に、「決して1人でほっておかれることのない国」という記述があった。1人になる時間が絶対に必要で、その癖1人が不安でもある自分には煩わしいこともあれば、助けられるころもあるだろうと思った。カーニバルは楽しかった。けれど酔っ払いと喧騒とカオス。終わってほっとしたところもある。その後届いた地震のニュース。日本の人々のために心から苦しく思っている、痛みを分かち合いたい、職場の人たちが次々と声をかけてきた。家に帰ればオルガ(大家さん)がお母さんに電話をしたか、大丈夫だったか、と何度も聞く。そして翌朝4時、気をつけて行っておいでと、アルゼンチンに向かう私を送り出してくれた。加えて旅先でどれだけ多くの人が話しかけてくれたことか。外に出て、人と交わって、言葉を交わして生まれるもの。その尊さを改めて思った。