2011/05/09

読書の秋~デミアンを読んで~



 サマイパタで友人にヘッセの「デミアン」を借りた。なんせここでは日本語はもちろん英語の本ですらなかなか手に入らないから、活字中毒にはつらい。一気に読みあげた。学生の頃、いいよとすすめられて読んだ時にはそれほど印象に残らなかったけれど、今回は感じるところが多くてこれも年の功?年をとるのもいいなと思う。はしがきに、「すべての人間は彼自身であるばかりでなく、一度きりの、まったく特殊な、だれの場合にも世界のさまざまな現象が、ただ一度だけ二度とないしかたで交錯するところの、重要な、顕著な点なのだ。」とある。さらに「すべての人間の生活は、自己自身への道であり、1つの道の試みであり、1つのささやかな道の暗示である。どんな人もかつて完全に彼自身ではなかった。しかしめいめい自分自身になろうと努めている。ある人はもうろうと、ある人はより明るく。」と書かれているところで、ちょっとため息がでた。たった数文で、なんて簡潔に全てを言いえているのだろうと思う。書くという行為は私の一部だから書かずにいられないけれど、いったい幾つになってどれだけの経験をつめば、こんな風に書けるのだろうと思わずにいられない。

 主人公シンクレールは父母の属する明るく公明な世界に安住しつつも、外の世界へのあこがれから不良少年と関わりを持ち、それによって苦しめられる。聡明な年上の少年デミアンに苦境を救われるものの、別の世界へ踏み出すにあたって彼が要求するであろうものを恐れて、一時彼を避け父母の安全な世界に逃げ帰る。それでも不思議な結びつきが存在して、二人は言葉を交わすようになり、シンクレールはおぼろげながら自分の道が敬虔なキリスト教徒である両親の道にはないこと、自分の道は自分で探求するほかないことを理解する。

  学校を卒業してからデミアンと物理的に離れたシンクレールは別の学校で酒を飲みばか騒ぎをする生活を送るが、完全に仲間の一部となりきれず孤独を感じ続ける。この頃偶然出会ったデミアンには反発を感じるだけで別れてしまう。けれども彼との会話の記憶をたどるうちに、新しく生まれるものを感じ、これを絵にして彼に送る。返事は不思議な形で届く。「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、1つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという。」このアプラクサス、「神的なものと悪魔的なものとを結合する」神、をきっかけに見るようになった持続的な夢がシンクレールの新しい自己形成を促し、その頃新たに得た友人ピスト―リウスがさらなる理解を深める助けをする。

 けれどもやがて指導者的な役割を果たしてくれたこの友人とも決別する時が訪れる。この決別は自分の自由意思で選びとった友人との別れであっただけに、両親の世界からの旅立ちよりもさらに苦しく、シンクレールはより深い孤独を感じ、心のなかでデミアンに助けを求める。大学に入ったシンクレールは再びデミアンと、そしてその母と出会う。デミアンの母は彼を救った夢に現れた人物だった。デミアンの母との会話からシンクレールは自分の道を生みだす過程は困難ではあったが、他に楽な方法はなかったこと、そして困難なだけでなく美しかったことを自覚する。そして道の困難さから自分を救った夢は、道を容易にしたものの、永久に続くものではないことも教えられる。デミアンの母はいう。「どんな夢でも新しい夢に変わられます。どんな夢でも固執しようとしてはなりません。・・・その夢があなたの運命であるあいだは、あなたは夢に忠実であらねばなりません」。


 この後、シンクレールやデミアンが飲み込まれていく時代の流れは別の時代に生きる私には想像できない領域。今回「デミアン」が私の中でヒットしたのは、私の中に慣れ親しんできた世界からでていこうという衝動がより強くなっているからにすぎない。だからこそボリビアに来ることを選択したりもしたし、それに先立つ様々な出会いがあったと思う。自分にとっての「両親の世界」や「ピストーリウス」は何か、「デミアン」や「デミアンの母」、そして「デミアンの母」が体現する「夢」は存在するのか考えてみる。主人公シンクレールはヘッセその人。彼の通ってきた道を知的レベルからいってはるかに単純な私がたどることはできない。あきらめでもなんでもなく、それはヘッセの道で私の道ではないから。それでも他者の経たステップを自分にあてはめてみることで、自分の道を振り返ることはおもしろい。

 ボリビアでしていることは、たとえそれがどんなに小さくつたない行為であれ、全て自分の意志において行い、自分の足で探して、考えて、始めたことであるという点で、今までと少し違う気がする。ヘッセのいう「もうろうと」から、「より明るく」はっきりとなったのかもしれない。今生まれている衝動が「アプラクサス」を目指しているものかはわからない。「アプラクサス」そのものが何なのか私には明確ではないから。けれども一つの世界を壊さなければ先に進めないことは確かだと思う。


 神と悪魔、光と闇という対立からひたすら神や光を求めるだけの生き方に限界があることは、時代が感じている気がする。「神をいっさいの生命の父」であるのに対し、「生命の基である性生活というもの」、つまり母性が体現するものを黙殺している、「人は世界全体をあがめることができなければならない」というデミアン。最近読み返した「ダ・ヴィンチ・コード」のテーマもそれだった。沢山持ってきた宮崎駿監督の映画の中でも特に好きな「ナウシカ」(映画というより原作)や「耳をすませば」、「もののけ姫」に現れるのも、「光と闇は全部人間の内部に混在してあるものでしかない。」という監督の考えだ。闇や汚れは暴力や殺戮ともいえるし、今扱っているゴミ問題(環境問題)でもある。ゴミを核兵器まで含めて考えると人間がともに生きていかざるをえないものの巨大さがのしかかってくる気がする。それでも人間は他の生き物を殺さずに生きていけないし、自身で処理できないゴミを生み出さざるを得ない。ではその先の道は?

 「アプラクサス」がなんであれ、私自身少しずつではあるけれど、自分の中にあるいわば習慣としてきた道徳観念や価値基準を壊しているのは事実。その過程が困難なものであったかというと、多分そうだったとしか言えない。結局、鍵となるのはその困難さを、それに伴う孤独を、自己がどれだけ深く感じて苦しむかだと思う。だから「われわれはたがいに理解することはできる。しかし、めいめいは自分自身しか解き明かすことができない」のだ。シンクレールは孤独の果てにデミアンやデミアンの母を見出した。常にそばにいた存在だけれど、強く願うことで、「夢」にすることで、意識的に見出した。私の「夢」はまだはっきりした形で表れていない。けれども、少しずつ変わっていくことで、かつては好ましいとはとても思えなかった自分を好きになってきていることで、少なくとも自分自身にとって正しい道を歩んでいることは感じられる。あまりにも遅々としていることすら、私らしいと笑って言える。(笑えない時もあるけど。)「夢」を実現できるものとして、しっかりと心の中で描ける日は近い気がする。

 本を読むのはやっぱりいいなと思う。お茶とクッキーを用意して、読みたい本を横に積んで、ベットの上で読む時間が一番幸せだ。もとから同時進行で数冊の本を読むし、好きな本は何度も読み返す。一冊に心を奪われたら次から次へ扉が開く。ヘッセの他の作品が読みたくなる。ユングやシュタイナー、聖書にもう一度きちんと取り組みたくなる。本との出会いと再会も、やっぱり「自己自身への道」の大事な道連れだと思う。