2011/06/23

カルチャーショック~チリを訪れて


ハンガロア村から望む夕日

6月23日Día del Corpus Christi(聖体の祝日)。

Pascua(イースターまたは復活祭)から60日目の木曜日に祝う。聖体とは聖餐式(ミサ)で信徒に分けるパンとぶどう酒のこと。復活祭と同じようにその年によって日が変わる。今年は偶然6月24日のFiesta de San Juan(サンファンの祭り)の前日となった。これはイエスの先駆者、洗礼者ヨハネがキリストに洗礼を授けたとされる日。サンファンの祭りの日はなぜかホットドックを食べる(アメリカからきた習慣だとか?)とのことで、友人宅でソーセージの代わりにチョリソ(香辛料の入った腸詰!)を挟んだパンを食べた。現在は環境を汚染するからと禁止されているけれど、昔はこのサンファンの祭りの前夜祭でfogota(焚火)をして悪を追い払ったと友人のお父さんが懐かしげに話してくれる。1年で1番寒い日とされていたらしい。パチャママ(先住民の宗教の大地の女神)信仰と結びついているようだけれどこれははっきりしない。聖体の祝日は学校も仕事も休みだけれど、サンファンの祭りは祝日ではなく、祝い方はカトリック国でも様々なようだ。


Carnabal(謝肉祭)、Semana Santa(聖週間)、Pascua(復活祭)、そしてCorpus Christi(聖体の祝日)、Fiesta de San Juan(サンファンの祭り)とカトリックの祝い事が続く。奇しくもチリ領La Isla de Pascua(イースター島)から4日前に戻ってきたばかり。チリへの旅で考えたこと、そして帰ってからの短い4日間での出会い・・・。新しいことに目を開かされることが多くて、不思議な気持ちになる。出会いが出会いを呼ぶ。

今回のチリへの旅行はこれも思いがけぬ程ばたばたと決まった。同期から6月にイースター島に行かないかと声がかかったのが3月。アルゼンチンへの旅もあるし、さすがにやめておこうとも思ったけれど、1人だったらきっと行くことはないだろうと心を決めたのが5月。面倒見のよい同期のおかげで(感謝!)日本からだと考えられないほど割安で憧れの島へ行けることになった。6月にはプロジェクトを始めた4つのモデル校で一通り必要なことをやり終わって、新規の学校で活動を始める時期にさしかかって切りもよく。旅へ出る前の週は風邪をひいて仕事を1日休み、その他の日は学校を回っていたのでほとんどオフィスに行けないまま。それなのに旅行明けで久しぶりに出てきた日、同僚が普通に挨拶するからあれ?と思ったら、なんと教育省の決めた新しいカリキュラムが気に入らないと教師や学生がオフィス前でデモをしたため、旅行中の1週間オフィス閉鎖、仕事はなしだったとのこと。午後になってようやくそういえばチリはどうだったの?と聞かれて、お土産を取り出すことになった。

この旅はボリビアを新たな目でみるきっかけになった。アルゼンチンへは陸路でサルタへ入ったため、カラファテで物価の高さとカナダと変わらない町並みに多少目を見張ったものの、それ程ボリビアとの違いを思い知らされはしなかった。他のことで心が一杯だったこともあるかもしれない。今回は飛行機でいきなり首都Santiago(サンティアゴ)へ飛んだこと、ボリビアで1年を過ごした同期と一緒であったことで、見る目も違っていた。ある種のカルチャーショック。

夜行バスでタリハの同期とサンタクルス入りし、別の町で活動する仲間達とVilVil(ヴィルヴィル)国際空港で合流したのが午後5時。チリのLAN航空で向かった飛行機は途中、Iquique(イキケ)というAtacama(アタカマ)砂漠にある地方都市に到着、ここで入国管理局を通った。地方空港とはいえ、設備はボリビア一の空港ヴィルヴィルより豪華、入国管理も厳しく、その効率性にびっくり。隣に座っていたチリ人のセニョールが砂漠の真ん中にあるこの地方都市は発展が遅れていたため、政府が消費税を免除し交易が発達するようにしたと教えてくれる。実際多くの乗客がここで降り、その座席をサンティアゴに向かう新たな客が埋めて、人の流れがさかんなことを感じさせた。

夜10時サンティアゴ着。イースター島行きの飛行機は翌日8時発。空港で夜明かししようかと考えたものの、やはりしんどい。空港でタクシーの手配するおじさんが12ドルの宿があるというので、タクシーの値段を交渉の上、ホステルへ連れて行ってもらった。ところが、ホステルの値段が20ドルに値上がり。これではまるで詐欺。8ドル(56ボリ!)の差は大きい。交渉するもらちがあかない。すでに夜11時。疲れてもいたけれど、このホステルに泊らないことにした。この間、私たちを連れてきたおじさんは交渉に参加、2台のタクシーの運転手はずっと待っていた。ホテルの値上がりをおじさんは知らされていなかったとあとでわかる。

翌日6時半、時間ぴったりどころか5分前に迎えにきた前夜のタクシーの運転手さんが言ったことがふるっていた。仲間が昨日の私たちの苛立ちを謝罪したところ、彼は「あなたたちには怒るだけの当然の権利がある。チリにもいろんな人間がいるけれど、我々としてはチリにくる外国人に嫌な思いをしてほしくない、また訪れたいと思ってほしいと考えている。だから待っていたのだし、我々としては当たり前のことをした。」と。


サンティアゴ空港
 このプロ意識、時間の正確さ。そしてホステルから空港までのサンティアゴの町の整然とした美しさ。人々は礼儀正しくも陽気で、暖かい。車は歩行者優先でクラクションの音も聞かない。ボリビアの傍若無人な運転ぶりに慣れた私達は交差点では必ず立ち止まり、車が通り過ぎるのを待つ習慣がついている。その私達に気付くと数メートル手前で止まり、手でどうぞ渡ってと合図を送ってくる。泊ったホステルのお兄さんは夜中に突然どやどやと訪れた私に嫌な顔一つせず、荷物を運び、施設の説明をし、お茶まで用意してくれた。なんだか感動した。国境を一つ越えただけでここまで違うものかと。経済の発展ぶりに驚いたのではない。人々の違いだ。あまりにもボリビアと比べ、ともすればこき下ろすことにもなったから、私達の中でボリビアの悪口を言ったら罰金というルールまでできたほど。もちろんこれは冗談だけど、その中には私達の中に確実にある思い、仲間の1人がよく口にした「ボリビア頑張れ」という気持ちがあると思う。


ボリビアは南米最貧国と言われている国。それでもきっとアフリカなどの貧しさとは雲泥の差がある。学校に行き出すと汚れた服、破れた靴やカバンで通ってくる子供を見るようになった。その子供達の多くは学校に遅れて来がちだったり、高校まで進めなかったりと確実に貧富の差、民族による格差を感じる。でも、豊かな自然と資源に恵まれ、野菜や果物も豊富で、基本的なインフラも整っている。JICAの援助も除々に保健衛生面、教育面に集中しつつある。飢餓や貧困といったせっぱつまった問題ではなく、この国の人々が自分達の国をどのように発展させたいのかを考える時期にきていると感じる。

チリの魚市場
 学校に通う様になって、改めて教育の大切さを思う様になった。チリを訪れて、つくづく感じたのもそれ。海がある・ない、地下資源に恵まれている・恵まれていない、先住民が多い・少ないなどなど、同じ南米でも国ごとに違いはあるし、一概にはいえない。それでも結局国を作るのは人。感動したのは多分ボリビアにはあまりないサービス精神。企業と顧客、店主と客、タクシーの運転手と乗客。強いのは企業・店主・タクシーの運転手。物を、媒体を持っている側だ。例えばチリから戻って、あーボリビアに帰ってきたのだと確実に実感したのは、道を渡るとわざとのようにスピードを上げて突進してくる車、遅れても平気、搭乗口の突然の変更に右往左往する客をみてすまなそうな顔1つみせない航空会社の職員の姿(客は”Nadie sabe[誰も何も知らない]”とあきらめたように言うのみ)だった。ボリビア人が意地悪なのかというともちろんそんなことはない。個人的に接すると暖かく、親切で親しみやすい。それが仕事や商売になると、または車に乗るとどうしてこうも変わるのだろう。


ボリビア人の友人が興味深いことを言った。これこそが植民地主義の弊害。単純に言えば、白人(南米では主にスペイン人)がやってきて以来、南米の国々(南米に限らず)はその宗主国の植民地として天然資源や安価な労働力を搾取され、都合のよい市場または軍事的要地や領地の拡大の足掛かりとして使われてきた。これにより、人々の中に持てる者が強いという考えが生まれたという。例えば1950年代以前には町への立ち入りすら許されなかった先住民。1952年に初めて立ちあがった先住民の運動により、先住民や女性が投票権を手に入れ、徐々にその立場が向上していく。ところが力を手にいれてもその使い方がわからない。自分たちがされてきたことと同じことをするようになり、今やボリビア人同士で搾取しあうようになったと彼は言う。企業から運転手やパン屋に至るまで所有する者が威張り、顧客を見下す。地方政府も同じメンタリティをもっている。例えばタリハからビジャモンテスへのひどい道をどうしようともしない。だから一部を除いて観光事業が発展しない。外国から観光客を惹き付けることができない。多くのボリビア人は地方主義者で、目先のことしか見ることができず、他国との関係の中で自国を見ることができない・・・ラパス出身とはいえ、タリハにこのようなものの見方をする人が住んでいることに驚いた。

脱植民地主義はエボ・モラレスの新教育法が抱える旗印の1つ。学習と現実の生活が結びついていない前近代的な教育現場ではあまりにも観念的すぎてとても実践できそうもないと思われたし、そもそも「脱植民地化」の意味を理解している校長や先生は少ないだろう。エボ・モラレス政権も他のあらゆる政策同様、この言葉の意味をきちんと説明しきれていないと感じる。一貫性のないモラレス政権だけど、それども以前より自由にものが言えると友人はいう。いずれにしても、このメンタリティの変換(それを脱植民地化と呼ぶかどうかは別にして)が行われないとこの国は変われない気がする。教育はその要だ。

昼のニュース。教育省の大臣が長期休暇に宿題をだすことは禁止、出した教員は罰せられると話している。学校は半日制、行事や祝日、祝日の前夜祭でしょっちゅう授業がなくなるボリビアにおいてこの禁止令。授業をする同じやり方のままで宿題をだしたからといって何かが変わるわけではないという点では正しい。ただ、教育の大切さを軽んじている気がしてなんだかしっくりこない。宿題は結局、どんな宿題を、何を意図してだすかという先生の意志しだいで意味があるものにも、ないものにもなるのに。

掃除・分別・リサイクルのプロジェクトを始める最初の教員向けのプレゼンで必ず口にしたのが、ボリビアには日本初め先進国が犯してきたのと同じ間違いをしてほしくない、という思いだった。自然から搾取するのではなく、共に生きつつ人々の生活をもよくしていくオルタナティブで新しい道を見つけてほしいと。その道が具体的にはっきりと見えているわけではなく、これがその方法と伝えることはできないけれど・・・3Rの啓発はその助けになると思っていた。

そんな中少しずつ大きくなる違和感。リサイクルは大切ではある。けれどボリビアにはそれ以前の何かが必要なのではないかという思い。ある高校生が紙は木からできていることを知らなかった時のショック。「環境に優しい」というのは全世界の歌い文句、気候変動もホットな話題だ。ボリビアも、少なくとも私の知るタリハはその御多分に洩れない。環境意識が高いと評することはできるけれど、何かが違う。リサイクルの推進はリサイクルさえすればいいといういい隠れ蓑になる。それ以前の大量消費、自然からの搾取にまで目がいかなくなる。紙が木からできていることすら知らなければ、紙をリサイクルする理由をどうやって理解できるだろう。しかも紙のリサイクルにおいては大量の水を消費する。紙に限らずリサイクルにかかる水や電力の消費が環境に与える悪影響は議論の的になっている。そこまで視野にいれて新たな道を模索するためには・・・。プロジェクトの、ボリビアでの仕事の在り方を問う思いが大きくなる。考えすぎるとにっちもさっちもいかなくなるけれど、少し方向転換しなければならないことを感じる。


未だ堂々巡りを続けているけれど、チリへの旅で受けたカルチャーショックはボリビア人のメンタリティから自分のプロジェクトの意義までまた新しく考えるきっかけになった。「脱植民地化」という言葉は昔よく目にし、使いもしたから、ボリビアの教育法で目にした時は懐かしくさえ感じた。そしてあの頃は観念にすぎなかったことを実感している。今だって同じようなものだけれど、実際に「途上国」であるボリビアで教育現場に少しなりと携わると多少現実感が伴ってきたように思う。アメリカによる開国や敗戦が日本人のメンタリティに大きな影響を及ぼしたように、植民地であったことやその後のアメリカ合衆国の干渉はボリビアはじめラテンアメリカ諸国に多大な影響を及ぼしているのは当然のことだと思う。ボリビアがまるでヨーロッパの一国のようなチリを追いかける必要は全然ない。たったの1週間、サンティアゴとイースター島にいただけではわかりようのない歪みが急発展したチリにはきっとあるだろう。ボリビア、チリ、アルゼンチン・・・あまりよく知らない南米の歴史をもっと知りたいと思った。

今日はボリビアへきてちょうど丸1年。
実り大きかった1年。
チリの発展ぶりにびっくりしたけれど、ボリビアに帰ってきてほっとしている自分がいる。職業的なサービス精神がないからこそ、見せかけではない真の暖かい心と笑顔に触れられるボリビア。
ここへ来る機会を与えられたこと、ここへ来ることを選択できたこと、全てに感謝したい。


朝日~日本からラパヌイへ