2012/02/10

バジェ・グランデ~チェ・ゲバラの面影を訪ねて~



夜11時半。
窓をあけると、
ざっざっ、ざあー。
ざっざっ、さあー。
通りの石畳を掃く規則正しい音。

1月2日、サマイパタからバジェ・グランデ(Valle Grande) へ出かけました。サンタクルスを出てサマイパタに11時~12時の間に通りかかるはずのバスを待ちます。何があったのか、12時をまわってやってきたバスは人でいっぱい。通路にも椅子を持ち込んだ人々が座っています。荷物の配達もかねているバスはしょっ中止まって、バジェについたのは午後4時前。最初は通路に座り込んでお弁当を食べたりしたけど、途中から外の景色が見たくて親子連れの座席のひじ掛けに腰かけさせてもらいました。この親子、母親と20代くらいの娘さんなのですが、娘が母親の胸に顔をよせ、母親は娘の髪に頭をもたせかけて、聖母子像のように眠っていました。日本では見かけない光景だなあと思いながら見ていました。バジェ・グランデはタリハと変わらない標高。緑が美しくて目が癒されます。

帰りの乗合タクシー(60ボリ)を予約。年末年始で移動する人々が多くどの会社も一杯でした。それからプラザに向かいます。静かな村。緩やかな坂が連なって、先が見えないところにちょっと趣があります。プラザの前のホテルをとって、観光案内所にいき、夕方17:00からのツアーを申し込みました。30ボリで病院(Hospital Señor de Malta)、チェが埋葬されていた場所、ゲリラ戦士の墓をタクシーで回ってくれます。

クリスマスの日に食事に出かけた友人Mariana(マリアナ)のお父さんがここの出身で、チェの遺体が運ばれた病院のLavanderia(洗濯場)で死体が公開された時、村人たちに混ざって見に行ったそうです。「すごく重要な人物の遺体が着くと聞いておばあさんと行った。9歳だった。」バジェ・グランデのカーニバルは有名だそうで、2月に行けばいいのになあと残念がりながら、色々な写真や本を見せてくれました。

チェ・ゲバラ、本名エルネスト・ゲバラはや映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」やソダーバーグ監督による2部作でも描かれているアルゼンチン生まれの革命家です。裕福な家に生まれますが、医学生の時に友人と二人バイクでラテンアメリカをまわる旅をし、そこで多くの貧しい人々の生活や暖かさに触れて、彼らを抑圧、搾取、不正から解放したいと社会主義思想に目覚めていきます。医学部を卒業してから社会主義革命の進行するグアテマラへ行きますが、アメリカのCIAや多国籍企業の後ろ盾をうけた軍部政権による逮捕、処刑が始まったため、メキシコへ向かいます。ここでフィデル・カストロと出会い、彼に協力してキューバ革命を成功させました。キューバ時代は経済相として日本にも来たことがあるとか。アメリカによる植民地支配を厳しく批判するだけでなく、社会主義国の後ろ盾となりつつ支配しようとするソ連にもその矛先をむけ、アメリカに対抗するためにソ連に頼らざるをえないキューバに居づらくなります。より自分を必要としてくれるところへとアフリカのコンゴを経て、ボリビアへ潜入しました・・・というのがお父さんとそして同じタリハのシニア隊員から借りた本から得た知識。

ゲバラはここボリビアでは人々の、特に共に闘おうと考えていた農民の支持を得ることができませんでした。ゲバラがボリビアにいることを察知したアメリカの精鋭部隊がボリビア人部隊を訓練し、包囲網を狭めてくる中、いくつかの部隊に分かれてジャングルで戦うゲバラの部隊は互いに連絡を取り合うこともできず追い詰められていきます。なぜゲバラがボリビアで支持を得ることができなかったのか。マリアナのお父さんは1952年のビクトル・パス・エステンソロ(タリハ出身)による社会主義的政策の一環、農地改革でボリビアの先住民に農地が分け与えられた後で、モチベーションが高くなかったといいます。政府の報復を恐れたのです。先住民の割合の高いボリビアでアルゼンチン人のゲバラはあくまでGauchoでありよそものの白人にすぎなかったのかもしれません。ツアーのお兄さんに聞いてみたら「ゲバラが何者か誰もしらなかったんだ」との答え。テレビだってない時代、単純だけどこれもありえそう。




セニョールデマルタ病院は現在も普通に病院として機能していてこの日も、翌日の朝もう一度出かけた時も、順番を待つ患者さんを見かけました。死体洗濯場、解剖室は見学者向けに公開されています。洗濯場は訪れた大勢の人たちのメッセージで埋まっていました。ハンカチで鼻を押さえながら遺体の周りを巡る村人、誇らしげに遺体と共におさまっている兵士たちなどここで撮られた写真を多く目にしてきたので、私にとって一番ゲバラを感じられる場所でした。死体解剖室は洗濯場よりさらに小高い場所にあって、ここは現在も使われているそう。血の跡がたくさん残っていて、ゲバラの手が切り落とされる様子など想像してしまいました。この手は確認のためにキューバに送られています。


 
前列左端がチェ・ゲバラの墓

ゲバラの遺体が埋葬されていた場所は長く隠されていて、死ぬ間際のボリビア軍人の告白によって遺骨が発掘されたのはつい最近1997年のことです。遺骨はキューバに送られ、家族やカストロ大統領はじめキューバの人々に盛大に迎えられました。今はサンタクララの霊廟に眠っています。発掘現場に記念館が建てられ、多くの写真が飾られていました。強い信念を持ちながらも、優しい人好きのする人柄があらわれている写真ばかりです。最後にFosa de Guerilleros、12人のゲリラ戦士が眠る墓に行きました。共同墓地に葬られていたのが、ここに集められたのです。女性ゲリラ、タニアさんが所属していた部隊。たった1人の女性ということもあり、憐れんだ村の女性によって遺体は初め村の墓地に埋められたそう。同じ部隊にはマイムラさんという日系の方もいたと後から知りました。


夕暮れのやわらかい光の中でみるゲバラの最後の地は美しくてなんだか心がしんとするようでした。と、浸っていたらタクシーの運転手が思いっきり水たまりに突っ込んで茶色い泥水がどばっと窓から飛び込んできてぶち壊されたりもしましたが。「窓があいてるとは思わなかったんだ~。ハハハ―。」ですって。ちょっとくらい謝れ~!!

これだけの世界に知られ、伝説的な英雄となっているチェ・ゲバラ。ゲバラを処刑した地であるボリビアだけど、社会主義政策を進め、キューバやベネズエラと親交を深めるエボ・モラレス大統領のもと、彼の名はボリビア人の間でも知られつつあります。それでもバジェ・グランデは商売っ気一つなく(日本なら絶対ゲバラグッズが山ほど売られているはず)、何か記念にと思っていたからちょっと拍子抜けしたけれど、これはこれでいいなあと思いました。プラザに戻ってからマーケットの方へぶらぶら。少し人の姿は増えていたけれど、あくまでのんびりとしたしずかーな村でした。

翌日出かけたゲバラ博物館のあるCasa Municipal。小さいながらゲバラの略歴や活動がたくさんの写真とともにわかりやすく展示されています。その中にゲバラが両親や子供達に残した手紙の抜粋がありました。

...One day we were asked who should be notified in case of our death and the reality of this possibility hit us all.  Later we understood how true this was.  In a revolution, you triumph or you die (if it is a true revolution). 

...I believed armed combat is the only solution for people who fight for their freedom and I am consequent with my beliefs.  Many will say I am an adventurer, and I am, only a different sort and I act according to what I believe to be true... 

...Remember that the Revolution is what is most important and each of us alone, is worth nothing.  Above all, always be capable of deeply feeling any injustice committed against anyone in any part of the world.  That is most beautiful quality of a revolutionary...

本でも読んだことがある別れの手紙。心打たれるけれど、ボリビアの貧しく虐げられているはずの民衆にゲバラの思いが届かなかった以上に、「革命」や「武器をもって立ちあがる」という言葉は私にはしっくりしませんでした。しっくりこないというもどかしさには理解できるものならしたいという思いがあります。昨年エジプトで始まりその後中東へ広がった市民の蜂起。革命に流血つきものだと言うけれど、血を流さずにすむものならば彼らだって流したくなんかなかったはずだと思うのです。それでもぎりぎりまで追い詰められた人々がとった手段はやっぱり革命であり、武器を手にすることでした。政治や経済は苦手だという私にそれはきちんと読んだことがないからにすぎないよと友人が言いました。理解したいと思いながらそうしようとしないのは、知ってしまった後の無力感やそれでも革命や闘いや抵抗という勇気ある選択をすることができるとは思えない自分からの逃げかもしれません。

ゲバラの最後の日記には自分の死が近いことを予想している記述があります。共に闘うはずだったボリビアの農民の裏切りにあい、CIAとボリビア軍の包囲網に追い詰められ、次々仲間を失い、喘息に苦しみつつ、ジャングルの中を移動するゲバラは何を考えていたのだろうか想像してみます。無力感や失敗だったという思いはあったのかなと。「私と行動を共にした一番いい銃弾、決して色あせない子供の頃の記憶、心に残る人生の断片、これらを革命にささげる。人をつなぐ力は何より強力なのだ。」映画で語られたゲバラの言葉です。不正義への激しい怒りと同志たちとの堅い絆。理想とする社会を実現させたいという断固とした信念。虐げられた人々への愛。端正な容姿とカリスマ性。色々な要素がゲバラという人間を動かし、あのような人生を送らせました。ゲリラ、革命家、闘士。強い名詞を伴って呼ばれるゲバラだけど、そんな彼を根底で支えていたのは幸せな記憶と人を信じる気持ちだと知ると少しほっとする思いがします。多くの人々が彼に惹きつけられる訳がわかる気がしました。

今ヨーロッパを中心に少しずつ広がっている反資本主義の動き。資本主義社会の顔だったアメリカの多国籍企業による搾取を植民地主義と強く批判し、社会主義思想に傾倒しながら、社会主義大国ソ連や中国の途上国に対する態度もまた資本主義的だと厳しく言い切ったゲバラ。彼が理想とした社会は、今何かがおかしいと感じ始めている人々が模索している新しい社会の在り方と同じ線上にあるのかもしれません。そして実はこれは環境問題とも切っても切り離せない問題です。最近読み始めた本に注意深くもはっきり述べられているように「私たちがモノ(STUFF)を作り、使い、そして投げ捨てているそのやり方をきちんと見つめれば、資本主義と呼ばれているある特定の経済体制の本質的機能が引き起こすかなり深刻な問題にぶつかります。はっきり言えば、資本主義は、これが現在のように機能していくならば、持続的ではないのです。(The story of stuff)」ハリ―・ポッター風にいうならば「the Economic-System-That-Must-Not-Be-Named (名前を言ってはいけない経済体制)」。ボリビアでささやかに環境教育に関わりながら感じる違和感の正体。亀よりもナマケモノよりもゆっくりのスピードで(1年半もあったのに!)環境にまつわる問題について学びながら、ぶつかるのはやっぱり政治と経済。一度は逃げたけれど、やっぱりきちんと向き合わなければいけないようです。そうすれば、ゲバラについてももう少し理解できるようになるのかもしれないと思いました。その時は今回は行けなかったイゲラ村に行きたいなと思います。

Casa Munincipal