夜11時半。
窓をあけると、
ざっざっ、ざあー。
ざっざっ、さあー。
通りの石畳を掃く規則正しい音。
クリスマスの日に食事に出かけた友人Mariana(マリアナ)のお父さんがここの出身で、チェの遺体が運ばれた病院のLavanderia(洗濯場)で死体が公開された時、村人たちに混ざって見に行ったそうです。「すごく重要な人物の遺体が着くと聞いておばあさんと行った。9歳だった。」バジェ・グランデのカーニバルは有名だそうで、2月に行けばいいのになあと残念がりながら、色々な写真や本を見せてくれました。
チェ・ゲバラ、本名エルネスト・ゲバラはや映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」やソダーバーグ監督による2部作でも描かれているアルゼンチン生まれの革命家です。裕福な家に生まれますが、医学生の時に友人と二人バイクでラテンアメリカをまわる旅をし、そこで多くの貧しい人々の生活や暖かさに触れて、彼らを抑圧、搾取、不正から解放したいと社会主義思想に目覚めていきます。医学部を卒業してから社会主義革命の進行するグアテマラへ行きますが、アメリカのCIAや多国籍企業の後ろ盾をうけた軍部政権による逮捕、処刑が始まったため、メキシコへ向かいます。ここでフィデル・カストロと出会い、彼に協力してキューバ革命を成功させました。キューバ時代は経済相として日本にも来たことがあるとか。アメリカによる植民地支配を厳しく批判するだけでなく、社会主義国の後ろ盾となりつつ支配しようとするソ連にもその矛先をむけ、アメリカに対抗するためにソ連に頼らざるをえないキューバに居づらくなります。より自分を必要としてくれるところへとアフリカのコンゴを経て、ボリビアへ潜入しました・・・というのがお父さんとそして同じタリハのシニア隊員から借りた本から得た知識。
ゲバラはここボリビアでは人々の、特に共に闘おうと考えていた農民の支持を得ることができませんでした。ゲバラがボリビアにいることを察知したアメリカの精鋭部隊がボリビア人部隊を訓練し、包囲網を狭めてくる中、いくつかの部隊に分かれてジャングルで戦うゲバラの部隊は互いに連絡を取り合うこともできず追い詰められていきます。なぜゲバラがボリビアで支持を得ることができなかったのか。マリアナのお父さんは1952年のビクトル・パス・エステンソロ(タリハ出身)による社会主義的政策の一環、農地改革でボリビアの先住民に農地が分け与えられた後で、モチベーションが高くなかったといいます。政府の報復を恐れたのです。先住民の割合の高いボリビアでアルゼンチン人のゲバラはあくまでGauchoでありよそものの白人にすぎなかったのかもしれません。ツアーのお兄さんに聞いてみたら「ゲバラが何者か誰もしらなかったんだ」との答え。テレビだってない時代、単純だけどこれもありえそう。| 前列左端がチェ・ゲバラの墓 |
...One day we were asked who should be notified in case of our death and the reality of this possibility hit us all. Later we understood how true this was. In a revolution, you triumph or you die (if it is a true revolution).
...I believed armed combat is the only solution for people who fight for their freedom and I am consequent with my beliefs. Many will say I am an adventurer, and I am, only a different sort and I act according to what I believe to be true...
...Remember that the Revolution is what is most important and each of us alone, is worth nothing. Above all, always be capable of deeply feeling any injustice committed against anyone in any part of the world. That is most beautiful quality of a revolutionary...
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