2012/02/03

ボリビアの家族~La Familia extensa~


年が明けて、あっという間に1月も終わり。
旧正月も過ぎてしまって今さらですが・・・
謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
今年が平和で穏やかな年になりますように。

年末はサマイパタで同期と過ごしました。紅白をみながら、キムチ鍋をつつき、年越しそばをすすり、お酒を注ぎあって。行動力のある人たちが集まっているからあれよあれよという間に用意が整って、私は時に台所を冷やかすだけで、もっぱら食べる方専門。外国で紅白を見るのは初めて。東北への気持ちを込めた歌が多くて、歌う人の特別な思いを強く感じました。ボリビアにいながら日本のお正月らしい雰囲気で新しい年を迎えることができました。カウントダウンは除夜の鐘のかわりに次々あがる花火を眺めながら。

長く続いてきた伝統や習慣はやっぱりいいなと思います。日本にとってお正月が家族が集う大切な日なら、ボリビアではクリスマスがそれにあたります。卒業式が終わって一段落した12月。オルロで水祭りのお手伝いをし(お茶を点ててきました)、ラパスでAPC申請のために大使館にいき、ついでに?仲間とチョリ―タさんのプロレス、その名もLucha Libreを見に行ったり(これが完全なやらせなんだけど、すっごいおもしろい!)、日本やカナダやタリハ(なぜ?だけど4人も集まった)からの友人と会ったりして過ごしましたが、クリスマス前にはタリハに戻りました。ここボリビアで私の家族にあたるのは大家さんオルガとその家族。やっぱり彼らと過ごしたいなと思ったのです。





24日は朝から土曜マーケットへ買い物。巻き寿司をつくります。Sushiはボリビアでも有名。先日サンタクルスで材料も仕入れてきました。寿司でなくともsushiは作れるはず!日本では作ったことないから見かけは悪いけど、味はいけるはず!中身はツナマヨ、しいたけ、ほうれん草、卵とシンプル。お醤油とわさびを用意します。オルガがボリビアのクリスマス料理ピカーナを作っているから、おつまみにしてもらいます。作り終わってほっとする間もなく、仕事のパートナー、イルセンから電話です。今から迎えにいくから、ピカーナを食べにいらっしゃいとのこと。「私のピカーナを食べれるようにちゃんとお腹をあけとくのよ」とオルガにおどされながら出かけました。ピカーナのはしご。

帰ってきたらもう11時過ぎ。オルガの息子ミゲル一家とお姉さんエルヴィラ一家が来ていました。そして12時。贈り物をあける時間。主人公はやっぱりマリア・リリアです。クリスマスツリーの下のプレゼントをとってはお母さんに名前を読んでもらい、みんなに渡していきます。自分のだったら大喜びで、ビリビリ包装紙をやぶいてプレゼントをとりだします。私もいくつか贈り物をもらいました。


翌日クリスマス。再び同じメンバーが朝のお茶をしにやってきました。マリア・リリアのお母さんフリアの作った苺トルタ。おいしい!同期のちーちゃんもおすしを食べにきてくれます。大家さんのピカーナも一緒にぺろり。そうしている間にも、コチャバンバに住む姪一家が訪ねてきます。そして昼食によばれて友人宅に出かけようとすると、今度は市内に住む姪とその子供達(マリア・リリアの従弟)やラパスに住む甥がやってくるのに出会いました。クリスマスはこんな風に親戚一同お互いを訪ねあいます。オルガも午後はバジェにいってくるわと言っていました。タリハから車で30分、ワインで有名なバジェ(Valle de Concepción)にはオルガの実家があって、お母さんと妹一家がいます。近いから週1回は必ず訪れているバジェだけど、やっぱりクリスマスにはどんなに忙しくても行くのです。



年末から訪れていたサンタクルスで仲間の活動先を訪ねたある夜。ボリビアの友人2人を交えてパティオでおしゃべりしながらでたのがsobrino/a(甥/姪)という言葉の意味でした。日本では兄弟の子供を意味するけれど、ボリビアでは従姉妹の子供をも含むとか。ボリビアは日本に比べると子だくさん。還暦を迎えたオルガが8人兄弟なのは頷けても、年下の友人が8人兄弟なのにはびっくり。兄弟姉妹の数が多ければ家族のメンバーが増えるのは当たり前。それに加えて「家族」という単位の枠が広いのです。日本のように祖父母、父母、子供(孫)の一本の線ではなく、横に広がって枝分かれしています。それだけの大人数がクリスマスに1つの場所に一度に集まれないから、大勢の訪問者!という結果になるのです。

カナダにいた頃、同じ留学生でもメキシコ人の友達が家族や親せきと密に連絡を取っている様子に、面倒くさそうと思いつつどこか羨ましい思いをしたことがあります。この友人の家を訪ねたクリスマス休暇、家族や親せきあげて歓迎してくれて嬉しかったのに、入れ替わり立ち替わり訪れる親戚との食事会や家族行事にいっぱいいっぱい。伯父と伯母、父の従弟とその家族、従妹の誰々・・・次々と紹介されて、頭がクラクラ。部屋でぐたっと休んで友達のお母さんに心配されました。その頃はスペイン語も今よりずっとあやしく、よくわからない話を理解しようと聞いているのに疲れてしまったのです^^懐かしい思い出です。

日本でも一つ前の時代のお正月はこんな感じだったのでしょうか。みんなが近いところに住んでお互いを訪問し合って、新年の挨拶をかわす。家族という単位が煩わしかった時期もあったけど(ボリビア人でもそう感じる時はあるみたいで、年の近いオルガの姪カリナとイブの夜ちょうどそんな話もしたけれど)家族と離れ、その家族を何より大切な単位とみなすラテンアメリカに住んでみると、改めて家族の意味について考えさせられます。子供の頃、長い休みの度に鳥取砂丘近くの祖父母の元を訪れ、従姉弟達と過ごした日々を思い出すと、あれほど楽しかった時はない気がするのです。大人になるとなかなかそんな時間はもてなくなってしまったけれど、友達と友情を育んでいくように、家族と新しい関係を築いていけたらいいなと思います。

今年のお正月。駒ケ根からもうすぐ2年、共に過ごして今では「家族みたいだね」というセリフがでるほど、お互いに楽な関係になった同期と、お父さん的存在うえまさん宅で迎えました。軋轢が全くないわけではなく、それぞれが小さくお互いを傷つけたり、むっとしたりすることも当たり前ながらあるけれど、それでも全員集まろう!と誰かが音頭をとったわけでもないのに、サマイパタで集まってしまうのは、家族と似通った絆ができてるのかなと思うのです(最後の極め付けは25日にうちに来た後、スクレに旅立ったのに「サマイパタにきちゃいましたー」とメールをよこしたちーちゃん)。血が家族を結ぶのなら、同期としてボリビアに来たことが私たちを結んでいます。でも、こうしてわあわあ騒ぎつつ自分の場所を確保してゆるやかな時間を過ごせるのは、「血」に甘んじることなく、お互いの関係を結んできたからだと思うのです。国外へ旅行中で来れなかった仲間。でも誰かが持ってきたベニ県の小さなお面をいつの間にかヨータローと呼ぶようになって、集合写真にもちゃんとうつっています。


1月初め帰国前の仲間が言いました。「ボリビアにきて家族の大切さを感じた。」「信頼できる仲間がたくさんできた。」ボリビアに来て増えたものリストにのせるべき一番大切なものを忘れていたみたいです。
 『真の贅沢とはただ一つしかない。それは人間関係の贅沢である。』 
サン・テグジュぺリ 「人間の大地」
                   
世界中の人たちがこの贅沢を味わえますように。


2011/12/13

12月は別れの季節


Felicidades!!

12月に入ってタリハは再び卒業式の季節。日本でいえば3月にあたり、年度の終わりとも重なって別れの季節です。
 
小学校の終業式・卒業式は子供も保護者一緒に運動場のまわりに好きに座るという、先生の日や母の日などの行事と形態のかわらないカジュアルなもの。子供たちはあちこち走り回っています。校長先生や進行役の先生達の話も聞いているのかいないのか。拍手はあるので、たぶん聞いている??私もお礼を兼ねて少し話をさせてもらいました。式は卒業する8年生によるダンス、スピーチ、歌、そして成績優秀な子の表彰には保護者も一緒に出てきて写真屋さんによる記念撮影などなどにぎやかです。これに比べると、高校はずっとフォーマル。日本のようにしーんと静かではないことを除けばそれほど形式は変わりません。連れてこられた子供たちはやっぱり遊んでるけど。

紙すき後、思い思いに作ったカード
12月最初の月曜日はHumberto Portocarrero 2高校の卒業式に招待されました。卒業する4年生は60人。他校に比べても大人数。この高校で一番関わりを持ったのは3年生のクラスだけれど、4年生にも授業をしたことがあって、それ以来人懐っこい生徒たちは校内で見かけると“Prof(先生)!”と気軽に声をかけてきます。11月半ばにこの高校で行った環境フェリア。私は3年生とコンポストやミミズの展示作り、1年生と分別した紙を使って紙すきを行うのに忙しくて4年生とは何もできなかったのだけど、彼らはゴミの分別とリサイクルについての授業を覚えていて、それをもとに分別の大切さを訴えるチラシを作り、学校の周りの家々を訪れて説明、リサイクル業者の紹介をして、ペットボトルを回収するという取り組みをしました。フェリア当日はその様子を撮ったビデオを上映、フェリアの始まる前も近所をまわって回収したとかで、ペットボトルを抱えた生徒が大勢いました。その子たちももう卒業です。

お母さんと入場(Nazaria校にて)
諸事情で少し遅れて到着すると、ちょうど卒業証書授与式の真っ最中でした。席についた早々名前を呼ばれて?のまま中央に出されると、卒業証書を渡せとのこと。5人の生徒におめでとうといって証書を渡し、握手して頬にキスを交わしました。先生達の名前が引き続いて呼ばれ、数人の卒業生に次々と卒業証書を授与していきます。ちょうど順番に間に合ったのです。こういうのもいいなあと思いました。授与式の後は、在校生のスピーチ、卒業生のスピーチ、卒業生から学校へプリンターの寄贈、保護者から担任の先生への記念プレートの贈呈、卒業生の歌と式は続きます。どの高校でも、入場は必ずお母さん、お父さんや兄弟など生徒にとって特別な人と一緒に花道を歩いて入場します。腕を組んでしずしずと。式の最後は、記念撮影。そしてみんな帽子を投げあげます。この瞬間が好き。



別れを惜しんで抱きあう卒業生
 この日、式の後は先生達のパーティーがあるということで、少し顔をだすことにしました。ところが校長先生も乗る車が向かったのは生徒宅。ちょうど運転していた先生は4年生の担任の先生。生徒宅に呼ばれたからちょっとよっていくとのこと。でもちょっとのはずが、男の子のお母さんがなかなか帰してくれません。先生が来てくれたのが嬉しくてたまらない様子。杯を重ねるにつれて担任の先生の顔も赤くなってきます。他の先生達からは何度も電話がはいり、みんな待ってるよ~と気が気じゃない。ようやく家を後にした時には1時間以上たっていました。真っ赤な顔をした先生の運転(ちょっと怖かった)で先生達の1人のお宅である会場へ。1時間半近い遅れとはいってもそこはボリビア、みんな気長に待っています。ビールで乾杯、お昼御飯を食べ終わると、もちろんダンスタイム。ボリビアのフィエスタにはつきもの。若い先生もおじさん先生も全員踊ります。CumbiaSalsa、タリハならではのCuecaChacarera。年度の締めくくりの日でもあり、先生達にとっても嬉しい日です。高校卒業はボリビアでは日本よりずっと大きな意味を持ちます。田舎に住む生徒の1人の家ではなんと牛を1頭つぶしてお祝いしているとか。パーティーの後おしかけようとみんな大笑い。きっとすごい肉の量でしょう。自慢の娘が無事卒業したお父さん、お母さんの喜びが伝わってくるようです。

   別れの季節は私にも巡ってきます。一番仲がよくて一緒に働いた先生であるDurvynが実家のあるスクレに戻ります。おばあさんが亡くなってから、家族のことが心配でまだ迷っているようだけれど、彼女はベネズエラへいく奨学金を手にしていて、5月には向こうの大学に行くことが決まっています。Nazaria Ignacia March高校の卒業式の後、前から食べたいといっていた日本料理(といってもカレーにさやいんげんのお浸し、わかめとじゃがいもの味噌汁ととっても簡単なものだけど)を用意して、小さなお別れ会を開きました。彼女にはほんとにお世話になりました。ありがとう!
 
 週末、インカ道を歩いて以来、久しぶりにハイキングに出かけました。Padcaya(パドカヤ)というタリハ市内から40分ほどのところにある村に行き、そこから2時間ほど離れたところにある小さな滝まで歩きました。雨季に入って雨続きのタリハ。この日も降られたけれどやわらかい雨で気持ちいい。メンバーはほぼ同じ。インカ道を歩いたときにいたフランシスコの代わりにオランダ人のJudit(ユディット)が加わっただけです。環境や教育に携わる人間同士として、タリハにおける外国人として、彼らとは多くの情報交換をしてきました。イタリア人のジョルダナは1月末に帰国、トムとユディットも2月には仕事の拠点をラパスに移す予定です。ジョルダナはずっと前からお茶のお点前を見たいと言っていて、急遽家でお茶を点てる約束をしました。彼女も帰国前にあちこち旅行するし、私も夏休み中にやっておきたいこともあって、2人ともがタリハにいる時間は1月の半ばほんの一時しかないことに気付いたのです。ばらばらになる前にもう一度小さな旅行をしたいねとみんなで話しました。

  そして、11月末に行われた隊員総会。

午前中に行われた総会の後は隊員の活動と日本文化を紹介するフェリアを行いました。4月に続いて第二弾。テーマはArco Iris(虹)、日本とボリビアのかけ橋です。大勢の仲間と訪れてくれたボリビア人とで作り上げた本当に楽しいフェリアになりました。それでも、総会では仲のよかった人たちの多い隊次や3月に帰国する一部の同期の挨拶などもあって、大事な時間が指先からこぼれていくような感じもしたのです。とはいっても、この感覚があるから、総会そのもの、懇親会や打ち上げ、担当した写真展示ブースの準備過程やフェリアでの発表に向けて練習してきた「情熱大陸」が忘れられないものになるのだと思います。そう、情熱大陸、結構ちゃんと弾けました(と思った)。仲間のプロ並みにうまいギターとピアノに助けられて。あとからビデオをみたバイオリンの先生も「助けてくれてるね~」と言ってました。で、これからはもう少し基本をやろうね、とも言われました。ビデオを見ると音が泳いでて、かなり恥ずかしい。でも頑張りました。DELEの勉強そっちのけで練習したかいがあったかな。一緒に音楽をするって楽しいなあと思いました。

 茶道から生まれた言葉、一期一会。一期は一生、一会はただ一度の出会いの意味です。 「茶席で、たとえ何度同じ人々が会するとしても、今日の茶会はただ一度限りの茶会であるから、 亭主も客もともに思いやりをもって取り組むべき」という千利休の教えからきています。お道具、お軸、花、風、光、におい、集う人とその心持ち、一回一回のお茶席に同じものはなく、二度と戻ってはこない時間だからこそ、かけがえのないものになります。そして、それはお茶席に限らず全てにおいていえること。別れの季節にはこの言葉がいつも身にしみる気がします。ちょっと感傷的かもしれないけれど、それでもこんなことを考える余裕があるから、一瞬一瞬の出会いを大事にしようと改めて思えるのだと思うことにしています。友人、仲間、恋人との出会い、その一方の果てに最も身近な家族、もう一方の先にはゆきずりの人があると思います。身近な人々との当たり前のように捉えてしまいがちな時間、一瞬言葉や視線を交わしただけの人々との時間、どれも同じ形では二度と戻ってこない、貴重な一期一会。死があるから生が輝くように、別れがあるから出会いがいとおしいものになるのだと思いたいです。 


 Humberto Portocarrero2の卒業式。卒業証書を受け取りながら1人の生徒が言いました。「あなたに会えてよかったです。」出会った全ての人にこの言葉が贈れたらと思います。雨が降りやまない、ちょっとセンチメンタルなタリハの夜でした。

2011/12/07

緑の樹海ロボレの旅とDELEの試験





いつの間にか師走です。11月は怒涛のように過ぎていきました。
 
UNEFCOでのセミナーが終わったばかりの11月最初の週末はサンタクルスからバス5時間、世界遺産にも認定されているイエズス会の教会群の1つが残る村サンファン・デ・チキトス(San Juan de Chiquitos)へ、一泊した後夜行列車でさらに5時間、温泉で有名なロボレ(Robore)へと出かけました。TIPNIS問題に関連して1ヶ月以上続いた移動禁止令が解け、喜び勇んで出かけたロボレへの旅は大きな期待を込めたその予想もはるかに超えた素敵なものになりました。何より一緒行った仲間のおかげで、笑いの絶えない旅に(^^)

サンファン・デ・チキトスのプラザで、ひと際目をひく外側は石作り、中は木造の教会は土着の文化を守りつつ、布教活動と共に衛生教育や基礎教育を行って人々の生活の質を高めたイエズス会の僧侶の働きを思わせる静かなたたずまい。老齢ながらかくしゃくとした神父様が時間外にも関わらず礼拝堂をあけてくれました。翌日出かけたロボレの温泉はぶくぶくお湯の湧き出る砂の穴にはまったり、大きな池のようになった暖かい水の中を魚と泳いだり、泥バックをしたりと楽しいもの。ここまでは想像していた範囲。


予想を超えていたのは、絶対に行ってみなさいと地元の人々にすすめられた、ボリビアのエアーズロックとも言われるチュチョスの赤い岩や、その麓に建つ名もなき地元の人々の彫った木の彫刻絵で飾られた簡素な教会、そしてサンティアゴ村(Santiago de chiquits)の山から望む遥かブラジルまで広がる緑の樹海でした。ゆっくり動く雲の影の下はさらに深い緑。もくもくの入道雲は雨を伴って少しずつこちらへ近づいてきます。緑が真っ青な空に映えて、乾いた土と侵食された大地、まばらに生える草木を見慣れた目には眩しいほどで、山の先端から見下ろすと、両腕を広げて緑の海へ飛び降りたい気持ちになりました。ナウシカだ、ラピュタだと騒ぎながら、飛んだり寝転んだり。そしてロボレからサンタクルスへの帰り。ふかふかと快適な夜行列車の車窓からは、煌々と輝く月明かりのもと、チュチョスの岩山とどこまでも続く樹海を眺めることができ、なかなか眠ることができませんでした。




その2週間後にやってきたのがDELEの試験。ふらふらと誘惑に負けることも多かったけれど、仕事が終わって家へ帰った後はDELEの勉強に時間に費やしてきました。試験2日前、17日にラパス入り。携帯電話をタリハに忘れてきて、何かと携帯がないから・・・と周りに迷惑をかけました。なんやかんやと世話をやいてくれた仲間たちに感謝です。早めにラパスに来たのは、日本人にスペイン語を教えなれた先生にDELEに向けた特別授業を受けれると教えてもらったから。そして、この授業が本当に素晴らしかったのです。DELEの練習問題のテキストで解いた問題の中で、わからないものや、答えに納得がいかないものを片っ端から先生にぶつけ、複雑な文の構造の分析や知らない熟語や文法事項を教えてもらう方式。加えてオーラルテストに備えて4コマ漫画の描写やライティングパートの題に応じて書いてきた作文をみてもらいました。たった2日とはいえ、木曜日午後に約3時間、金曜日の朝に1時間、昼に2時間半、また夕方に2時間という集中講座ぶり。そしてその合間は喫茶店で予習・復習を行いました。先生の熱心さと一緒に勉強する仲間の存在で、100%真剣に取り組むことができました。2日間しかないという切羽詰まった状況だからこそもてた時間なのかもしれないけれど、試験当日にはこの集中した時間が終わってしまうのを寂しく思いました。


DELEとはDiplomas de Español como Lengua Extranjeraの略称。C2レベルをトップにA1まで6つのレベルに分かれています。今回受験したのは中級レベルにあたるB2。試験代は900ボリと結構します。試験はリーディング、ライティング、リスニングとグラマーに加えて、個別に時間が設定されたオーラルの5つのパートから成り立っています。ラパスのB2受験者は15人ほど、ドイツ人やフランス人が多くいました。テキストよりリーディングがずっと簡単だったこと、少々時間配分に失敗したけれどライティングもソコソコ書けて、ほっ。休憩時間の後少し気を抜いて臨んだリスニングで・・・。練習問題では他のパートよりはとれそう!?とそれほど心配していなかったのに、まったく集中できなくて、自信が持てる解答が1つもない間に終わってしまいました。その動揺を引きずって、グラマー。難易度はテキストと同じだったけれど、確信のもてない問題がたくさんで、早くに終わって席を立つ受験者が多い中最後まで粘りました。終了の合図の時にはほーっとため息がでる思い。お昼ご飯は受験した仲間たちと会場近くにある日本料理屋「けんちゃん」でお寿司を食べて景気づけして、午後2時40分からのオーラルに備えました。オーラルは練習の甲斐あって、面接官との会話もなめらか、ちょっと笑ってもらうこともできて、細かい間違いを除けば無事終えることができました。先生によると、各パートにつき80%の正答率を求められるというから、なかなかの難関。勝負は(大きく出ても)五分五分といったところ。それでも全力をだして取り組んだもの。結果が楽しみです。


 

 試験翌日、日曜日。仲間のいる標高4000m近い村Curahuara de carangas(クラワラ・デ・カランガス)へ出かけました。El Alto(エル・アルト)からOruro(オルロ)往きミクロに乗って1時間半。途中の村Patacamaya(パタカマヤ)でミクロを乗り換え、そのミクロが一杯になるのを待つこと30分。さらに1時間半かけてクラワラにたどり着きました。日帰りのちょっと強行軍だったけれど、そこで出会ったのはアルパカとリャマとビク―ニャの赤ちゃん。よっぽど運がよくないと見られるものではありません。一人前につばを飛ばして威嚇しようとする2頭のビク―ニャ赤ちゃんのお姉さん格。でも全然つばはとんでこなくて。アルパカとリャマの赤ちゃんはとても臆病。なかなか触らせてくれなかったけど、ふわふわしてとてもかわいいのです。ボリビアではここにしかいないというリャマに似たグワナコも見せてもらいました。凶暴だというこの2頭のグワナコの世話は隊員達にまかされていて、彼らとの攻防戦は(いろんな)涙なしでは聞けない話です。囲いを壊して野菜畑に乗り込み、収穫間近の野菜食べられてしまった、蹴飛ばされて1メートルほど飛ばされた(現場見せてもらいました)などなど。モルモットに似たクイは食用。クラワラのビジネスにできないか考えているそう。一度食べてみた仲間。大きさからもやむをえず、姿焼。後で気持ち悪くなったとか。かわいがっている動物を食べる・・・まだ経験したことのないことです。それも本当はおかしなことなのだけれど。
 

クラワラの見どころの1つは藁ぶき屋根の、塩でできたような白い不思議な教会。スペインからやってきた宣教師によってキリスト教に改宗した、地元のインディヘナの人々によって描かれた絵が残っていました。ほとんど光の差し込まない小さな窓のおかげで、自然の塗料を使っているにもかかわらず、300年たった今でも色鮮やかに保存されています。宗教画はあまり好きでない、というよりよほど有名な物でない限りわからないのですが、ここの絵は聖書にしたがって教えられたことを素直に信じ、それをそのまま写し取って絵にしたような素朴なものでとても魅かれました。最後の晩餐の絵では本来なら皿には魚がのっているはずが、クイになってたりするのをみるとなんだか嬉しくなります。勝手な想像だけれど、頑固だけれど穏やかな人々の気質が伝わってくるようです。人口5000人の本当に何もない静かなこの村で、野菜作りを頑張ってきた仲間は、ぐんと迫ってくるような空を見上げ、週末にはプラザで寝ころんで本を読むととても気持ちいいのだと言いました。日本ではきっと持つことのできない時間だろうと。

翌日、午後5時半、長距離バスでラパスを発ちました。相変わらずのデモと道路封鎖でラパスからエル・アルトまでに1時間以上かかり、さらにオルロとポトシの県境で起こっている衝突のために夜中に長時間バスが止められ、タリハに着いたのは午後1時半。20時間かかったのでした。それでもさほど疲れを感じることもなく、午後からの仕事に出かけました。慣れとはすごいなと思います。このデモと道路封鎖は月末に行われた安全対策会議で提示された資料によると年間1000件を超えるとかで、ボリビアでは1日に3つ別々の場所でこれらが行われていることになります。暇というかなんというか・・・と文句も言いたくなるけれど、差別され虐げられてきた先住民をエンパワーメントへ導いた手段でもあります。タリハへ戻って次週に行われる総会への準備を進めるうちに耳にしたのは、一度は撤回したTIPNISの道路建設を大統領が再開したとのニュースでした。道路建設に反対し1ヶ月以上かけて歩いてラパスにたどり着いたTIPNISの人々とその支持者を事実上の首都であるラパスの住民が町をあげて迎え、ねぎらい、政府との交渉をサポートしたことを思うと、このままですむとは思えません。去年大荒れに荒れたガソリンの大幅値上げ。政府は今年度末も値上げを行うと宣言しており、このTIPNISの動きと相まって、今年の年末もボリビア中が大きく揺れる気がします。豊かな自然と静かな村、その一方で大きく動く時代の流れのようなものがあって、ボリビアの静と動を感じています。

2011/11/16

ボリビアに来て増えたもの・・・


横で遊んでるチェパとマリア・リリア
DELEのテキストを広げつつも、角のパン屋さんで売っているおいしいEmpanada de Quesoをかじり、コーヒーを入れに立ちあがったと思ったら、甘いものがほしくなってチョコレートを取りに行く・・・。ふと、お腹をみてやばいなーと思いました。ボリビアに来て増えたのが体重、だけでは悲しすぎると思うので、他に増えたものを考えてみました。ちょっとではなく、かなり現実逃避。


 まず、スペイン語の語彙。これは、増えれば増えるほどいいもの(^^)それでも今のところやっぱり英語におんぶにだっこしている感はぬぐえません。かの昔、フランス王室とイギリス王室との密接な婚姻関係から英語の語彙に多くのフランス語の語彙が加わりました。ラテンを起源とするそれらの言葉は同じくラテン語族に属するスペイン語にも通ずるわけで、英語の単語をローマ字読みし、すこし語尾をスペイン語風にすると意外に通じてしまうのです。身振り手振りをつけると鬼に金棒?かといって、むやみに使えるわけではなく、例えば英語のI’m embarrassedをスペイン語で言おうとしてEstoy embarazadaなどとすると「妊娠してます」の意味になって、場合によってはすごく恥ずかしい思いをするから、気をつけないとだめなのです。


 それでも困った時のなんとかで、この英語をスペイン語風にしてみるという技?はよく使っていました。けれども、ここのところDELEの勉強をしていて、なまじそれで通じる(これは必ずしも正しいスペイン語になっているというわけではなく、聞いたボリビア人が意味を推測してくれている場合が多い)ばっかりに自分で語彙を増やそうとする努力を怠ってきたのではないかということに気付きました。なんせわからない単語が多くて問題をやればやるほどもうだめだ感が増してきます。英語からスペイン語への回路は良かれ悪しかれできているけれど、スペイン語から英語への回路が出来ていないというのもあるかもしれません。辞書で意味を調べて、なーんだということもしょっちゅうです。Inmediatoが英語のimmediateだったり、legítimaがlegitimateと同じ意味だと気付かなかったりするとがっくし。しかもそれが解答する際のポイントだったりすると・・・。と書いているだけでちょっとストレス。もう少しこつこつ単語を覚えていかなければと反省しつつ、それでも1年前に比べたら語彙が増えているのは確かで、これはやっぱり嬉しいことです。


 それから、趣味。履歴書にすら趣味を書く欄はあるけれど、私は長いことここに読書、音楽鑑賞と箸にも棒にもひっかからない?なんとも非個性的なことを書いてきました。尤も読書に関して言えば、これは本当に自分にとってはなくてはならないもので、本を読むという仕事があったら絶対それについていたと思います。それでも読書は読書。何も目新しことはありません。ちょっとはスポーツをするところを見せないとだめかも、という気持ちになったときだけ、水泳かテニスをつけたしてきました(水泳はともかく、テニスは・・・)。就職して趣味欄を書く必要がなくなってから、それに茶道が加わり、そしてここへきて、バイオリンが加わったと思います。ちょっと勇気をだして、フォルクローレダンスとも書きたいところです。特に長いスカートをひるがえして踊るチャカレラは音楽ともに大好き。バイオリンで弾けるチャカレラのレパートリーも少し増えました。とは言っても、チャカレラはビブラートとリズムが命。音だけおさえられても本当のチャカレラとはいえません。まだまだ音楽が体に沁み通っていなくて、長き道程です。それでも練習が楽しいのだから、どうどうと趣味と書いてもいいだろうと思います。

  カナダから戻った後、なにか日本文化を身につけたいと通った茶道は習い始めて8年ほど。ボリビアにいる今お稽古にはいけないけれど、教室からの便りを読むにつけ、畳の部屋でお釜のしゅんしゅんいう音に耳をすませ、いい匂いのお抹茶をいただきながら、色々な話を聞いたあの時間を懐かしく思います。幸いなことに日本に帰りたいと思うことはそれほど多くないけれど(帰りたくないというのではなく)、日本に帰ってからのことを考える時、家族や友人との再会を別にすると、第一にしたいと思うのはお茶のお稽古に行くことです。そしてそのころ日本にいながら、一番恋しく思うのは、ボリビアの友人やホームステイ先の家族を除いたら、きっとチャカレラの音楽とダンスだろうと思います。チャカレラに限らず、ボリビアの音楽と踊りは働き先の学校でもほんとによく目にし、耳にしているから、この音楽を聴くだけで、恥ずかしげに、あるいは堂々と踊る子供たち、高校生たちの笑顔が思い浮かぶ気がします。


 そして最後に。先日、仲間にボリビアに来てよかったことは何?と尋ねました。その人は自分のやりたいことが見つかったと言いました。自分がやりたいと思ってやってきたことは少し違っていたこと、もっと人間と関わる仕事をしたいということに気付いたことを、具体的にこれから進みたい方向を交えて話してくれました。彼が同じ質問をしてきたとき、私は少し考えてからオープンになったこと、と答えました。ちょっと抽象的で、これを増えた、減ったと言えるものなのかはわからないけれど、オープンになったということは心の許容量が増えたということだと思います。この会話より少し前、別の友人と話していた時、彼が「今のマークがあの頃のマークだったら」もっとずっと素晴らしい仕事ができただろう、と言いました。情熱を持って現在の仕事に取り組んでいる彼もそんな風に以前の仕事を懐かしむことがあるそうです。今の自分があの頃の自分だったら。私が彼のようにはっきり言い切れるとしたら、「今の私があの頃の私だったら」もっとずっと色々なことを学んでいただろう、ということだと思います。そして、それは心の容量が増えたからだと思うのです。


チョビ。この子に会うといいことありそう。
 そんなことを考えてみると、なんだかとっても幸せな気持ちになりました。人は自分が変わった、と思える瞬間が一番しあわせなのではないかと思います。もちろん、この「変わった」感はとても流動的で、小さくて、臆病で、傲慢で、見栄っ張りで、努力が苦手で、自分に甘くて、人に厳しい、なんとも情けない自分像にがっかりすることは、次の瞬間にでも起こりうることなのだけれど、それでも人は自分が成長した、何かを得たと実感することで、物質的に豊かになったときよりずっと幸福を感じるのではないかと思います。それはきっと初めてハイハイから立ちあがって歩き始めた時(覚えてないけど)や1人でサマーキャンプに出掛けた日、初めて友達同士で夜の街に出かけた時の気持ちと似ているのでしょう。

 人と関わる仕事をしたいと仲間が語ってくれたとき、自分の仕事を思いました。大学生の頃図書館にでも勤めようかなと言った時、母はあなたみたいに本にばかり首をつっこんでいる人が図書館なんかに勤めたら本当の人間嫌いになるわよ、と言いました。逆に本嫌いになったかもしれないよと思うこともあるけれど、この母の忠告を聞いたのかどうか、結局教育学を専攻してたいそう人と関わらなければならない職業につきました。あまたの失敗と挫折の歴史だけれど、この仕事から学んだことは大きくて、やっぱりやっていてよかったなと思うのです。これからの自分がどのようにこの職業と関わりたいのか、そしてどう生きていきたいのか、少しやわらかくなった心で考えたいと思います。

 後残り7ヶ月、何が増えていくだろうといい気持ちを膨らませている横で、DELEの本が呼んでいます。本は本でも、幸せ気分もふっとんでしまう憂鬱な本ですが、今は大事な先生。もうしばらく仲良くしようと思います・・・

テラスより

2011/11/03

UNEFCOでの環境教育セミナー



 11月1日月曜日。Dia de los Muertos、死者の日の前夜祭、Dia de los Santos、諸聖人の日。昨夜、環境セミナーの最終日を終えて気持ちも軽く帰宅すると、家中にいい匂いが漂っていました。Chancho de Olla(豚の煮込み)を料理しているのです。日曜日にはエルヴィラの家でパン作りを手伝いました。こうして用意されたテーブルが上記の写真。豚の煮込みを初め、特別のパンやエンパナーダ、フルーツ、ワイン、チチャ、ビールなどが並べられています。死者を迎えるための準備をしているのです。31日はハロウィンの日でもあります。子供のころ"Trick or Treat" と言いながら近所を回ったのは懐かしい思い出。袋一杯2ヶ月分くらいのお菓子を手に入れたのを覚えています。主にプロテスタントの国々で祝われるハロウィンだけれど、日本と同じで少しずつボリビアにも入ってきていて、仮装パーティーが行われたりしています。セミナーとがぶって行けなかったけど、くりぬきカボチャを用意する本格的?なものだったらしくて、かぼちゃ作りやりたかったな。お祭り、催し物大好きなボリビア。そのうち子供が仮装して"Trick or Treat"(←Jugarrea o regalo ??)といいながら近所を回るようになるのかなと思います。


高校生とのアクティビティ
   25日火曜日から3日間、職場DDE(旧SEDUCA)に隣接する現職教師研修ユニットUNEFCO (UNIDAD ESPECIALIZADA FORMACION DE MAESTRO)で教員向けに環境教育セミナーを行いました。アララチ自然保護区へ生徒たちを10月中につれていきたかったもう一つの理由です。もともとは10月初旬に行うはずだったセミナーがモラレス大統領が教員へのコンピューター配布を決めたことで、この作業にUNEFCOの職員も駆り出され、十分な告知ができずに人が集まらず、今の時期となりました。おかげで、アララチ自然保護区についても、また先生達とやろうと思っていたアクティビティをナザリアの子たちとやって、高校生ともできるよという話もすることができました。

初日まだ誰もいない時間・・・
 今回登録者は25人。20人以上(ハードル高い!)登録者がいないと開講できないよ、と言われていたからまず一段階クリア。セミナーを行うこと自体とても久しぶり。この1年で多少学んできたとはいえ環境問題はあまりに複雑すぎて、きちんと理解しているとはとても言えません;プロジェクトの紹介と実施方法を説明する研修を初めて行った時も緊張したけれど、ちょっと理論的な今回のセミナーは新たな緊張感を伴いました。覚えきれない単語はパワーポイントに整理、言葉が足りなくても理解してもらえるように写真や図形をなるべくたくさん用いました。2時間半の授業中、聞きっぱなしでは参加者も疲れてしまうし、そもそも私のスペイン語力も限界がくるから、アクティビティを用意。そこから出てきた様々な答えをどうまとめるかは天にまかせるしかありません。とはいえ相手は先生達。手助けするのには慣れているはず(^^)困った時は任せてしまえと腹をくくったのでした。一度やってみないことには感覚がつかめないのは、体験学習の場合と同じです。

 セミナーのタイトルは”Implementación de Proyectos Ambientales en las Unidades Educativas” 「学校にける環境プロジェクトの実施」という格好いいもの。だいたいこんなことをやるつもりだけど、スペイン語でどう言えばいいかなと相談したところ友人がつけてくれたタイトルです。UNEFCOの職員がつけたタイトルが”Problemáticos de medio ambiente”「環境問題」。うーん、さすがにこれじゃ何やるかわからないよねと愚痴をいったら考えてくれたので、セミナーが伸びたのを幸い差し替えてもらいました。1日目は環境意識の高まりの歴史と世界的環境問題とその相互関係について、2日目は環境教育の概念の発達と持続可能な発展のための教育との関わり、そしてタリハの環境問題を中心に私たちが環境に与える影響とそれを最小限にとどめる工夫を考えました。3日目は年齢に応じた環境教育の理論、持続性のある年間計画の立て方や様々な具体的アイディアの紹介です。北海道のひびきの村での日々、派遣前の技術補完研修や今までに参加したボランティア活動でやってみたことが生きて、小さな工夫で色々なことができると先生達には好評でした。環境教育の仲間が作った教科書にも多くの例が載っていてこれもとても喜ばれました。一番自信がなく心配だったのが1日目の内容。初日ということもあってずいぶんドキドキしました。自分の専門に近い2日目、そして実践的な3日目は慣れてきてもいてだいぶ気が楽でした。パーフェクトとはいかないまでも、それなりに無事3日間を終えることができたのでした。


グループワーク
 全てのUNEFCOのセミナーは3日間の授業とその成果を発表するSocializaciónと呼ばれる日で成り立っています。この4日間(10時間)の授業、プラス課題に費やす12時間で1コース24時間と定められ、1つのコースを修了するごとに証明書が発行されます。4コースで一括り、1課程となり、課程を1つ終えるとさらに修了証明書がもらえ、この証明書は仕事を得る上でも意味があるものとなります。今回私が行ったのは1コース。この証明書だけで大きな力をもつことはないらしいのですが、それでも資格として提示できるようです。現在の自分の知識で1課程、つまり40時間!もの授業ができるとはとても思えないのだけれど、セミナー第二弾くらいできたらいいなと思いました。

   
グループ発表
 31日、ハロウィンの夜がこのSocializaciónの日でした。この日に向けて、環境に関するテーマを1つ選び、授業またはプロジェクトの企画をするという課題をだしました。課題は1人でやっても、グループでやってもよし、90分の授業の案でも、長期にわたるプロジェクトの案でもよい。以前にやったことがあることでもよいし、来年度にやりたい企画でもよい。例はあげたものの形式は自由としました。Socializaciónの日はたった3日後。一体どんな発表になるのか怖くもあり、楽しみでもありました。そして迎えた月曜日。参加した先生達は素晴らしい発表をしてくれました。大学の授業で企画し学校で実際に子供達とやってみたプロジェクトの紹介をした若い先生もいれば、学校緑化計画を実施した過程と困難を説明してくれたベテランの先生もいました。セミナーで学んだことを元に新しく授業案、年間指導計画を提示してくれた先生達もいます。テーマも水、リサイクル、庭づくり、電池の処理と多岐にわたっていました。


素晴らしいフェリア。右隣りが先生。
 そしてここで先生達があげた困難は、私自身が今までタリハで活動してきてぶつかった問題と同じものでした。1つの校舎を2つ、時に3つの学校が併用しているため、例えば木を植えてもぬかれてしまったり、囲いを壊されてしまったりすること、他の先生達の協力がなかなか得られないこと、学校全体で動けないことなどです。午後の学校ならば、午前と夜の学校と如何に協力するか、他教科(環境教育は主に生物の先生の仕事と思われている)の教員をどのように巻き込むか、ボリビアではとても切実な問題だと感じました。教員の労働時間を公務員と同じ8時間とし(SEDUCAの職員もこれにのっとって働いています)、それに見合った給料をだすことが何より必要だと思うのですが、こればかりはすぐすぐ変わるものでも変えられるものでもありません。今在る状況の中でどう工夫できるかを考えていくしかないなと思います。環境に関するあらゆることに少しでも興味がある先生達が、横の連携を深めていくことが必要だと思います。ちょうどセミナー3日目の朝、ある学校の先生が開催するフェリアに招待されました。高校生達がグループに分かれ、土地を見つけて種から野菜を育て、その過程を記録し、収穫した野菜を調理してフェリアで販売するというもの。全て自分たちの手で行った完成度の高いフェリアでした。個人個人でいい活動をしている先生達がお互いの活動をシェアし、協力しあえたら素敵です。環境教育のために来ている私という存在をもっと早く知っていたらと言う参加者もいて、同じ思いを先生達も抱いていると感じました。


メンバーの頭文字で店の名前も
育てたイチゴを誇らしげに

 たった3日間の授業をするだけなのに、準備にはずいぶん時間を費やしましたが、おかげで自分にとってもいい勉強になりました。受講した先生たちの発表も刺激になり、来年2月から6月までの、ボリビアで過ごす最後の学期で自分ができることを考えるきっかけにもなりました。先生達の評価アンケートも幸いポジティブで、セミナーを続けたいと書いている人もいたのでほっ。大きな反省点はやっぱり語学。準備してきたことを話す分には問題ないのですが、参加者の発表や感想を100%理解できませんでした。提出された資料を後からみてああ、そういう意味だったのかと納得する始末。適切なコメントをだすことはやはり難しかったのです。11月19日にはDELEという、英語で言えばTOEICやTOEFLに当たる、スペイン語の試験を受けます。さぼりがちなスペイン語学習のモチベーションになればと思って申し込んだけれど、なんやかやと口実をつけてあまり勉強していませんでした。後2週間。セミナーも終わったことだし、今日から追い込みに入ろうと思います!

11月2日、死者の日のお墓
通っている学校の男の子に会いました。
高いところのお墓に花を飾る仕事をしていました。