2010/09/30

タリハの春とボリビアの現実



9月21日。Dia de Primavera。春が始まる日。
タリハに少しずつ緑が戻り、町は桃の花や梨の花、白と紫のかわいい花を落としそうなくらいたくさんつけた木々で華やかになってきた。パリ風カフェの並ぶPlaza CentralやPlaza Sucreは色とりどりの薔薇でいっぱい!
 
 春の日はDia de Estudiante(学生の日)でもあり、各学校で様々な催しが行われる。
U. E Simon Bolivarでは夜行われるダンスの発表会の練習に余念がない。6年生はWakaWaka(Shakira)を踊る。1人の女の子がずばぬけてうまくて、思わず見とれた。
U.E Belgranoではお姫様のようなドレスを着た女の子たちが音楽に合わせて裾をゆらしていた。男の子達も一人前にZapateo(タップダンスのように足をふみならす)をこなしている。上の階からそれを眺めるのは中高等部のお姉さん、お兄さん。こちらはぴったりしたジーンズに肩をだした鮮やかなTシャツとモダン。踊りつかれたクラスは部屋へもどっておやつタイム。
やっぱりどこの国でも春は待ち遠しいもの。
心なしか空もずっと明るく、気温もぐっとあがった気がする。
 
そんな折、明るいニュースが飛び込んできた。
看護学校で働いている仲間からのメール。看護師としての長い経験を持つ彼女は以前からボリビアの医療事情の未熟さを伝えてくれていた。

ちょうど5日前のメール。生徒の1人の具合が悪くなり、病院に連れて行ったところ、検査の結果はかなり深刻なのに、医者の判断は事態を呑み込めていないような頼りないもの。点滴を一本を打って帰された生徒の容体はどんどん悪くなるばかり。とうとう何も話せず、動けない状態に。家族は心配しつつもなかなか病院へ連れて行かない。お金がないから。愛していないわけではなく、家族も食べて、生きていかなくてはならない。きっとよくなる、と願いを込めて見守るしかない、医者の力が圧倒的に強いこの国で看護師である友人は意見することもできないし、一時の同情でお金を出すわけにもいかない。痙攣が起きて意識がなくなり、ようやく病院へ連れていかれた生徒はいくつかの検査をうけ、入院の必要があると告げられる。けれども家族には費用が払えない。治療費が払えなければ病院もひきとめない。結局多額の検査費を払っただけで、生徒は退院した・・・

友人のメールは憤りややるせなさや自分を責める気持ちで一杯だった。
職種も違えば任地も違う。
日々出会う出来事が違うなかで感じることが異なるのは当たり前のこと。
それでも豊富な農作物と豊かな天然資源に恵まれ、物にあふれてるわけではないけれど必要なものを手に入れて穏やかに暮らす人々に囲まれて、忘れがちであったことを思い出させてくれるメールだった。

私が目にするボリビアだけがボリビアではないこと。
私が目にするボリビアは私の目に入るものにすぎないこと。

SEDUCAや訪問する近隣の学校、バイオリンやダンスの学校、大家さんの家族と過ごす時間を通して、私が知るボリビアもボリビアで、その中にも悲喜こもごもいろんな出来事がある。それは日本であれ、ボリビアであれ、同じこと。生きていれば様々なことがおこるから。日本に確実に存在する貧困問題や医療問題とボリビアのそれとの間に状況の違いこそあれ、その重みを比較するすべはない。それでも、この国がラテンアメリカの最貧国で、貧困層の生活の貧しさは日本では考えられないものであることも事実。そして貧困層の多くが先住民であることも。

意志を持って、心を働かせて現実を見つめること。


 メールを受け取った週末、オルガとその姉一家とダムによってできた湖を見にWuakataへ出かけた。タリハの町からサンロレンソをぬけ、砂利道を登ること1時間あまり、平らなアルティプラノをさらに進むと、川をせき止めている現場に着いた。オルガの姉エルヴィラの作ったくれたお弁当を食べながら湖を眺める。すぐ後ろでメェ~、メェ~という鳴き声とともに鈴の音。「Pedro(ペーター)よ。」そういったのはオルガ。人の姿はないけど?「アルプスの少女ハイジ」はオルガの孫娘マリア・リリアの、そして私の大好きな番組。



ヤギが草をはむ山の景色から目を転じると、そこには巨大なコンクリートの壁。
ちょうど食事が終わったころ、工事の人たちがやってきた。
エルヴィラの夫でドイツ人のヴォルフカンと技術者に話を聞きに行く。心よく応じて、てきぱきと質問に答えてくれた。2年がかりでとりくんできた工事。タリハ県が全ての資金を出している。段階的目標として1.タリハ市内への水の供給、2.灌漑、3.水力発電。工事は最終段階、これから雨季がくれば水で一杯になる。遠くに見える家は湖の下に消える。もちろん住民には別の土地が用意されている・・・
聞かずにいられないのは環境への影響。これも調査済みとのこと。工事現場に見えるいくつかのペットボトルとナイロン袋。これらは回収されるのだろうか。とはいえ、ゴミの量は日本の山でよくみられるあの大量のゴミに比べたらほんとに微々たるもの。そもそも消費している物の数が違うのだ。この新しく出来た湖にはフラミンゴのペアが訪れているのが観察されているという。近くの国立公園から飛来してきてるのだ。ここを繁殖地にするかもしれない。人の行為が自然界に及ぼす影響は遠く遠く、どこまで波及するのだろうか。家を捨てなければならない農民と新しい住みかを見つけたフラミンゴ。いつの日か新しいダム湖は観光地として知られるようになるかもしれない。人とフラミンゴが共存する世界が出来ていることを願う。ピンクのフラミンゴでいっぱいになった湖を想像すると、自然に笑みがこぼれた。

帰途についてすぐ、運転しているヴォルフカンの息子が声をあげた。
コンドルだ。
山の頂上。
翼を広げ、そしてたたんだ。
白い首。
谷間を見下ろしている。

その横で何かが動いた。
人だった。
カメラの望遠を通してヤギが峰を伝って歩く様子が見える。
そして、目の端を横切る影。
眼下をコンドルが飛んでいた。
獲物を狙って低く、低く。

左がコンドル、右が人!


今でもこの光景を思うと心がしんとする。
あのヤギを追っていた人々は、茶色く乾いた山間にしがみつくようにぽつんと建っていた土壁の家で暮らす人々は、ハイジが山を愛したように、彼らの山を、暮らしを愛しているだろうか。あのダムは彼らの生活を潤すことがあるのだろうか。昔はともかく、現在のアンデスの山々はアルプスのそれよりはるかに厳しい生活を彼らに強いている。選択権があったとしたら・・・それでも、彼らはここで暮らすことを選ぶだろうか。
コンドルの飛ぶ山あいで生きる人々は。
想像を超えているけれども、もしかしたら、とてつもなく自由なのかもしれない。

春が始まる日、
友人のメールは生徒が持ち直したこと、徐々に口がきけるようになってきたこと、そして、ホームステイ先の犬にかわいい子犬が誕生したことを伝えてきた。
回復と、新しい命の誕生。
春の始まりにふさわしい明るいニュースだった。

2010/09/14

仕事始め


                     

 9月、タリハの町ではSan Roqueの祭りが始まりました。祭りの圧巻は男性のみが踊るChuncho。昔、らい病患者が体をすべて布で覆って、踊りながら町を去った様子を表しています。でもなぜ男性だけが踊るのか?は誰も知りません。
祭りは2週間ほど続き、町のあちこちでChunchoが踊られ、Cañaの独特の音が響いています。

 ボリビアへ来て2カ月。配属先SEDUCA、タリハ県教育事務所は日本の教育委員会のような場所。同僚はそれぞれプロ意識が高く、仕事に一生懸命である一方、毎日のお茶の時間にはおしゃべりを楽しんでいます。求められている仕事は、ゴミ、水、そのほかの環境問題をテーマにした教育の普及とイベントの開催、教員研修と養成、生徒やその家族に対する環境への啓発といったところ。カウンターパートのセミナーを手伝ったり、学校の行事に招かれたり、タリハと近郊の町4つのゴミ収集を引き受ける機関EMATのアクティビティを手伝ったり、NGOや町唯一のリサイクル業者を訪ねたり・・・とするうちに、またたく間に日がすぎています。まだ自分の活動の方向性ははっきり定まっていないけれど、何ができるか楽しみになってきました。

 最近はSEDUCAから足をのばして、地域の学校に出かける日も増えています。
一番多く行っているのが近くの“Jose Manuel Belgrano” en el truno de tardeという学校。ボリビア一の敷地を持つ学校で、幼稚園、小学校、中高等学校が併設、同じ建物を午前・午後・夜と別の学校が使っている・・・という大規模なもの。休み時間ともなるとありとあらゆる子供たちがわあ~っと騒いですごいエネルギー。小学校で750人、高校を合わせると1300人あまりの生徒がいます。授業に行ったのはほんの少しだけれど、町の子らしく人慣れもしていて、質問も活発にでます。

ここではゴミの問題をなんとかしたいという小学校の校長の要望をうけて、掃除時間を導入することに。たかが掃除時間とはいえ、とにかく大きな学校で、用具もなにもない、しかも今回始めるのは午後の学校だけだから用具の保管をどうするか、先生は授業のある時間に来るのみだからいったい誰が監督するか、など問題はたくさんあります。それでも初めは協力的でなかった中高等学校の校長も始めることに賛成してくれ、まず先生向けのワークショップ、次に保護者向け、そして生徒むけとようやく日程が決まって具体化してきました。この話をEMATの人たちにしたところ、ゴミの埋め立て地で行っているワークショップの短縮版を一緒にやってくれることになりました。私もSEDUCAの人たちにスペイン語をチェックしてもらいながら、日本の掃除時間の様子、やり方、その理由を伝え、Belgranoの学校ではこのように始めてみてはどうかという提案をするプレゼンを作成。日本の同僚から送ってもらった写真が大活躍してます。クリアしなければならない問題は多いけれど、何より素晴らしいのは協力を依頼してきた校長先生Bettyの熱心さ。これがうまくいって、みんなの協力のもと、きれいな学校が保てるようになればいいなと思います。

 もうひとつはタリハの町から車で20分、Victoriaにある学校、U.E Simón Bolívar。これはBelgranoとはうって変わって小さな学校。基本的にはPrimaria(小学校6歳~14歳)は午前中、Secundaria(中高等学校15~18歳)は午後となっています。小学校高学年~高校生までのいくつかのクラスで自己紹介、日本の紹介、折り紙、日本語と英語のレッスンなどをやりました。みんな漢字にすごく興味をもっています。好きな言葉を言ってもらって、それを漢字で書いていくと大喜び。Amistadは友情 Te quieroは好き!、mamáはお母さん・・・などなど。あるSecundariaのクラスには校長先生と打ち合わせがあるから見ていてほしいと担当の先生に頼まれ、急きょ出かけました。国語(スペイン語)の時間とのことだったので、簡単な自分史を書いてもらいました。とっても素直で素敵な文がたくさん。スペルミスも結構あって、ほほえましい。弟や妹が生まれた時のこと、Santa Anaお祭りの思い出、耳にすると好きな男の子のことを考えるという歌について、お母さんに会ったことがない、いつか会いたいと思う・・・いろんなことを書いてくれました。

Simón Bolívarの学校はほんとに小さくて、人間関係もずっと密です。小さい子と大きい子が一緒に遊んでいたり、親がお金を出しあって、午後からも授業のある中高生に食事を提供していたり。生徒も学校内のことをよく知っています。1つのクラスで掃除をしようということになれば、さっさと箒をもってきて掃き始めたのにはびっくり。のどかな学校ですが、中高生ともなれば学校のない時間は働いています。10代の結婚も多く、17・8歳の生徒のクラスではこの子とこの子は夫婦、だからあの子は義理の兄弟で・・・などと言われることも。120人ほどしかいない中高生のなかで4人の女の子が妊娠中、内結婚している子は1人。学校中の子が兄弟だったり、親戚だったり、結婚していたり。特に高校生はいろんな意味で大人だなと感じます。

ここで環境教育として何ができるかは、まだ模索中。でもBelgranoではもう少し後ですることに決めたリサイクルができればと思っています。リサイクル業者に売れば、修学旅行の資金集めに校内で作ったパンを販売したりもするから、少しは助けになるかもしれません。残念ながらEMATはこの町に入ってないのでゴミ収集システムはなく、ゴミは各家庭で燃やしている状況。学校だけでなく、町のあちこちにナイロン袋がたくさんちらばってます。ゴミ問題はタリハの街中より深刻。まだ学校だけ、地域をうろうろする時間を作れてないので、散歩がてら様子を見て、いずれは学校から地域へ活動が広がればいいなと思います。

どれもこれもまだ始まったばかり。
あれもできるかな、これもしてみたいな、と頭の中でぐるぐる回るアイディアに振り回されている毎日。焦らず、ゆっくりゆっくりやって行きたいと思います。
今日は祭りの最終日。
学校は午後からお休み、職場もHorario continuo。普段の仕事は昼休み2時間半をはさんで朝8時から夜6時半までなのが、昼休みなしで午後2時に終了します。ここへ来てから自治獲得200年祭、Chaguaya、そしてSan Roqueとすでに3回目。キリスト教の聖人のお祭りはこれからも各月ごとにあちこちであるとか。Fiestaばかりだから、ボリビア人はあまり働かないんだと同僚は笑います。だから貧しいままなんだとちょっと自虐的に言ったりもするけれど、私はここの人たちのおおらかで、あくせくしていないところがとても好きです。

休憩中、リラックスする子供たち

踊りはこれから・・・真剣な表情

2010/09/10

日本週間


 8月末、サンタクルスで領事館主催の日本週間が開催され、日本料理、空手、アニメなど日本文化の紹介やボリビア移民の歴史の展示がされ、大勢の人々が訪れました。
その最終日、日暮豊弘・メキシコ裏千家支部長による茶道デモンストレーション及び茶の湯解説が行われました。着物を持っていてお茶をやっていた!とのことで私も呼んでもらい、デモンストレーションに正客として参加しました。少し間違いもしましたが、先生と呼吸を合わせ、流れをつくることができたと思います。
長板二つ置き薄茶のお点前をほぼ省略しない形で行ったのでかなりの時間をとりましたが、会場いっぱいに見えていたお客様は咳払いもほとんどないくらい静かに真剣に見てくれました。
デモンストレーションの後は再度日暮先生がお点前をされ、招待客何人かが舞台にあがりお茶をいただくという趣向。大使館やサンタクルス日本人会でお茶を習われている方々のお運びをを少しお手伝いしました。舞台に上がられた招待客の中にはボリビア人もたくさんいて、横の日本人に聞きながら飲み方の作法を体験していました。デモンストレーションよりリラックスしたなごやかな雰囲気です。
質疑応答では会場から、どれくらい練習したらお点前が身に着くのか、このようなお茶会はどのような時に行われるのか、といった様々な質問が出されました。
ほぼ3カ月ぶりのお茶でほっこり。準備に奔走された大使館や日本人会、サンタクルスの仲間たちに感謝です。

 今回サンタクルスに行った折、念願の日系移民の町の1つ、サンファンを訪ねてきました。短時間、しかも週末でほとんどの店はしまっていたけれど、苦労の末ボリビアでの生活基盤を築いた人々の暮らしぶりを垣間見ることができました。
昭和時代の日本のよう、と聞いていた通り。
道で会う人達とも「こんにちは」と日本語で挨拶をかわして、ゆったりした空気が流れています。
映画の中に入り込んだようでした。
茶道でお世話になった日本人会の会長さんは、写真1つの見合い結婚で海を渡ったそうで、夫の不在中は銃を持たされ、小さな子供を抱えて農地を守ったと聞きました。当時はそれが当たり前だと思っていたから、苦労と思ったことはなかったと。
サンタクルスはもともと熱帯のジャングル。そこを切り開いて畑を作った移民一世の人たちの気概や苦労を思うと胸を打たれます。
一方、ボリビアで生まれ育った二世、三世はまた違う経験をしているよう。
日本人でもなく、ボリビア人でもない。
アイデンティティの問題。

10年前、カナダからの分離を目指していたケベック州において、移民は(たとえ英語しか話せなくても)子供をフランス語系公立学校にいれなければならないという法律が通り、大きな論争を巻き起こしていました。よほど裕福でない限り、移民に私立学校に子供をやる余裕はありません。子供の宿題を見てやれない、と嘆いたアジア系移民。町から次々と消えていく英語の看板。自らの文化を守りたいのはフランス系ケベック住民も、移民も同じ。数的に圧倒的な英語系住民の中で独自性を守りたいケベック住民の将来への不安、そして自分を取り巻き育んできた環境から一時的にではなく、永久に根こそぎ離れて暮らすことを(多くの場合やむをえず)選んだ移民の切実さをひしひしと感じたものです。帰る母国のある留学生として滞在していた私には持ちようのない感情でした。

そのほんの数十年前、カナダ(アメリカ共に)ではネイティブ・アメリカン同化政策がとられていました。親から引き離された寄宿学校で自分たちの言葉を使うことを禁じられ、アメリカ的価値観を教え込まれた子供たちは自らの出自に劣等感を感じ、自己肯定感をもつことができず、多くがドラッグやアルコール中毒になったり、自殺に追い込まれたりしました。何より親から子へ伝えられてきた言語、伝統文化、価値観の流れが断ち切られたことは大きく、今でもネイティブ・アメリカン社会はその後遺症に苦しんでいます。そして同じようなことは日本初め多くの国々で行われてきたのです。自分たちの文化を、尊厳を取り戻していこうという先住民の運動の高まりと、その高い精神性と大地に根ざした生き方に惹かれ学ぼうとする人々の存在が1つの光になっています。

いずれも共通しているのは、自らのアイデンティティは自らの力で確立していかなければならない、ということ。日本という国で人種や民族や宗教といった問題に悩むことなく生きてきた私にとっては、今でも新鮮な問いかけです。社会主義思想が強く、富の分配を唱えるエボ・モラレス政権は経済的に成功しているサンファンを快く思っていないという話も聞きます。店で出会ったあくまで屈託なく明るく、さわやかなサンファンの若い人たちがどのように生きていくのか、自分はいったい誰なのだという問いにどのように答えていくのか知りたいと思いました。

土曜日の昼下がり、白いお米を抱えて、眠っているように静かなサンファンの町を後にしました。



 サンタクルス滞在中はwakawaka仲間のお家に泊めてもらいました。ホテルのように豪華なマンション。日本食をほんとにたくさんご馳走していただきました。モンテロ、サンファン、サンタ市内の仲間も一緒に泊って、互いの近況や任地での出来事について夜遅くまでおしゃべり。それぞれの職場で日々感じていること、問題点、今後の活動の見通し、ボリビアの国とその人となりについて・・・話はつきません。
その間も食べる、食べる・・・!!!
ご飯がとってもおいしくて、昆布や梅干しや佃煮と一緒に、そして最後にはお茶漬けをして、なんと3杯も食べてしまいました・・・
Estoy llena!!お腹一杯!
2日目の夜は夕食後ワインやビールで乾杯しながらわいわい騒いで、マンション内のプールへ。もう30度を超えているサンタクルス、冷たい水がとても気持ちよくて、ゆったり体を伸ばしました。同じマンションに住む、日本に住んでいたことがあるというボリビア人とその姪がやってきて、一緒に泳いだりも。
素敵なバーベキュースペースもあるので、次回集まる時にはみんなでparilladaをしよう!との企画もできました。
久しぶりに着物を着てお抹茶をいただき、白いお米を食べ、たくさん日本語を話して、Japónを感じた3日間になりました。


2010/08/30

巡礼の旅


 8月15日~9月15日まで、近辺の町から大勢のタリヘーニョがVirgen de Chaguayaへ夜通し歩いて巡礼に出かける。その多くがpromesa(誓願:カトリック教会用語。義務づけられていないよい行為の実行を、実行しなければ神に対する不敬行為になるとの条件のもとに、神に対する愛の一表現として自由に神に約束すること。ブリタニカ国際大百科事典より)を持ち、時にお年寄りも若者に混ざって歩く。
タリハから68km。休みなく歩いて10時間くらい。
タリハに来てすぐ零下5度の寒い日に農村に出かけて以来、右足の裏が痛むけれど、トライしたい。一度歩き始めたらあきらめたくないから少し不安。でも、年に一度のチャンス!

 8月21日午後4時半、総勢6人で歩き始める。初めは3人ずつ、かろやかにおしゃべりをしながら。10~14キロ間隔で、途中の小さな村に休憩所が設けられている。パンやスープを食べたり、足をマッサージしてバンソコウで補強したり。歩いた時間と同じくらいゆっくりしている、と誰かが笑う。
1つ目の休憩所から道は砂利道にかわる。
だらだら歩くよりはと、かなりのハイスピードで人々を追い抜く。
早さが心地よい。
まっすぐ続く道を歩いていると空まで登っていけそうだ。

 月が明るく道を照らしている。きれいに影ができる場所では手で影絵を作って遊んだ。道は上がったり、下がったり。下がり切った谷間には川が流れている。懐中電灯の明かりを頼りに注意深く飛び石を渡る。道の両脇は牧場、たまに牛の鳴き声が聞こえる。村にさしかかると、犬が一緒についてくる。時々、歩けなくなった人たち向けのmicro(小型バス)通り過ぎる。もうもうとたつ埃。
真夜中。気の早い雄鶏が時の声をあげている。まだ月はあんなに大きいのに。
それにしても夜の景色はなんと美しいのだろう。幸せな気持ちになる。

 午前2時、しだいに足が傷み始める。本当に完歩できるだろうか、不安がよぎる。月はさらに空高く、道は乾いて侵食されグランドキャニオンのようになった土地を削るようにうねうねと続く。木星だろうか、月に負けず明るく輝く星が一つ。いつの間にか登り時にはイチ、ニ、サン、シと歩数を数えるようになった。100を過ぎるとまたイチに戻る。真正面にある南十字星とおぼしき星を一心に見つめる。昔、航海士たちが北斗七星の見えない南半球で目印にしたという星。初めは元気に音楽をかけて歩いていた仲間たちも口数が少なくなり、黙々と歩いている。

 4つめの休憩所を過ぎたあたりから6人はそれぞれのペースに応じて2人ずつ組になって歩き始めた。2人は先に、2人は後方に、私は22歳の女の子Mercedesと一緒に真ん中を歩く。腕を組んで、痛む右足を支えてもらいながら。月は沈み始めている。 Mercedesが歌い始める。ついて歌うよう、促しながら。
Juntos como hermanos
miembros de la Iglesia
vamos caminando
a encuentro del Señor
一緒に歌うとしばし足の痛みを忘れた。

 そして、いつの間にか月が隠れ、空は満点の星。南十字星の位置はもうわからない。それでも唯一識別できる星座が一つ。オリオン座。オリオンにまつわる神話は数多いけれど、私が一番好きなのは月の女神アルテミスにまつわるもの。純潔と狩猟の女神アルテミスと海の神ポセイドンの息子で、優れた狩人であるオリオンは共に狩りをするうちに互いに好意をいだくようになる。けれども、アルテミスの双子の兄、音楽と芸術の神アポロンはこれを嫌い、遠く海で泳いでいるオリオンを指さし、アルテミスに向かってさすがにあそこまで弓を正確に射ることはできまいと挑発する。負けず嫌いのアルテミスはその挑戦に応じ、これによってオリオンは死んでしまう。悲しんだアルテミスはオリオンを星にあげ、自らが銀の馬車で空を横切るときに会えるようにしたというもの。そんな話もしながら、歩く。

 最後の休憩所で休みながら、Mercedesがこの調子でいけば後1時間あまり、7時頃にはつけるだろうという。足は文字通り棒のようで、後1時間と思いながらも心もとない。黙って歩いていると、いつの間にか始終数を数えていることに気づく。数えていると無心になった。
疲れてよれよれ・・・Chaguayaの村が見え始めた頃

夜が白々と明け始める。
足が痛んで呼吸までつらくなるよう。
大きな川を渡って、少し登るとChaguayaの町が遠くに見えた。
ここまで来てあきらめてミクロに乗ったという友人の話を思い出す。
まだ遠いのだ。
歯をくいしばるように歩く。
痛い。
20分毎くらいに休みながら歩いて、
午前8時、ようやく町に到着した。
Promesaの報告だろうか、聖母マリアまで膝をついて歩み寄り、祈りをささげる人々。
Mercedesを待って教会の中で座っていると、眠気が襲ってきた。私のpromesaはなんだったのだろう、他のメンバーはどうしているだろうか、とりとめなく考える。すると突然、声をかけられた。Parroquia San Franciscoで知り合ったアルゼンチン人僧侶Marceloだった。Chaguayaに着いた信徒たちに何かを渡していた僧侶の1人だった模様。薄い茶色の僧侶服。キリストのイメージ。会話の途中にも嬉しそうに話しかける信徒に丁寧に応対している。話をしたかったけれど、体も頭も限界。こればかりは心だけではだめなよう。また連絡する約束をして別れた。ある一つの宗教を自分のものとする生き方はどこか排他的な気がして抵抗がありつつ、それでも何か憧れのようなものを感じ続けている。一歩間違えれば小さな枠にはまった見方しかできなくなるけれど、信仰を通してこの世界の理を越え、目にみえない世界へ自身の境界を広げた人たちのなんと多いことだろう。あちら側へ心を開くどころか、隣にいる人にさえ100%心を開けない自分を思ってちょっと暗くなっているとMercedesが戻ってきた。知り合って間もない私をほとんど引っ張るように連れてきてくれた年若い友人。感謝。他の人達を待ってしばし教会前に座り、やがて眠気と空腹に耐えかねてChaguaya名物チリアーダを食べに教会前の道沿いに連なる屋台へ向かった。道を行き交う人々に目を凝らしながら、マテ茶を片手にチリアーダをかじった。おいしかった。

2010/08/12

タリハ人

Dia de Patrio

 タリハに着いて早1ヶ月。
毎日が慌ただしくも楽しく過ぎて、ボリビアという国、そしてタリハ県の豊かさに目を見張る日々が続いています。 途上国であることに変わりなく、車や洋服などは輸入物がほとんど、そしてその大半が中古品で品質は決してよいとはいえません。貧富の差は激しく、町から一歩でた農村の貧困状態は厳しいものです。交通アクセス・衛生・教育面などまだまだ課題が山積みです。

けれども、タリハ県だけでも標高3800mの乾燥しきったSamaの山近辺から、1800mに位置する穏やかなタリハ市、そして夏には気温が40度以上になる緑あふれるYacuibaやBermejoといったGran Chacoの町など多様な気候・風土に恵まれ、市場へ行くと県内初めコチャバンバやサンタクルスなど各地から届けられた豊富な野菜や果物が並び、牛や豚、鶏の肉の大きな切り身がずらりと掛けられています。
そして何より人々には明るい活気があって、自分の住む場所で逞しく生きようとする力を感じます。

Samaの山を車でひたすら登って1時間、タリハの町は遥か遠い下

小規模でかつ京都のように縦横の区画がはっきりとしたタリハの町は地図さえあれば歩きやすく、また道行く人も親切です。「ここから2ブロック行って、左に曲がって3ブロック・・・」と道の名前をつぶやき、指を折って数えながら腕をとらんばかりにして教えてくれます。職場の行き帰りの道を変えてみたり、パン屋さんや市場で新しい食べ物を試したり、お店の人とちょっとした会話をかわしたりして少しずつ慣れてきました。町が小さいこと、そしてカトリック教会の影響が大きく家族制が強いお国柄だけあって、人々はお互いをよく知っています。知り合った人の話をすると、誰々の叔母の娘だとか、甥の誰々と以前付き合ってたとか、誰々がつくっているempanada(肉や野菜をつめて揚げたパイ皮包み)なら大丈夫だ、などのコメントがよくでてきます。

タリハの旗を掲げて行進
 比較的白人系が多いせいか、タリハ人は悪く言えば閉鎖的、タリヘーニョ(Gran Chacoの人々はチャケーニョ)であることに強い誇りを持ち、中央政府、現モラレス政権には批判的です。犯罪があっても悪い人たちはみなラパスやポトシ、もしくはペルーからやってきた人たち、タリヘーニョのはずがない、なんていいます。温暖で住みやすいタリハには厳しい高地のポトシなどから多くの人々が移り住み、もとからの住民に騒動を引き起こしている模様。新しく移住してきた人たちの中にはケチュア語しか話せない人たちもいて学校現場にも様々な問題がおきているようです。                       タリハの旗を掲げて行進

音楽や食べ物・・・家族が住んでいるという人も多く、国境を接したアルゼンチンの影響は濃厚です。この間はタリハはボリビアでなく心はアルゼンチンなんだ、とオルガが熱弁をふるうので、モントリオールはフランスになりたくて独立運動をおこしていたし、タリハはアルゼンチンに入りたがるし・・・なんで私が住むところはいつも・・・?と大笑いしました。歴史的な経緯と相まって、どの場所にもそこに住む人々の思いがあり、興味深いです。

 日本への感情はとてもよく、美しくきちんとして、たくさんお金があってテクノロジーが発達しているいい国だといってくれます。これは職場の人たちや日本と関わりのあった人たちだけでなく、携帯にチャージをしようと入った小さな店でも言われたりするから、一般的な印象のようです。中国製のものは安いけどすぐ壊れる、その点日本のものは長持ちして美しいから高いけど手に入れたい、でも最近あまり入ってこないんだ、と肩をすくめたりします。中国の人たちには申し訳ないけど、ちょっと嬉しかったり、鼻が高かったり。日本の技術者、職人さんに感謝です。日本を出たとたん日本人というアイデンティティを意識せざるを得なくなる、自分の感情もおもしろいことです。タリヘーニョを笑ってもいられない・・・

町を歩けば常に視線を感じ、Chinita,Chinita(サンタクルスではオキナワやサンファン移住地が近いためかJaponesaといわれることの方が多いのですが)と声をかけられるラテン・アメリカでは、様々な人種が闊歩する北アメリカやヨーロッパの大都会とはまた違った自意識を感じます。子供には笑顔で、若者相手には「ふんっ、若造が」と笑い飛ばし、握手を求めるおじさんには失礼にならならない程度に対応しつつ・・・珍しいアジア人として優遇されたり、注目されたりする利点を仕事に生かしていかねばと思います。

 ブドウとワインの町Valle de Concepation、グアラニーやマタコの人々がその文化を守って暮らすEntre Rios、Iscayachiをはじめとする数々の自然保護公園。これから行ってみたいところがたくさんです。外国人として外から見る目と、限られた時間だけれどもここタリハで暮らす者としての内からの視点を意識しながら、ボリビアを見つめていきたいと思います。
Dia de la Patrioの日、Desfilar(行進)した後え職場の人々と