2011/07/26

冬休みのラパス~ティワナク遺跡へ




 冬休みに入り、プロジェクトの方向転換に向けて資料作りをしながら1週間が過ぎた8日金曜日、夕方5時発ラパス行きのバス(115ボリ)に乗った。約17時間。バスの旅は長時間の座っているしんどさはあるものの、バスの中で、途中の小さな村で人々の生活ぶりを垣間見れて楽しい。実際、帰りの飛行機のようなことが起こると時間的にも変わらなくなる・・・。

Japónのタグ
 ちょうど前日、タリハにある天文台に出かけた。天空まで届くハンディ・レーザー・ポインター(!)を持った観測員が実際に星を指し示しながら西洋のだけでなく、アンデスの民による星座を教えてくれた。そしてロシアの援助による巨大な天体望遠鏡で月と土星を見た後、日本が送った立派なプラネタリウムで冬の空の移り変わりを見せてくれたのだった。これ全て無料。車で連れて行ってくれたオルガの甥っ子は高校生の頃行ったとか。行きはバスで、帰りは歩きで(^^)でもいい。それも含めて高校生には楽しい体験だったのじゃないかと思う。
 
 サマ(Sama)を超え、カマルゴ(Camargo)からポトシ(Potosi)に至る曲がりくねった道の途中に明かりはなく、半月が乾いて侵食された大地を照らすばかり。タリハをでて4時間ほど。月が傾くごとに増える星の数。教えてもらったばかりのさそり座、ケンタウルス座、リャマ座が南十字星のすぐ近くで輝いているのが見えた。(もっと色々教えてくれたのだけど、理解できた範囲で・・・)サンタクルス行きのバスよりさらに深く倒れる座席から夜空を見上げながら、好きな音楽を聞いているとなんだか幸せな気分になった。

  
  10時過ぎラパス着。タクシーの運転手さんも知らない、何かの祭りで大通りが封鎖され、泊り先の連絡所まで1時間近くかけて着いた。仲間とスペイン料理を食べに行った後、サガルナガ通りに買いものへ。タリハにいれば食糧くらいにしか使わないお金だけれど、さすが高地ラパス、リャマやアルパカの可愛いセーターや色鮮やかなアイワヨなどいかにもボリビアらしい土産物がたくさん。どれも素敵で目移りする。かわいいニットのワンピースと甥っ子に縞の角つきニット帽を買った。今回はバスでゆっくり上ってきたせいか、さほど高地病で苦しまずにすんだ。途中で飲んだ薬もきいているのかもしれない。なんだかんだいってタリハも海抜1800m。多少は赤血球の数も増えているのかも!?それでもちょっとした坂を上るだけで息切れがして、その夜は早めに休んだ。


博物館入り口
 日曜日ゆっくり起きだして、ティワナク遺跡へ出かけた。Cementerio(墓所)前から出るミクロで約1時間半。到着してまずリャマ肉で昼食、博物館の見学をした。遺跡の入場料込で外国人は80ボリのところ、どこ出身?の問いかけにタリハと答え、Residencia(居住者)であることを示すIDカードを出して10ボリでいれてもらう。チケットは一枚の紙。行く先々の遺跡の入り口でチケットをチェックする係員に首を傾げられた。"Chapaquita"かと笑ってくれる人もいる。

 ティワナク文明は紀元前200年から紀元後1200頃まで続いたとされる、プレ・インカ文明の一つ。創造神ビラコチャへの信仰などインカ文明へ引き継がれてるものもある。子供の頃「太陽の子エステバン」というアニメがあった。話の筋は忘れてしまってインカ文明を題材にしていたのかですらあやしいけれど、エルドラド(黄金都市)、赤茶けた大地、ジャングルの中のピラミッド、空高く舞うコンドルやアンデスといった言葉はエキゾチックな響きをもって記憶に残っている。エルドラドがスペイン語のEl Dorado(The Gold)だと知った時は魔力が薄れたような気がしたものだった。マチュピチュの遺跡に行くことが許されていない今、ティワナク遺跡はあの頃の憧れを満たす場所だ。


 巨石文明として知られるティワナク遺跡。イースター島で、島に残された祭壇の石の積み方にインカの石積みの技術の影響が見られると聞いて以来、ますます気になっていた。エクアドルからチリ、アルゼンチンまで続く広大なインカ帝国の領土がサンチアゴから3700キロも離れたイースター島にまで渡っていたとしたら・・・。さすがにそれはあり得ないとしても、誰かが石積みの技術を伝えたとしてもおかしくない。イースター島にしげる葦は遺伝的にチチカカ湖のトトラ(Totora)と同じだとも聞いた。その石積みの技術を持った誰かは葦の種の入った袋を抱えていたかもしれない。人類学者ヘイエルダ―ルはポリネシア人は東南アジアからではなく南アメリカからの移住者だと信じ、ペルーからポリネシアの島へ筏による航海に挑戦し、成功している。彼の学説はは今ではあまり信じられていないらしいけれど、南米からの南太平洋の島へのコンタクトはきっとあったのだろうなと思う。前日連絡所で「コンティキ号漂流記」見つけたばかり。読むのが楽しみ^^。 

イースター島の石積み

ティワナク遺跡の石積み

 ティワナク遺跡はスペインの侵略後、教会や住居建設の際の礎に使われてしまったため、ほとんど原形をとどめないほど荒らされていたり、風化していたりする。しっかりとした調査を経ないまま復元してしまったため、本来の面影はないと言われたりもする。それでも残されている巨大な一枚岩で作られた太陽の門はじめとする建造物には迫力があり、きれいな石積みは美しかった。太陽の門の上部、ビラコチャ神の横に鳥人が彫られている。イースター島でモアイ像にもまして心を捉えた"hombre pajaro(鳥人)"の伝説。デザインは違うけれどもこれにも繋がりがあるのだろうか。

ビラコチャ神と鳥人

イースター島の鳥人

 遺跡は本当にとても静かだった。遺跡と並行に伸びる道を走る車は無音。風をさえぎるものもほとんどなく、訪れている観光客の声が稀に聞こえるのみ。見渡す限りほとんど何もないように見える大地を見ていると、1000年近く前に標高4000mのこの地に人々が系統だった社会をつくって暮らしていたことがとても不思議に思えた。おもしろい石があった。マイクロフォンのような役割を果たす。その前で話すとかなり遠くまではっきりと言葉が届く。集会時に、人々を呼び集める時に、使われたのかもしれない。この静けさならかなり遠くまで届いただろうと思う。

 帰りのミクロではボリビア人の親子と一緒だった。若いお母さんが息子に絶えず話しかけている。博物館入り口で渡されたチケットを取り出して話をしたりしているから、見学してきた遺跡のおさらいをしているのかもしれない。ボリビア人はあまり旅行をしない。どこどこに住んでいる親戚を訪ねることはしても、旅行という旅行をする人々は少ない。まだまだそれだけの余裕がないのだろうと思う。そんな中、卒業式前に様々な催し物をしてお金を集め修学旅行出かける高校生や、親子で近隣の遺跡に遊びにきた決して裕福には見えない母と息子を見ると微笑ましく感じる。自分の目で見て、聞いて、触って、感じる体験はやっぱり大事だと思う。プロジェクトにそういったファーストハンドな体験を組み込めるようにしたいと改めて思った。

太陽の門。6月23日アイマラの日には大勢が日の出を見に訪れた。

2011/07/06

タリハの防寒対策



冬休み直前、極寒の創立記念日 U.E. Carmen Meallaにて

 最近立て続けに怪我をしています。

 先日はwallybollという壁を使ったバレーボールをしにいったら、薬指をつき指しました。ただでさえ運動音痴、寒くて体の動きも鈍っている中、壁を使ってあっちこっち飛びまわるボールは見失うこともしばしば。増え続ける体重をなんとかせねばと出かけて行ったのですが。後半は少し慣れて、体が動くようになりました。同じグループの人にも助けられ、ちょっと頑張って今までは逃げていたボールに手をだしたらやってしまいました。幸いあまり使わない薬指。重いものをもったときだけ、うっときます。

 そして昨日は膝を酷くすりむく、アクシデント。寒いからサウナに行こう!との誘いがかかり、出かけました。このサウナ、先に行ってた友人が言うに閉まっていたそう。寒くて客がいないからという理由で。友人が交渉してあけてもらったらしく、寒いからサウナに行くんじゃないの?とひとしきり話題に。日本の温泉は裸で入る話(普通男女別だと断りをいれて)からヌーディストビーチまで広がり、友人はお母さんと最初は知らずに行ったところ男の人にぶつかられたとか。ヌーディストビーチにいく勇気なんて今の私にはまず絶対ないなと思いつつ、一番起こってほしくないねーと笑っているうちはよかったのです。客は私たち3人だけ。薪で暖めたサウナに入ってたくさん汗をかき、シャワーでそれを流して、ミストサウナへ。友人2人が先に外へでて、体をほぐしていた私がちょっと居残っていたら、入口で話しかける声。聞こえないので降りていったところ、最後の段でコケッ。真っ白でなにも見えないミストの中急いで降りたので、3段あるのを忘れて2段目で最後と思ってしまったのです。

 盛大にすりむいて血が一杯でて、サウナのオーナーのセニョーラもびっくり。アルコールをだして消毒してくれました。これが痛かったこと。ひえーってくらい沁みて。こんな怪我も久しぶりです。幸い単なる擦り傷。足を挫いたりしなくてしなくてよかったとほっ。喉が渇いたからナチュラルジュースでも飲みに行こうという友人の誘いは辞退して帰宅。帰ってからサウナではそれどころでなくなったシャワーを浴びて、大家さんのオルガがくれたクリームを塗り、ガーゼを貼ってその夜はベットにおさまりました。出かけたと思ったら怪我してくるのだから、こんな寒い時はベットでぬくぬくするのが一番よっとオルガにお説教されつつ。

 6月末から気温がぐんと下がって、天気予報でマイナス4度なんて言われる日もでてきました。一度は27日からと発表された冬休み、少し暖かくなったのを受けて7月11日からに伸ばしますと宣言されたもつかの間、再度気温が下がって結局4日からスタートで落ち着きました。途上国であるということに加えて、寒い期間が2ヶ月ちょっとと短いこともあるのでしょう、タリハには暖房のある家はそれほど多くありません。当然学校にあるわけもなく、寒くなると休みになるのです。去年来た頃は厳しい寒波に死者も出る程で、2週間冬休みが伸びて4週間になっていました。

 この寒さも2度目。去年の7月14日にタリハに着いた日は暖かくて家の前の木はピンクの花を咲かせていたのに、翌日一気に下がってマイナスに。一変に枯れていました。オフィスで震える日を過ごして、週末田舎に出かけてさらに体の芯から凍える思いをしたのでした。何年かぶりにしもやけをこさえたのも懐かしい思い出です。本当に寒い時はマイナス30度にもなるモントリオールでもここまで寒い思いはしたことがない!というほどの寒さを味わいました。建物の中に入りさえすればTシャツ1枚で過ごせる、セントラルヒーティングのすすんだカナダ。オフィスで1日体が暖まることのないまま過ごし、家に帰って尚寒いタリハ。

 というわけで今年は寒さ対策はばっちり!?

 冷える夜、大家さんは4つあるガスコンロを全部つけます。そしてコンロの一つにユーカリの葉をいれたお鍋をおいて煮たてます。ユーカリのいいにおいが家中に広がって素敵です。風邪を予防する役目もあるのだとか。タリハ県東部Gran Chaco(グラン・チャコ)は天然ガスが豊富。それもあってタリハは比較的豊かです。ガソリンでなくガスで走る車があることを知ったのもここ。ガスはとても安いのです。去年は黄色い大きなガスボンベに四角い網のようなものをつけ、それに火をつけて暖をとったりもしました。ちょっと怖いのですが。

私がはまっているのは足湯。エッセンシャルオイルを垂らしたお湯に足をつけるとぽかぽかしてきます。おばあさんみたいと笑われたりもしたけれど。シャワーをするときも洗面器にお湯をいれて足をいれるといいとアドバイスしてくれた人もいます。私の部屋の電気のシャワーは加熱力が弱くて、大層寒い。零下まで下がった日はガスで温めているオルガのシャワーを借ります。でなければ、4・5日はお風呂に入らずに過ごしているかも。

そして厚着。母の送ってくれたユニクロのヒートテックを2枚重ね、さらにセーターを着てカーデガンを羽織り、そしてコートを着ます。下はスパッツを2枚重ねてはいて、それからジーンズをはく・・・と。冬休みの職場はデスクワーク。これくらい着込まないと耐えられないのです。夜はポンチョとマフラー、厚手靴下が大活躍。

動くことも大事。本を読んだり、コンピュータに向かったりでじっとしてると冷えてきます。そんなときは掃除、洗濯、料理、何かをして体を動かすこと。ただこれにも限界はあって、芯から冷え切った体はどんなに動いても暖まらないこともあります。そういう時はたくさん着込んでベッドに入るしかないのです・・・湯たんぽがいいと聞いて探しているけれどまだ出会っていません。

最後にホットワイン。15ボリ(200円)だせば買えるタリハワイン。ちなみにチリワインなど外国産になると50ボリ(700円)から数百ボリと高くなります。ボトルを買ってきて鍋にワインとシナモンを入れてあたためます。タリハではオレンジの皮を入れるけれど、私はリンゴやオレンジを小さく切ってポンチにするのが好きです。オルガは牛乳を暖め、ティーバックをいれてチャイ風にしたものにSingani(シンガニ)を垂らすTé con té(テ・コン・テ)が好き。シンガニはぶどうから作る蒸留酒で、ワインと並んでタリハの名産です。この冬も何度か作ってくれました。

 こうやって寒さ対策をあげていくと先人の知恵みたいなものを感じます。電気をいっぱい使ってガンガン暖房をつけるのはもうはやらない!?石器時代に戻るのは無理だけど、ないならないで小さな工夫をしてちょっと地球に優しくなれる気がします。便利なものがあり過ぎるのもよしあしだなーとベットの上で冷たくなった鼻を温めつつ思ったりしています。

ボリビアに来て1年。寒さについて語るとより実感が増します。意味するのはこれから過ごす1日1日が2度と帰らない日であること。ボリビアであろうとなかろうと、同じ日なんて1日とてないのだけれど、ひどく毎日を大事にしたい気にかられます。というわけで、とにかく誘われたらなるべく出かけるようにしようと決めた矢先のアクシデント。薬指と膝と親知らずが痛むさむーい夜でした・・・


お世話になっている先生方(真ん中白髪の方が初代校長、その右隣が現校長)

2011/06/23

カルチャーショック~チリを訪れて


ハンガロア村から望む夕日

6月23日Día del Corpus Christi(聖体の祝日)。

Pascua(イースターまたは復活祭)から60日目の木曜日に祝う。聖体とは聖餐式(ミサ)で信徒に分けるパンとぶどう酒のこと。復活祭と同じようにその年によって日が変わる。今年は偶然6月24日のFiesta de San Juan(サンファンの祭り)の前日となった。これはイエスの先駆者、洗礼者ヨハネがキリストに洗礼を授けたとされる日。サンファンの祭りの日はなぜかホットドックを食べる(アメリカからきた習慣だとか?)とのことで、友人宅でソーセージの代わりにチョリソ(香辛料の入った腸詰!)を挟んだパンを食べた。現在は環境を汚染するからと禁止されているけれど、昔はこのサンファンの祭りの前夜祭でfogota(焚火)をして悪を追い払ったと友人のお父さんが懐かしげに話してくれる。1年で1番寒い日とされていたらしい。パチャママ(先住民の宗教の大地の女神)信仰と結びついているようだけれどこれははっきりしない。聖体の祝日は学校も仕事も休みだけれど、サンファンの祭りは祝日ではなく、祝い方はカトリック国でも様々なようだ。


Carnabal(謝肉祭)、Semana Santa(聖週間)、Pascua(復活祭)、そしてCorpus Christi(聖体の祝日)、Fiesta de San Juan(サンファンの祭り)とカトリックの祝い事が続く。奇しくもチリ領La Isla de Pascua(イースター島)から4日前に戻ってきたばかり。チリへの旅で考えたこと、そして帰ってからの短い4日間での出会い・・・。新しいことに目を開かされることが多くて、不思議な気持ちになる。出会いが出会いを呼ぶ。

今回のチリへの旅行はこれも思いがけぬ程ばたばたと決まった。同期から6月にイースター島に行かないかと声がかかったのが3月。アルゼンチンへの旅もあるし、さすがにやめておこうとも思ったけれど、1人だったらきっと行くことはないだろうと心を決めたのが5月。面倒見のよい同期のおかげで(感謝!)日本からだと考えられないほど割安で憧れの島へ行けることになった。6月にはプロジェクトを始めた4つのモデル校で一通り必要なことをやり終わって、新規の学校で活動を始める時期にさしかかって切りもよく。旅へ出る前の週は風邪をひいて仕事を1日休み、その他の日は学校を回っていたのでほとんどオフィスに行けないまま。それなのに旅行明けで久しぶりに出てきた日、同僚が普通に挨拶するからあれ?と思ったら、なんと教育省の決めた新しいカリキュラムが気に入らないと教師や学生がオフィス前でデモをしたため、旅行中の1週間オフィス閉鎖、仕事はなしだったとのこと。午後になってようやくそういえばチリはどうだったの?と聞かれて、お土産を取り出すことになった。

この旅はボリビアを新たな目でみるきっかけになった。アルゼンチンへは陸路でサルタへ入ったため、カラファテで物価の高さとカナダと変わらない町並みに多少目を見張ったものの、それ程ボリビアとの違いを思い知らされはしなかった。他のことで心が一杯だったこともあるかもしれない。今回は飛行機でいきなり首都Santiago(サンティアゴ)へ飛んだこと、ボリビアで1年を過ごした同期と一緒であったことで、見る目も違っていた。ある種のカルチャーショック。

夜行バスでタリハの同期とサンタクルス入りし、別の町で活動する仲間達とVilVil(ヴィルヴィル)国際空港で合流したのが午後5時。チリのLAN航空で向かった飛行機は途中、Iquique(イキケ)というAtacama(アタカマ)砂漠にある地方都市に到着、ここで入国管理局を通った。地方空港とはいえ、設備はボリビア一の空港ヴィルヴィルより豪華、入国管理も厳しく、その効率性にびっくり。隣に座っていたチリ人のセニョールが砂漠の真ん中にあるこの地方都市は発展が遅れていたため、政府が消費税を免除し交易が発達するようにしたと教えてくれる。実際多くの乗客がここで降り、その座席をサンティアゴに向かう新たな客が埋めて、人の流れがさかんなことを感じさせた。

夜10時サンティアゴ着。イースター島行きの飛行機は翌日8時発。空港で夜明かししようかと考えたものの、やはりしんどい。空港でタクシーの手配するおじさんが12ドルの宿があるというので、タクシーの値段を交渉の上、ホステルへ連れて行ってもらった。ところが、ホステルの値段が20ドルに値上がり。これではまるで詐欺。8ドル(56ボリ!)の差は大きい。交渉するもらちがあかない。すでに夜11時。疲れてもいたけれど、このホステルに泊らないことにした。この間、私たちを連れてきたおじさんは交渉に参加、2台のタクシーの運転手はずっと待っていた。ホテルの値上がりをおじさんは知らされていなかったとあとでわかる。

翌日6時半、時間ぴったりどころか5分前に迎えにきた前夜のタクシーの運転手さんが言ったことがふるっていた。仲間が昨日の私たちの苛立ちを謝罪したところ、彼は「あなたたちには怒るだけの当然の権利がある。チリにもいろんな人間がいるけれど、我々としてはチリにくる外国人に嫌な思いをしてほしくない、また訪れたいと思ってほしいと考えている。だから待っていたのだし、我々としては当たり前のことをした。」と。


サンティアゴ空港
 このプロ意識、時間の正確さ。そしてホステルから空港までのサンティアゴの町の整然とした美しさ。人々は礼儀正しくも陽気で、暖かい。車は歩行者優先でクラクションの音も聞かない。ボリビアの傍若無人な運転ぶりに慣れた私達は交差点では必ず立ち止まり、車が通り過ぎるのを待つ習慣がついている。その私達に気付くと数メートル手前で止まり、手でどうぞ渡ってと合図を送ってくる。泊ったホステルのお兄さんは夜中に突然どやどやと訪れた私に嫌な顔一つせず、荷物を運び、施設の説明をし、お茶まで用意してくれた。なんだか感動した。国境を一つ越えただけでここまで違うものかと。経済の発展ぶりに驚いたのではない。人々の違いだ。あまりにもボリビアと比べ、ともすればこき下ろすことにもなったから、私達の中でボリビアの悪口を言ったら罰金というルールまでできたほど。もちろんこれは冗談だけど、その中には私達の中に確実にある思い、仲間の1人がよく口にした「ボリビア頑張れ」という気持ちがあると思う。


ボリビアは南米最貧国と言われている国。それでもきっとアフリカなどの貧しさとは雲泥の差がある。学校に行き出すと汚れた服、破れた靴やカバンで通ってくる子供を見るようになった。その子供達の多くは学校に遅れて来がちだったり、高校まで進めなかったりと確実に貧富の差、民族による格差を感じる。でも、豊かな自然と資源に恵まれ、野菜や果物も豊富で、基本的なインフラも整っている。JICAの援助も除々に保健衛生面、教育面に集中しつつある。飢餓や貧困といったせっぱつまった問題ではなく、この国の人々が自分達の国をどのように発展させたいのかを考える時期にきていると感じる。

チリの魚市場
 学校に通う様になって、改めて教育の大切さを思う様になった。チリを訪れて、つくづく感じたのもそれ。海がある・ない、地下資源に恵まれている・恵まれていない、先住民が多い・少ないなどなど、同じ南米でも国ごとに違いはあるし、一概にはいえない。それでも結局国を作るのは人。感動したのは多分ボリビアにはあまりないサービス精神。企業と顧客、店主と客、タクシーの運転手と乗客。強いのは企業・店主・タクシーの運転手。物を、媒体を持っている側だ。例えばチリから戻って、あーボリビアに帰ってきたのだと確実に実感したのは、道を渡るとわざとのようにスピードを上げて突進してくる車、遅れても平気、搭乗口の突然の変更に右往左往する客をみてすまなそうな顔1つみせない航空会社の職員の姿(客は”Nadie sabe[誰も何も知らない]”とあきらめたように言うのみ)だった。ボリビア人が意地悪なのかというともちろんそんなことはない。個人的に接すると暖かく、親切で親しみやすい。それが仕事や商売になると、または車に乗るとどうしてこうも変わるのだろう。


ボリビア人の友人が興味深いことを言った。これこそが植民地主義の弊害。単純に言えば、白人(南米では主にスペイン人)がやってきて以来、南米の国々(南米に限らず)はその宗主国の植民地として天然資源や安価な労働力を搾取され、都合のよい市場または軍事的要地や領地の拡大の足掛かりとして使われてきた。これにより、人々の中に持てる者が強いという考えが生まれたという。例えば1950年代以前には町への立ち入りすら許されなかった先住民。1952年に初めて立ちあがった先住民の運動により、先住民や女性が投票権を手に入れ、徐々にその立場が向上していく。ところが力を手にいれてもその使い方がわからない。自分たちがされてきたことと同じことをするようになり、今やボリビア人同士で搾取しあうようになったと彼は言う。企業から運転手やパン屋に至るまで所有する者が威張り、顧客を見下す。地方政府も同じメンタリティをもっている。例えばタリハからビジャモンテスへのひどい道をどうしようともしない。だから一部を除いて観光事業が発展しない。外国から観光客を惹き付けることができない。多くのボリビア人は地方主義者で、目先のことしか見ることができず、他国との関係の中で自国を見ることができない・・・ラパス出身とはいえ、タリハにこのようなものの見方をする人が住んでいることに驚いた。

脱植民地主義はエボ・モラレスの新教育法が抱える旗印の1つ。学習と現実の生活が結びついていない前近代的な教育現場ではあまりにも観念的すぎてとても実践できそうもないと思われたし、そもそも「脱植民地化」の意味を理解している校長や先生は少ないだろう。エボ・モラレス政権も他のあらゆる政策同様、この言葉の意味をきちんと説明しきれていないと感じる。一貫性のないモラレス政権だけど、それども以前より自由にものが言えると友人はいう。いずれにしても、このメンタリティの変換(それを脱植民地化と呼ぶかどうかは別にして)が行われないとこの国は変われない気がする。教育はその要だ。

昼のニュース。教育省の大臣が長期休暇に宿題をだすことは禁止、出した教員は罰せられると話している。学校は半日制、行事や祝日、祝日の前夜祭でしょっちゅう授業がなくなるボリビアにおいてこの禁止令。授業をする同じやり方のままで宿題をだしたからといって何かが変わるわけではないという点では正しい。ただ、教育の大切さを軽んじている気がしてなんだかしっくりこない。宿題は結局、どんな宿題を、何を意図してだすかという先生の意志しだいで意味があるものにも、ないものにもなるのに。

掃除・分別・リサイクルのプロジェクトを始める最初の教員向けのプレゼンで必ず口にしたのが、ボリビアには日本初め先進国が犯してきたのと同じ間違いをしてほしくない、という思いだった。自然から搾取するのではなく、共に生きつつ人々の生活をもよくしていくオルタナティブで新しい道を見つけてほしいと。その道が具体的にはっきりと見えているわけではなく、これがその方法と伝えることはできないけれど・・・3Rの啓発はその助けになると思っていた。

そんな中少しずつ大きくなる違和感。リサイクルは大切ではある。けれどボリビアにはそれ以前の何かが必要なのではないかという思い。ある高校生が紙は木からできていることを知らなかった時のショック。「環境に優しい」というのは全世界の歌い文句、気候変動もホットな話題だ。ボリビアも、少なくとも私の知るタリハはその御多分に洩れない。環境意識が高いと評することはできるけれど、何かが違う。リサイクルの推進はリサイクルさえすればいいといういい隠れ蓑になる。それ以前の大量消費、自然からの搾取にまで目がいかなくなる。紙が木からできていることすら知らなければ、紙をリサイクルする理由をどうやって理解できるだろう。しかも紙のリサイクルにおいては大量の水を消費する。紙に限らずリサイクルにかかる水や電力の消費が環境に与える悪影響は議論の的になっている。そこまで視野にいれて新たな道を模索するためには・・・。プロジェクトの、ボリビアでの仕事の在り方を問う思いが大きくなる。考えすぎるとにっちもさっちもいかなくなるけれど、少し方向転換しなければならないことを感じる。


未だ堂々巡りを続けているけれど、チリへの旅で受けたカルチャーショックはボリビア人のメンタリティから自分のプロジェクトの意義までまた新しく考えるきっかけになった。「脱植民地化」という言葉は昔よく目にし、使いもしたから、ボリビアの教育法で目にした時は懐かしくさえ感じた。そしてあの頃は観念にすぎなかったことを実感している。今だって同じようなものだけれど、実際に「途上国」であるボリビアで教育現場に少しなりと携わると多少現実感が伴ってきたように思う。アメリカによる開国や敗戦が日本人のメンタリティに大きな影響を及ぼしたように、植民地であったことやその後のアメリカ合衆国の干渉はボリビアはじめラテンアメリカ諸国に多大な影響を及ぼしているのは当然のことだと思う。ボリビアがまるでヨーロッパの一国のようなチリを追いかける必要は全然ない。たったの1週間、サンティアゴとイースター島にいただけではわかりようのない歪みが急発展したチリにはきっとあるだろう。ボリビア、チリ、アルゼンチン・・・あまりよく知らない南米の歴史をもっと知りたいと思った。

今日はボリビアへきてちょうど丸1年。
実り大きかった1年。
チリの発展ぶりにびっくりしたけれど、ボリビアに帰ってきてほっとしている自分がいる。職業的なサービス精神がないからこそ、見せかけではない真の暖かい心と笑顔に触れられるボリビア。
ここへ来る機会を与えられたこと、ここへ来ることを選択できたこと、全てに感謝したい。


朝日~日本からラパヌイへ


2011/06/06

試行錯誤は続く・・・

出番待ち
 今日はDia de Maestro、先生の日。生徒達が歌い、踊り、花やプレゼントを渡して先生に感謝の意を示す日。プロジェクトを始めた学校に招いてもらった。

 日本にしてみたらそれほど大層なことにも思えないシステムなのに、ボリビアで始めようとするとなぜこんなにも大変なのだろう。やっぱり教員同士のコミュニケーションが少ない上、協力して何かをしやすい体制ができていないからだろうと思う。

 定期的な職員朝礼や会議がない。会議室どころか職員室がない学校もある。先生は出退の時間を記録する台帳にサインする時、または10分の休憩時間に、秘書室と職員室が一緒になったような部屋にやってくる。日々の連絡事項を伝えるのはこのときくらい。休み時間に教室から降りてこない教員もいるから全員の先生に周知徹底することは難しい。そもそもほとんどの教員は用事でもない限り、自分の授業がある時間にしか学校に来ない。授業時間外に学校へきて別の仕事をするなんてことはよほど意識のある先生でないとやらない。小学校ですらそうだから、高校になると更にひどくて、講師だけで学校で成り立っているようなもの。もちろん、連絡事項をボードやノートを使って知らせる工夫はしているけれど、そんなの聞いてなかったわよという先生も多い。先生同士で教えあったり、情報を交換したりする機会は限りなく少ない・・・。

 これはボリビアの先生達のせいだけではない。先生がじっくり仕事に取り組める環境が整っていない。働き始めたばかりの先生の給料は月1200Bs、25年間働いたベテランの先生でも4000Bsに満たない。日本円にすれば、4万5千円ほど。いくら物価が安いとはいっても、生活に余裕はない。多くの先生は子供を抱え、学校は午前か午後にしかないから迎えにもいかなければならない。お昼ご飯が一日の中で一番大事な食事だから、それなりに気合いをいれて料理もしなければならない。授業以外の仕事を求めるのはやっぱり酷だと思う。せめて、午前の学校なら午前中、午後の学校なら午後の間は先生達が学校にずっといて、仕事に専念できるシステムができればいいのだけれど。

 そんな中、協力してくれる先生達には本当に感謝したくなる。始めたばかりの頃、学校にいくと2人の先生が軽く言い争っていた。1人の先生が中身のジュースが入ったままでぐちゃぐちゃになっているのだからと、分別されたプラスチックの袋をみんなEMATが回収する埋め立て地行きのコンテナに移した。もう1人の先生はそれでもせっかく分別できてるんだから、今回は洗ったらいいじゃないと力説。そして自分で何百枚ものジュースの袋を洗い始めた。なんとかなるんじゃない、と初めて思った。
校長先生や担当の先生たちと集まって対策を考える。校長先生にやる気があること、一所懸命な先生がいること、これがなければ何も出来ないことをしみじみと感じる。この対策を考える会?も多くの場合授業時間に行われる。校長先生は気軽に担当の先生を呼び出してくれるけれど、その間生徒はどうしているのだろうか、気が気ではないから、なるべく昼休みに合わせて出かけ、手短にすませられるようにする。


授業そっちのけ。楽しい!?
 掃除時間は10分だけ、それ以上でもそれ以下でもなし、ゴミは必ずこの時間にコンテナまで運んでくるなど、最低限のルールを確認。掃除時間にはわかりやすいように音楽をかけるのはどうかな。子供たちに分別はやはり難しい。教室で先生たちがチェックをしてくれたらいいのだけれど、そこまでに至るには時間がかかるから、どうしてもコンテナについて分別を手伝う人が必要だ・・・誰が適役だろう?上級生?用務員さん?フォローアップにアンケートをとろう。ジュースの袋はちゃっと中身を抜いて、皺をのばてもって来るように先生達に言おう。少しずつ話し合って、改善案を考える。

 こうして決めたことを一番たくさんの先生たちが学校に来る日、休み時間に集まってもらって伝える。いない先生には秘書の女の人から伝えてもらえるようにお願いする。プロジェクトを始めるからとゴミと分別の授業を行い、子供たちに堂々と開始宣言をしたのに、先生たちが責任をもってイニシアティブをとらなければ、子供たちもそれでいいのか思ってしまうよと(自分が聞いたらかなり耳の痛いことを^^)言ってみる。このあたり、ボリビアの人達はとても素直。うなずきながら聞いてくれる。(聞くだけ・・・が多々なことは横において。)


 それでも、少しずつ状況がよくなってきた(と思う)。休み時間、掃除の時間、放課後、様々な時間に学校に顔をだしてみる。子供達に話を聞く。先生に声をかける。熱心な先生は最初から本当に熱心にやってくれて、頭が下がる思いがする。ほとんどの教室にゴミ箱がそろった。音楽が鳴り始めて少しするとごみ箱をもった子供達が降りてくる。まだ全クラスではないし、分別も完璧ではないけれど、数が増え、3種類のゴミ箱を抱えている。コンテナの横に、常に分別を手助けしてくれる人がついてくれる。何より担当の先生にどう?と聞くと、ましになってきたわと、笑顔がある。



 一週間後、アニセトアルエ午後校とウンベルトポルトカレロ2校が始めた。アニセトアルセ午後校は校長先生がかなり厳しい人。私が特に何をせずとも、学校でできることをしっかり把握して、先生を、生徒を動かしている。ゴミ箱がまだ揃えられていないから、今はプラスチックのみを分別すると決めた。以前NGOが入ってやっていたプロジェクトの名残で、子供達はジュースの袋を最後まで飲みきり、しわをきちんと伸ばしてクラスごとに集めて持ってくる。たまに顔をだして、こちらがアイディアを盗む、3つめのゴミ箱をそろえ、紙もリサイクルしてくれるように声をかける、くらい。

 ウンベルトポルトカレロ2校は、さすが高校。ゴミ箱は生徒たちがお金を出し合い、小学校と同じ紙用、プラスチック用のゴミ箱に加え、コンポスト用に有機ゴミをいれるゴミ箱も用意した。正直これにはとてもびっくりした。元々上記の小学校と同じ日に始める予定を一週間延ばしたのは、ゴミ箱が揃わなかったから。生徒に用意させていると聞いて、とても無理だろうと思っていたら、きちんと揃えられていた。あるクラスは段ボール箱にナイロンを張って手作りし、別のクラスは四角いアルミ缶を用意するなど様々だ。用務員さんがしっかりしていてコンテナの管理をしてくれる。問題は全てのクラスの生徒達が毎日ゴミ箱を教室からもっておりていないこと。つまり肝心の掃除が毎日できていない。分別もクラスによって相当差がある。それでもここまでできるなら、先生の声のかけ方一つで変わる気がする。


暑い!
 そして、この学校で有機ゴミからコンポスト作りを始めることになった。町外れにあるから庭が広い。コンポストはコンポストで、作った後のメンテナンスが大変。多少心許ない。けれど生物の先生は一番責任感があってまとまりのあるクラスを選んだし、成績にもいれてしっかりやらせるから大丈夫と請け合う。一番やってみたかったこと。オルガに”tus hijas”と笑われる、以前もらったカリフォルニア・ミミズはかなりの数に増えている。いよいよ出番!?最初の授業はコンポストの説明をしてから、寝床づくり。念のためミミズを使うのと使わないのと二つ。寝床はこんな感じでいいの?水分はどれくらい?本当に温度があがるかな?ミミズは冬休みを生き延びれる?どうやって世話していけばいい?など?マークだらけ。でも、もしいいコンポストを作れたら、花や野菜を育ててメルカドで売ることもできるかもしれない・・・

リサイクル業者が回収にきた。計57Bs
 1年目はお試し、実験、試行錯誤。冬休みに入るまでに1サイクルやってみたいと思っていたことがなんとかできそう。2年目はやってみたいという学校を募ること、継続してもらえるよりよい方法を考えること、ただリサイクル業者にもっていくのでなく、コンポストや紙作りをすること、そして・・・と夢想は続く。4校とも今はそれなりに改善していっているようだけれど、まだまだ問題がでてくる気がする。これから長く続けていこうと思えば、システムとしては弱いし、校長先生と担当の先生がいなくなれば、2・3人のとても意識のある先生が続けるだけになってしまうだろう。ゴミとリサイクルにこだわらず、色んな教科と関われる方法をもっと考えないと。


 今回この掃除、分別、リサイクルのシステム作り(便宜上プロジェクトと呼んでいるけれど)を始めて、自分が学ぶことがとても多い。自然と調和して生きるということ、それは言葉でいうととてもきれいだけれど、現実には虫やみみずやカビ、その他もろもろの生き物、今まで袋にいれて蓋をしてきた、ほうっておけばすぐ腐って臭うゴミや動物の糞と顔をつきあわせることでもある。環境教育の一環としか見なしていなかったこのプロジェクトを通して、人間のとても本質的なことを伝えられることを今更ながら思った。あるクラスは先生が掃除を罰として用いていた。それでは、一番大事なことを子供達が学ぶことはないだろう。肝心なことを伝えきれていなかった。きれいに掃除をした後の清々しさ、ものを大切にする精神、自然の移り変わりを敏感に感じとる心、人をもてなす気持ち・・・。8年近く続けてきた茶道の基本でもあるのに、普段の生活と結びつけて認識できていなかった気がする。


 子供達の発表は続く。1年生から8年生まで学年ごとに。マイケルジャクソンの曲に合わせて踊ったのは4年生。チャカレラは3年生。5年生の男の子は慣れた態度でフォルクローレの歌を歌い上げ、上級生はボリビア各地の伝統舞踊を披露した。発表は1時間半ほど。11時に子供達が帰った後、先生チーム対お母さんチームでバスケの試合。観戦していたフランス語の先生は先生チームは体が重いな、おかあさんたちは若いと失礼な感想をいっている。そして昼食会。Picante de pollo (ちょっと辛いソースを絡めた鶏肉)。お腹いっぱいになった。宴の後Patioをチェック。ゴミはやっぱりある!けど・・・以前よりずっと少ないような。そう思うことにした。




2011/05/30

プロジェクト始動!?




 5月。Proyecto de Concienciacion de 3Rと名付けたプロジェクトが正式に始まった。12月に校長先生に話を持って行って、2月に初めての先生向けのワークショップを実施してからの長い道程。

 プロジェクト紹介の最初のワークショップは全部で6校で行った。その中から4校を、モデル校として始めることになった。ここでやろう、ここではやらないと決めたわけではなく、JICAの援助で大型ゴミ箱を購入することになった時、ある程度準備のできていたのがこの4校だったっというもの。

U.E Aniceto Arce turno mañana (アニセトアルセ午前学校) 小学校1~8年生
  ー カウンターパートが校長を紹介してくれた学校。町中の中心部にあって庭はなく、すべてコンクリート詰め。
U.E Anceto Arce turno tarde(アニセトアルセ午後学校) 小学校1~8年生 
  ー 建物をシェアしているのだから午後の学校でも始めた方がいいという午前の学校の校長の希望で話をしにいって、了解してもらった学校。
U.E Carmen Mealla turno mañana (カルメンメアジャ午前学校) 小学校1~5年生
  ー カウンターパートの紹介。校長先生はオルガ(大家さん)の友人でもある。町中だけど、川沿いにあって、庭になりそうな小さい敷地がある。
U.E Humberto Portocarrero 2 (ウンベルトポルトカレロ2学校) 高等学校9~12年生
   ー 先生向けの研修を行った学校の生物の先生が自分が教えている別の学校でやってみないかと校長先生にも話を通してくれて、始めることになった学校。町外れにあって大きな庭がある。

 プロジェクトは何度か書いているけれど、いたってシンプル。掃除時間の導入、ゴミの分別、リサイクル。最終目標は有機ゴミからコンポスト作りで、私がとてもやりたいことだけれど、これは第二段階。先生向けの研修はタリハのゴミ問題と現状、プロジェクトの説明と目標、日本の学校での取り組み、タリハの学校での始め方を紹介するもの。私のプレゼンの後は先生たちに意見を言ってもらう。学校全体で取り組まないと意味がないこと、一人ではできないこと、どの先生にも協力してもらわないと成り立たないことを伝えるから、先生たちも言いたいことをばしばし言う。

 タリハ市の人々の環境意識は高い方だと思う。実践できているかは別にして、ゴミはゴミ箱へ捨てよう、環境を守ろうといったことはよく口にする。だからプロジェクト自体は好意的に受け入れてもらえる。ただそれに伴うもろもろの仕事が自分たちにふりかかるとなると話は別。それを受け入れてもらわなければならない。保護者が文句を言ってくるかもしれない、学習時間が減る(月に2・3回はある行事を減らせばいいと思うのだけど。なんせ全てを学校で祝うのだ、ここボリビアでは。カーニバル、タリハの日、海の日、父の日、母の日、先生の日。行進したり、ダンスしたり。もちろん授業はない・・・)など尤もな意見がでる。それに対して、保護者説明会を行う、時間は10分だけ、など1つずつ答えていく。上記の4校以外の何校かでも同じ研修を行ったけれど、最終的にはどの学校もやってみようということで研修は終わる。

 この研修後がなかなか進まなかった。2・3月はカーニバルに向けて学校は大忙し。プロジェクトに割く時間はない。その後教員のデモで学校が10日近く休みに。実際に動き始めたのは3月の終わりだった。それでもちょこちょこ学校へ出かける中で、先生たちのつくる保健委員会があったり(なかったり)、生徒会があったり(なかったり)、Portero(用務員さん)が責任感ある人だったり(ない人だったり)といったボリビアの学校の様子、4つの学校それぞれの特徴がわかってきた。

 3月の終わりから4月にかけて、特に学校内で協力してくれる先生たちを見つけることに費やした。保健委員会のある学校ではその先生たちと、ない学校では理科課の先生たちを中心に・・・何度もミィーティングを繰り返す。時に校長先生を交え、時に全体の先生を集めて話をしながら。頼りになる先生が誰なのかが少しずつわかってくる。私にとっても手探り状態。4校で始めたのはとてもよくて、一つの学校でうまくいったことを別の学校にも適用できる上、校長先生や委員会の先生もあっちではどんな感じなの?とライバル意識ではないけれど、ちょっと気にしたりもする。この間、他の先生たちには各教室におく3つのゴミ箱を用意してもらう・・・ことになっている。

 4月後半から5月にかけて生徒向けの授業を開始した。アニセトアルセ午後学校だけ以前に入っていたNGOのおかげでベースはできているので、授業はしない。残りの3つの学校で計38クラス、約1500人相手に授業をした。小さい子供には紙芝居を使って、大きい子供にはパワーポイントで写真を見せながら。最後に必ず学校ででるゴミ(本物)とゴミ箱3つを使って分別の仕方を実践。高校生向けにはゴミの分解年数など知識的なことも入れる。年齢によって少しずつ内容を変えているものの、同じことを38回繰り返すとさすがにあきる。けれど、子供・生徒相手に授業できるのは楽しかった。

珍しい外国人ということもあって、熱心に聞いてくれる。クラスごとに特徴はあって、賑やかなクラス、とても静かなクラス、一生懸命きいてくれるクラス、私語の絶えないクラスなど様々だけれど、反応は良好。もちろん実際にできるかは別の話だけれど、このあたりはたぶん日本も同じだ。しゃべる分には問題ないけれど(38回もするから!)、生徒の、特に小さい子供のスペイン語はなかなか理解できない。彼らは手加減せず、容赦なくしゃべりかけてくる。別の言葉に言い換えてくれたりしない。ふーん、そうなの、よかったね、など感覚で返事するけれど、答えのいる質問だと大変だから、授業には必ず先生が一緒に来てくれるようにお願いする。時にそれを口実にする。先生によっては授業がないなら、これ幸いと帰ってしまったりもするから。このあたりのことは来たばかりの頃に行っていた2つの学校で経験済み。


 毎週月曜日、学校で”Acto Civico de Saludo a Bandera ”と呼ばれる日本でいう朝礼のようなものがある。運動場に整列、国旗へ敬意を示し、国歌を歌ったあと、先生たちからの話や生徒会からの連絡がある。学校によって少しずつ形態は違うけれど、タリハの学校ではたいがい行われているよう。このActo Civicoにおいて、5月9日にアニセトアルセ午前学校とカルメンメアジャ午前学校で、16日にアニセトアルセ午後学校とウンベルトポルトカレロ2学校で、校長先生がプロジェクトの開始を宣言した。私も壇上に立ってよろしくと挨拶する。分別とリサイクルを通してゴミの量を減らし、今まで取り立ててばかりきた大地に自然な栄養分を返していくことで、環境に害を与えない学校を作っていこうと。

 ・・・と書くと大層格好よく聞こえるけれど、現実は甘くない。一週間早く始まった二つの小学校。まず2ヶ月もあったのに?ゴミ箱が3つ(段ボール箱でよい)揃っていないクラス、掃除時間と決めた時間に掃除をしないクラス(別の時間帯にしたり、全くしないクラスもある)、分別が全然できていないクラス、ジュースが入ったまま捨てられてぐちゃぐちゃになったゴミ箱をコンテナまでもってくるクラス、なぜか1時間も使って大掃除するクラス・・・。単発もののイベントに慣れているボリビアの先生たちは毎日続けるということが想像できないよう。これも一つのイベント、なんとなく過ごせればいいと思っている先生も少なくない。数日後経過を見にいった日はため息がでる思い。中心になって真面目に取り組んでいた担当の先生は全然なってないと半分投げ出しかかっている。準備段階から予想はしていたものの、やっぱりかという感じ。道程はまだまだ長い。それでも、担当の先生がこれではだめだと思ってくれただけいいのだと思う。これは違うと感じてくれるから、先が繫がる。まだまだ始まったばかり。

Acto Civico de Saludo a Bandera